第156話 小さな家出人

「弟って……孝太が?一人で?」

異母弟にあたるが、将にとてもなついている10歳年下の弟だ。

「そう。お兄ちゃんは出かけてるって言ったんだけど、帰れないって言って聞かないんだ。俺は風邪っぴきだし、瑞樹は出かけてるし……」

大悟は心底困っているようなので、将はすぐ戻る、と答えて電話を切った。

ベッドの上で身を起こしていた聡のほうに向き直ると

「弟さんがマンションに来てるの?」

と、彼女のほうから訊いてきた。電話の内容が聞こえていたらしい。

将はうなづくと

「アキラ、ちょっと俺、マンションに帰ってくるから」

本当は一瞬、聡と一緒にマンションに帰ろうかとも思った。

正月に一緒に聡の家に泊まった大悟は、聡とも面識があるから問題ない。

が、瑞樹が帰ってきたら。気まずくなるかもしれない、と考えて、将はとりあえず一人で帰ってみることにした。

でも『ちょっと帰ってくる』の言葉どおり、孝太を言い聞かせて実家に戻したらすぐに聡の部屋に戻るつもりである。

聡は、ちょっと残念そうな表情を浮かべたが、そこは大人だ。

何も異論を唱えずに、将を送り出した。

 
 

「お兄ちゃん!」

マンションの玄関ドアをあけるなり、孝太が奥から駆けてきた。

前に会ったときより背が伸びて、子供から少年にまた一歩近づいた感じだ。

しかし、きちんと躾けられている孝太は、飛びついてくるというようなことはない。

靴脱ぎ場のところに立って、将の顔を心底嬉しそうに見あげている。

タクシーの中で

『貴重なデートの邪魔しやがって。叱り付けてやらないと』といきまいていた将だが、そんな孝太の顔にそんな計画はふっとぶ。

「孝太、お前、どうしたんだ……」

靴を脱ぎながら、訊くのがせいいっぱいだった。

孝太を連れてリビングに戻ると、大悟がスウェット姿にマスク姿で起きてゲーム機を手にしていた。

具合が悪いだろうに、どうやら大悟はいままで、孝太の相手をしてくれていたようなのだ。

「将にそっくりだな」

大悟はゲームを終了しながら微笑んだ。

孝太は、大好きな将に似ているといわれて、ちょっと嬉しそうに将を見上げた。

「瑞樹は?」

まだ瑞樹の姿は見えないようだ。

「まだ帰ってこない。メール見たら、どうやらバイトみたいだけど」

大悟は、ようやく帰ってきた将に安堵するように、ソファーに寄りかかった。

「悪いな。具合悪いんだろ。ホラ、孝太、大悟兄ちゃんにお礼いえ」

孝太は素直に、大悟にありがとう、と言っただけでなく

「大丈夫ですか?」と付け加えた。

大悟は、笑いながら、

「大丈夫だよ」

と答えて立ち上がる。そして孝太の頭をくるくると撫でると、

「じゃ、将、俺はもう寝るから」

と将に向き直った。少し疲れているようだ。

「ごめんな」

将は、大悟の後姿にもう一度わびると、しゃがんで孝太に向き直った。

「孝太、いったいどうしたんだ」

孝太は悲しそうにだまった。

「おかあさんかおとうさんに怒られたのか?」

孝太はゆっくりとうなづいた。

「ぼく……まえにテストで80点とっちゃったんだ」

一瞬、子供の頃を忘れていた将は『いい点じゃんか』と口にだしかけた。が、孝太は

「そしたら、おかあさんが『お兄ちゃんは90点以下をとったことないのに』って怒って……」

そういえば『神童』だった小学校時代の将は、学校のテストで90点以下を取ったことはなかった。

義母の純代からもテストのことで怒られたことはない。

というより、義母に好かれようとめいっぱい頑張っていた小学生時代の将は、純代にまったくといっていいほど怒られたことがなかった。

思えば、それだけに、火事の中で置き去りにされたショックは大きかったのだろう……と将は過去を振り返る。

だが。将はいったん自分の傷に飛んだ思考を、テストに戻す。

将が通っていたのは公立小である。

それに対して、孝太は難関と名高い有名私立に幼稚舎から通っている。テストの内容も当然難しいに違いない。

「何、テストが悪くて、怒られたから出てきたの?」

と将はなるべく優しく訊いた。孝太は首を振った。

「ぼく、また85点とっちゃって……また怒られると思って……」

「テストを隠したのがバレたのか」

将が先回りした答えに、孝太は、この世の終わりのような顔でうなづいた。

「そんなことするひきょう者は、うちの子じゃないって言われて……」

孝太は耐えられなくなったのか、泣き始めた。

将は、孝太を抱きしめてやりながら、再び火事の中で置き去りにされたことを思い出していた。

あのとき、将は『うちの子ではない』というのを態度で示されたのである。

もう割り切っているつもりだが、こうやって泣く弟を見ていると、子供の頃の寂しさや、あの12歳のときの絶望が顔を出してくる。

将は、泣く孝太の頭を撫でてやりながら

「おかあさんは、本気でそんなことをいったんじゃないと思うよ……」

と諭した。義母の純代は、孝太にとっては彼を生んだ本当の母である。

しかし、孝太はしゃくりあげながら、

「でも……でも。お兄ちゃんのことは……追い出した」

それだけいうと、孝太は声をあげて本格的に泣き出した。

まるで『追い出した』という言葉に孝太自身が傷ついたかのようだ。

出て行ったっきりの将のことについて、孝太は孝太なりに心配し、傷ついていたのである。

将は10歳年下の弟の、自分を思う心に、胸がいっぱいになった。

思わず涙があふれそうになるのをおさえるように、

「でも、孝太は……おかあさんの本当の子供だから、おかあさんはきっと心配してるよ」

と孝太にいってきかせる。

それは心から出た言葉でもあるが、将は、正直なところ早く孝太を帰して、聡のところに戻りたかったのだ。

しかし孝太は、どんなに言って聞かせても

「今日は、お兄ちゃんのところに泊まる。家には帰りたくない。お兄ちゃんと一緒にいる」

と頑張った。どうやら孝太は義母の言葉にかなり傷ついたようだ。

聡のところに一刻も早く帰りたい将は、舌打ちしたい気持ちになった。

だけど、自分だけを頼っている、いたいけな弟を無碍に放り出すわけにはいかない。

将にとっては、ヒージーに次いで数少ない肉親の情を感じられる相手だ。

まあ、所詮子供だ。

波立った感情が収まれば、ケロリとするのではないか、と将は気を取り直して一晩だけは孝太を泊めてやることにした。

とはいえ、実家では今ごろ大騒ぎだろう。

ヘタすれば捜索願まで出しているかもしれない。

しかし、義母に連絡すれば、孝太の気持ちを無視してすぐに迎えに来るに違いない。

特に将のところに泊めるなんてとんでもない、と考えるのは目に見えている。

ヒージーに説得してもらうのが一番だが、もう9時30分過ぎている。床についている時間だろう。

――あいつに頼るしかないな。

将はパソコンをを開くと、アドレス帳からめったに使わないアドレスを取り出す……毛利である。

メールを打ちながら、傍らでまだしゃくりあげている孝太に

「ところで、孝太、一人で風呂に入れるか」

と訊いた。

「たぶん入れると思う」

との答え。たぶん、というのは、まだ一人で入ったことがないということだろう。

「ちょっと待ってろ。お兄ちゃんと入ろう」

「うん!」

孝太は急に元気になったようだ。

将は、毛利に、孝太が自分のマンションに来ている旨、とにかく無事であること、

叱られてナーバスになっているから落ち着いたら責任をもって帰すこと、捜索願など出して騒がないように――

などを手早くメールにまとめて送信した。

将と義母の純代との関係を知る毛利は、そのへんは巧くやるはずだった。

大嫌いな毛利だが、その辺のたちまわりは、将も信頼しているところだ。

 
 

将は湯船にお湯を溜めながら、孝太が脱いだものをかたっぱしから洗濯機に入れる。

――今ごろは、アキラとラブラブ入浴かもしれなかったのにぃ……。

にこにこと裸んぼうになっている孝太を恨みそうになる自分に

――ま、ありえないか。

と言い聞かせる。

「兄ちゃんすぐ入るから。湯船に入る前によく体洗うんだぞ」

と言い聞かせて、その間に将は聡に電話をする。

「将、……どうだった?弟さん」

電話がつながるなり、聡のほうから様子を訊いてきた。

将は、孝太の家出のいきさつを話して、今日はそっちに帰れそうにない、と謝った。

「明日、朝から二人でどっかいこうぜ」

代わりに明日のことを提案する。

「明日……。明日はね、将……」

聡の声が急に沈んだ。それでも思い切ったように聡は告げた。

「博史さんに会わないといけないの」

――え。

将は一瞬混乱した。なんで、今ごろ博史が。しかもバレンタインデーに。

「最後に、もう一度会って別れたいって言われて……」

そんなことを承諾するのか、とそれは聡への疑惑に一瞬つながりそうになる。

「なんで、バレンタインデーなんかに……」

将は苦々しい思いで抗議する。そういえば、さっき将がもらった聡の手作りチョコを、将は聡の家に置いたままだ。

「私も、断りたかったんだけど、月曜から北京だって言われて。指輪も返さないといけないし……」

困惑した聡の声に……将はかろうじて、日曜日に殴られたことを思い出す。

「おふくろさんは?どうなったって?」

「持ち直したって……。ごめん、将には今日言うつもりだった」

持ち直したという言葉を聞いたとたん『俺だって心配してたんだぜ』と抗議しようとした将だが、

聡に先回りされ、不機嫌に口をつぐむ。しかし、

――こんなことで、心を乱されたくない。もしかしたら、こうやって二人の仲に亀裂を入れる作戦なのかもしれない。アイツ(博史)は。

将は思い直すと、優しい声を出す。

「明日……ひとりで大丈夫? また殴られたりしない?」

「うん……。大丈夫だと思う。もう本当に最後だって言ってたから。午前中に少しだけ会って指輪を返すだけ。本当にそれだけ」

聡のほうも、将に気を遣っているのがひしひしと伝わった。

何も心配することはないのだ……。聡の声が携帯からさらに続く。

「明日、昼からはずっと、将と一緒にいたい」

低いけど温かい声に、将は電話のこちらで頷く。きっと聡は将と同じように携帯を握り締めているだろう。

その姿を想像したとたんに、胸にいっぱいに溜まったいとおしさが溢れ出るようだった。