第151話 流血事件とチョコ(1)※改題

博史は1回聡を呼んだぎり、黙り込んだ。

聡も何をどう話すべきかわからないままに、沈黙が横たわった。

その重みに耐えられず、ついに聡は自分から口を利いた。

「あの……こないだは、ごめんなさい」

とりあえず的な謝罪。どんな声音で話そうとも、どんな言葉を使おうとも軽軽しさはぬぐえない。

「土曜日に……」

聡の謝罪には答えないまま、ふいに博史から、土曜日という言葉が出た。

さっき将も土曜日、といっていた、バレンタインデーだ。

「逢えないか」

「博史さん……」

聡は博史がどういう意図で、逢いたいなどと言うのか計り知れなくて再び沈黙した。

だけど。もうどの道、元の関係に戻れないのだ。

だから、逢うわけにはいかない。

……ということをどうやって伝えるべきか。深層意識下でその言葉を選び始めた聡に

「最後に、もう一度逢って、話して、別れよう……」

これで最後という宣言が博史からなされた。

身構えていた聡は力が抜けるようだった。

本当に最後なのか。

博史は、別れを承諾してくれるのか。

ならば……薫の容態は、どうなったのだろうか。

「あの……お母様は……」

聡は思い切って自分から訊いてみた。

結婚相手でもない今、博史の母を『お母様』とよぶのにわずかに躊躇する。

だが他に呼びようがないのでそれで通す……いずれにしても、知りたい結果に比べればささいなことだ。

「ああ……。持ち直した。日曜の夜には落ち着いていた……連絡しなくて悪かったね」

聡はその場に座り込みそうになった。

「よかった」

思わず安堵の言葉が漏れたが、博史の母の無事を喜んだのではない。

自分のせいで悪化した、という罪の意識にさいなまされないで済む……重荷がなくなったことへの利己的な安堵。

そして、それを自覚した聡は、自分を少し恥じた。

「土曜日、逢ってくれるよね」

博史はそんな聡を知ってか知らずか、電話の向こうから詰め寄ってきた。

「あの……土曜日じゃなきゃダメ?」

「ああ。月曜から北京なんだ。時間は取らせないよ……。少しでいいんだ」

いずれにせよ、指輪を返さなくてはならないだろう。

承諾の返事と共に、暗い夜に白い息が立ち上る。

いつのまにか、車を止めた駅裏の路上に出てきていたのだ。

 
 

木曜日、再び平日。

始業時間ギリギリに登校した将は、直接、視聴覚室のほうに向かった。入り口に立った将は、唖然とする。人数がやたら増えていたからだ。

全員とまではいかないものの、2/3以上はこっちに移って来ていた。

月曜以来休んでいる松岡は、今日も姿が見えないようだ。

さすがに人数が増えると、ボイコットとサボリを混同している者が増える。視聴覚室は思い思いにしゃべる生徒たちで賑わっていた。

「みんな聞いてください!」

スピーカーからの声で、皆が前を見た。兵藤がマイクの前に立っていた。

「今日からボイコットに加わったひと!ボイコットとサボリは違います。遊びたい人は出て行ってください!」

兵藤の強い口調に、皆、静かになる。

「僕たちは、あの京極先生のやり方についていけない、ということで京極先生を辞めさせて、できれば古城先生に復帰して欲しいという意志をもって、ここに集まっているんです」

将は、ふいに出た聡の名前に、マイクの前に立つ兵藤を見上げた。

「だから、授業をボイコットしても自習するなどして、きちんとした態度を表明しないと学校は動かないと思います。みんな、そのつもりで、きちんとしてください!おねがいします」

兵藤はマイクの前で丸刈り頭を下げた。

パン、パン、パンと単独の拍手が起こった。カイトだ。

カイトにつられて星野みな子、真田由紀子、井口……と拍手は視聴覚室全体に広がっていった。

 
 

最初に兵藤のそんな演説があったので、皆、比較的静かに自習を始めた。

それでも、さわさわと話し声は散発的に起こる。

みな子は、とりあえず木曜日の1時間目である英語のプリントを机に広げていた。

大学進学希望のみな子が広げているのは専用プリントで、B4の用紙1枚全部が英語で埋め尽くされた、論文の抜粋である。

聡は、習熟度に応じて、かなり難度の高いプリントも渡していたのである。

ちなみに同じ進学希望でも、英語があまり得意でない将には、論文ではなく、日本の漫画の英訳プリントなどを渡して、アレルギー反応が起こらないように工夫している。

英語の論文に没頭しようとするみな子に、同じ漫研の木村すみれがそっと話し掛けてきた。

「ね、みな子、今日こそチョコ買うから、放課後、付き合って」

「決めたの?また迷うんじゃないでしょうね」

みな子が皮肉まじりに言うのにはわけがある。

実は休日だった昨日、みな子は、すみれのチョコ選びに付き合わされている。

しかも散々迷った上で、すみれは結局迷って何も買わなかったのだ。

「今日は買うってば。だからお願い」

と懇願するすみれは、随分前から漫研の先輩が好きだという。

卒業前になんとかコクりたい、つまりバレンタインは最後のチャンスなのだという。

もちろん当日は土曜だから学校は休みだが、前日の13日は3年は週に1度の登校日にあたっている。

チョコ目当てで登校する3年は結構多いと思われる。

以前、その先輩のことが好きだと、すみれから聞かされたとき、好きなキャラと全然違うじゃん、とみな子は指摘したが、

「キャラとリアルは違うよ」

などとすみれは言い訳したものだ。それどころか

「みな子もリアルで誰か好きな人ができたらわかるってば」

すみれはみな子をバカにした言い方さえした……。

みな子は、そっと英語のプリントから目をあげて、斜め前方2列前をそっと盗み見る。

……将は机にかがみ込むようにプリントをやっているのか、その広い背中しか見えない。

ふいにその背中が動く。みな子はそれだけで心臓が存在を主張を始めるのを感じた。

将は、少し起きると、左手で頬杖をついたようだ。

広い肩の上に、ボサボサの髪が見える。

――反対側に頬杖をついてくれれば顔が見えるのに。

そう思ってハッとする。なんで顔を見なくてはならないのだ。

みな子はすみれに

「わかったから」

と答えて無理やり自分を英語のプリントに集中させた。

 
 

午後になり、ボイコットはさらに増えた。

「何だコレ」

学食から井口と共に帰ってきた将は、その人数の多さに、視聴覚室の入り口で思わず呆然と立ち尽くした。

まるで教室がそっくりそのまま移動してきたような多さだった。

「将」

一足先に戻っていたカイトとユウタが将に駆け寄ってくる。

カイトがウヒヒと笑いながら言った。

「とうとう全員ボイコットだぜ」

「ウソ」

将は目をみはってあらためて視聴覚教室を眺めた。

ポイントのことで松岡を責めていた島田ですら、面白くなさそうに席についている。

「アイツ(京極)どんな顔してるだろうな」

ステッキをつきながら自分の席に移動する将にくっついて、カイトはさも愉快そうに話す。

と、将が席についたそのときだ。

視聴覚教室の入り口が、バン!と勢いよく開いて、皆いっせいに振り返った。

京極だ。京極が竹刀を片手に立っていた。

外からの逆光を受けて、シルエット状態だが仁王立ちだということはわかる。

京極は竹刀を床に叩きつけるように振り下ろすと一吼えした。

「……てめえら、いつまで遊んでんだ!」

昼休み明けでざわついていた視聴覚教室がシンと静まり返る。

「人が黙ってると思って、調子にのりやがって」

京極はゆっくりと歩き始める。

「さあ、戻れ、戻れ!」

京極は、一番後ろにいた女子生徒の腕を次々と掴んで引っ張り上げた。

「キャー」

「やめてください」

と声があがるが、視聴覚教室の席はベンチ状態なので、引っ張られても嫌々立ち上がるまでしかできない。

京極は、ベンチの一番端にいた小柄な真田由紀子の腕を掴むと、席から引っ張り出そうとした。

「やああ!」

由紀子の悲鳴に、思わず兵藤が京極のそばに駆け寄った。

「乱暴なことは止めてください!」

兵藤の言うことなど、京極が聞くはずがない。

京極は真田由紀子を席から引きずり出そうとなおも強引に華奢な腕を引っ張る。

「痛いいっ!」

由紀子の悲鳴に

「やめてください!」

兵藤が、由紀子を掴む京極の腕に無我夢中で取り付いた。

邪魔な兵藤を京極が力いっぱい振り払った瞬間、その力が強すぎたのか、兵藤は跳ねるように後ろに飛ばされた。

ゴッ、と嫌な音がした。兵藤が飛ばされたあたりには、違う列のベンチの角があった。

飛ばされた兵藤は……丸刈り頭を手で押さえて尻餅をついているように見えた。

しかし3秒後、押さえた手の下から、赤黒い血がどくどくと流れ出すのを、そこにいた全員が目撃した。

女子の叫び声がまず起こり、視聴覚室は怒号と悲鳴に包まれた。