第107話 罪

将は最初それを、聞き違いかと思った。次に、オヤジ世代の男、という意味なのかと思った。だから、

「どこのオヤジ」

と訊き直した。

瑞樹は一瞬、将の目を見て、息を飲んだ。白い喉がごくっと揺れるのが見える。が、すぐに視線を下にはずした。そして

「うちの……オヤジ」

と呟いた。将が『えっ』と言う間もなく、

「義理の父親」

と付け足すと、また視線を将の瞳に戻した。見開いたその目からは、大粒の涙が流れ落ちた。

それはもはや粒の形もとどめないほど大量で、頬には涙の筋が光って見えた。

将は……出そうとした声がひっこんでしまい、それが腹の底に鉛のように重く沈んでいくのを感じた。

舌はおびえたように上あごにくっついてしまったっきりだ。

しかし、瑞樹のほうは、涙を流しながらも、大きな秘密を思い切って将に分け与えたせいで多少は楽になったのか、話を続けた。

「あたしね……、小5からオヤジにずっとヤられてるんだ……」

逆に大きな秘密を与えられてしまった将は、その重さに辟易していた。

たしかに、以前にも瑞樹自身から

『義理の父親に迫られて困っているから家に帰りたくない』

と打ち明けられたことがある。

だけど、実際に関係があったとは……しかも小学生の頃から。

もちろん、義理の父親だから、瑞樹と血のつながりはない。

だけど、瑞樹の母親と結婚している男が、その娘に手を、本当に出すなんて。

あまりに長すぎる間を置いて、将はやっと掛ける言葉を探し出した。

「おかあ……母親には……?」

瑞樹は諦めたように首を横に振った。ウィッグの黒髪が左右にゆらゆらと揺れる。

たしか瑞樹の母親は、小さなスナックを経営している、と聞いたことがある。

「……言える訳ないよ。……あのヒト、オヤジにぞっこんだもん……。オヤジと結婚してようやく母親らしくなったぐらいだし……」

瑞樹はさらに、小さい頃から母親に虐待を受けていたことを話した。

瑞樹が物心つく前に離婚した母親は、手が掛かる幼児をもてあまして、しばしば虐待に及んでいたというのだ。

幼かった瑞樹は、たびたび

「お前のせいだ。お前のせいでっ!」

と大酒を飲んだ母親に殴られ、蹴飛ばされた。食事もろくに与えられなかったことも多い。

何が『瑞樹のせい』なのかわからなかった瑞樹だが、成長するに従って、母親は、男に逃げられるたびに荒れるのだ、ということが分かってきた。

そして、瑞樹が小5のとき。寂しかった母親は、ようやく男と結婚することができた。

母にとって年下だった男は、瑞樹の母親と結婚するなり仕事を辞め、家でぶらぶらしているという『ヒモ』に徹するのだが、瑞樹にとってはこの男が来たおかげで、母親の暴力が止んで、瑞樹にも優しくしてくれるようになった、と初めは感謝していたほどなのだ。

しかし、瑞樹が小5の夏。男、つまり新しい父は家にいた瑞樹を犯したのである。

 

 
そんな告白を聞きながら、なぜか将はぼんやり瑞樹のウィッグの毛先を眺めていた……。

考えが……そこにいかないようにコントロールしているのに、どうしても行ってしまう。

そこ、とは。瑞樹の義父同様、自分も瑞樹を、瑞樹の性を弄んだ共犯者なのだ、という事実。

毎晩のように、瑞樹のその部分に欲望の塊を挿し入れて、自分を満足させていたという、現実。

それはいつのまにか将の背中にのしかかり、将の心を責めた。

 

 
9月に将のマンションを追い出された瑞樹は、再び援交などを繰り返して、家に戻らないように努力していた。

同じようなことをするわけだが、援交相手は少なくともお金をくれる。エイズが怖いのか、たいてい避妊もしてくれる。

それに対して義父は、成長した瑞樹に、どんどん変態行為を要求するようになってきた。いわゆるSM行為である。まだノーマルで金をくれる分、援交のほうがマシだったのだ。

10月に前原から声をかけられるまでそれが続き……10月から11月に前原が逮捕されるまで、瑞樹は前原の家の離れで過ごした。

前原の家を急に追い出された瑞樹は、将に髪を切られたこともあり、嫌々ながら家に戻っていたのだ。

受胎したのはおそらくその頃だろう、と瑞樹は言った。

そんなわけで、瑞樹が妊娠した体を抱えて、スキー研修に参加した理由は、1つは研修中は義父と離れられることだった。

もう1つは。

「スキーで、できれば子供を流産したかった」。

もういい。やめてくれ。将は顔をこわばらせながら、心の中で叫んでいた……。

 

  
気がつくと、二人とも沈黙していた。

瑞樹の涙は乾いていた。今まで背負ってきた重いものを吐き出したせいか、うつむきながらも、ほんのすこしホッとしたようすが見える。

逆に将は、もてあますほどの事実を聞かされて、またその事実でいやがおうにも自分の罪を思い出し、その重さにあえいでいた。

瑞樹を弄んだ罪。そしてそんな瑞樹を放り出した罪。

瑞樹の苦難の半分は自分の責任だ――将は良心が繰り出す責め苦に、息もたえだえになりそうなのをかろうじて持ちこたえていた。

せめて自分の罪を軽くしたい。いつしか、それだけを願っていた将は、瑞樹に答えた。

「わかった……。サインはするよ」

瑞樹は、目を見開くと

「ありがとう。……ごめんね。本当にごめんね、将」

と再び涙をこぼした。

『謝るな、謝らないでいい』。将は、心の中で懺悔していた。

瑞樹に……いまさらだけど、何かできることはないのか。

将は、とにかく自分の抱えた罪の重さを軽くしたくて、必死で考えた。

「今は……どうしてるの?」
「小山にお婆ちゃんがいるんだ……。今週はそこにいさせてもらってる。

休みのときは、できるだけ、そこに行くようにしてるから……でも、来週は学校があるし」

「そうか……」

相槌を打った次の瞬間、考えが浮かぶ。

将は、瑞樹に、傍らの引き出しをあけさせた。そこにはマンションのキーや車のキーがついた、キーホルダーが入っていた。将はキーホルダーからマンションの鍵だけを抜くと瑞樹の手の中に落とした。

「俺、2週間も入院するらしいから、その間、俺のマンションに泊まれよ」

瑞樹は丸く見開いた目で、手の中の鍵と将の顔を見比べながら、

「……いいの?」

と呟いた。将はうなづいた。

「これぐらいしか、お前にしてやれることないし。……金は、明日病院のATMで下ろしておくから」

それでも将は瑞樹の目をまともに見ることができない。

だけど、瑞樹のその大きな双眸に、涙が盛り上がるのが視界の端に確認できた。

「将……、ありがとう。ありがとう……、ごめんね」

瑞樹は鍵を握り締めた手で、溢れてくる涙をぬぐった。

それきり、安心して力が抜けたのか、しばらく嗚咽していた。

「そんなに泣くなよ……」

瑞樹にティッシュを手渡しながら、まだ飲み込む唾に、異様に苦い味を将は感じていた。

自分の罪はまだ消えたわけではない。苦しむ心は、いつしか聡を求めていた。

聡に会いたい。聡だったら自分の苦しみを受け止めてくれるだろう。自分を温かく包んでくれるだろう。

そう思う反面、聡を思えば思うほど、背負った苦しみが重みを増していく……そんな気がするのも、また事実だった。