第162話 血脈

星野みな子は、復活した放課後の自主補習に出席していた。

英語だけでいけば有名大学に合格できるレベルのみな子は、聡からもらった特製のプリントを机の上に広げている。

放課後の補習が復活してもう何日かたつが、みな子は以前のように勉強に身が入らなかった。

原因は……将と聡である。

今日は、将が欠席しているから少しはマシかと思ったが、やはり、補習のほうは、まるで身に入らない。

いつもは将と聡をかわるがわる観察するのだが、みな子の冷徹な視線は、今日は聡一人に注がれた。

軽くカールした、柔らかそうな栗色の髪を今日は下ろしている。

派手ではない化粧は黒目がちの大きな瞳をかえって際立たせている。

小さめだけど、厚みのある唇は健康なバラ色で、いかにも柔らかそうだ。

そして、固いパンツスーツを着ているのに、その下に息づく柔らかさがわかる張り出した胸……。

――あんなふうに駅で抱き合うぐらいだから、きっと二人は……。

聡の女らしい顔も体も、いやらしい、とみな子は思った。

あの髪を、将はかき上げるのだろうか。

あの瞳で将と見詰め合うのだろうか。

あの唇で将と口づけを交わすのだろうか。

そしてあの体で……。

みな子にそんな経験はないだけに、想像だけは、どんどん膨らんでいく。

――教師のくせに、生徒と寝るなんて不潔。いやだ。

みな子はうつむいて固く目を閉じた。

気がつくと、斜め前で兵藤ら、勉強ではなくて会話が練習したいという生徒相手に会話のレッスンをしているのが聞こえる。

しっとりとした低めの声になめらかな発音。男子にまじって楽しそうな笑い声。

その声で、将と愛を語るのだろうか……。

あのことを知るまでは、大好きだった聡。尊敬していた聡。なのに。いまは声を聞くのもつらい。

「星野さん、できた?」

目をあけると、みな子が座る机の脇に聡が立っていた。

いっこうに進んでいない英作文に、聡はかがみながら、みな子に顔をよせて

「これは、この構文を使ってみるといいわよ」

とみな子が持っている参考書を開けて示してくれる。

下ろしている髪のあたりから、甘い香りが、ほのかに漂う。

みな子は、思わずその香りにむせて窒息しそうになる。

「センセイ、臭い」

思わずみな子は口に出してしまった。声を落とさなかったので、まわりの生徒がこっちを振り返った。

「えっ?」

当の聡も、目を見開いて、のけぞるように身をおこした。

「香水、きつい」

みな子は聡の方を見ずに、冷淡かつ平坦な口調で言い放った。

「ご、ごめんね。つけてないんだけど。リンスかな」

あわてる聡に、後ろの席にいたチャミ&カリナが

「みな子、コワイしー」

「センセー、ぜんぜん臭くないよ。気にしなくていいよ」

とフォローした。

聡は、様子が変なみな子が少し気になったが、他の生徒も見てあげなくてはならない忙しさの中、すっかりそれを忘れてしまった。

 
 

寺の年取った住職は、10年も会ってないはずなのに、将を見るとすぐに

「鷹枝さんところの、将くんだね」

と気付いた。母の葬儀のときにお世話になっている。

小学生だった将も可愛がってもらった覚えがある。

将は住職におずおずと頭を下げた。将は住職に訊きたいことがあった……。

「ああ、あの花は、父上の康三さんだよ。毎年、命日には一人でいらっしゃってあの花を供えて手をあわせていくんだよ。どんなに忙しくても、ね」

将は寺の前の石段に腰掛けていた。住職はその上の縁に同じように腰掛ける。

二人に名残のように夕陽があたっている。それは時間が経つにつれて赤みを増していった。

住職はどこかの葬儀か法事にいったあとらしく、立派な長い僧衣を着ている。この衣からかなり位の高い僧であることがわかる。

将は、まだ腑に落ちなかった。

母の死の際に涙も流さなかった父である。よく似た他人ではないだろうか、とさえ思う。

しかし、反論の根拠も探せないまま、口をつぐんだ。

「将くんも大きくなったねえ。巌さんが言ってた通りだ」

巌、つまり曽祖父・ヒージーと懇意にしている住職は、将の死んだ祖父より少し若い。

「……ヒージー、なんでいってたの」

「自慢の跡取だっていってたよ」

住職の丸めた頭はまるで磨きこんだかのようにツヤツヤとして、夕陽を反射している。

かつて大きかったであろう目もこのように微笑むと皺に埋もれて、こうやって細めると皺と見分けがつかないようだ。

将は思わず、ハッと笑って言葉を返す。

「俺は継ぎませんよ」

「どうしてだね?」

住職は、目を皺のままにして訊き返した。

「どうしてって……。俺、家出てるし……」

将はいいよどんだ。

自分は見捨てられているのだ。いや、見捨てられるようなふるまいを自分から重ねているのだ。

跡取なんかでは、決して、ない。

「弟の孝太のほうが後継ぎにふさわしいでしょ」

将は、そっぽを向いて吐き出すように言った。

住職は、ため息をつくと、袈裟をひきずるようにして、無言で暗い寺の奥に消えた。

将は、帰っていいのか迷ったが、夕陽があまりにきれいなのでしばらくそこにいた。

柿の木に残っていた枯れ葉が、スローモーションのように将の前に落ちたとき、住職が奥から再び出てきた。

巻物を持っている。

住職は、巻物を将の前で広げた。

「鷹枝家の系図だ」

「へえ」

思わず将も覗き込む。住職は筆で書かれた系図を差しながら将に説明した。

「これが元薩摩藩士だった初代。……ここに巌さんがおる。亡くなった周太郎さん。そして康三さんだ」

「あ」

将は気付いた。康三の下に、自分の名前が書かれている。孝太の名前はない。

「そう。これはお前さんだ。ここには鷹枝家で15歳を越えた者の名前だけが記されている。……もう1つ気付かないか」

将はわからなかった。

「鷹枝家は、よほどのことがないかぎり、長子が家督を継ぐんだよ」

「で、でもオヤジは」

「そう。康三さんは三男じゃ。本来は康三さんの一番上のお兄さんが継ぐはずだったのだが、事故死されてな。

次男さんはそんなことがあると思わなかったのか、生まれてすぐに養子に出されているから、それで康三さんが継ぐことになったんだよ」

そういえば、康三の政界デビューは遅かった。

詳しく聞いたことがなかった将だが、そういう事情があったことを今日初めて知った。

住職はさらに隠された真実を将に伝える。

「康三さんは、将くんが生まれたとき、ことさら期待されていた。お母さんの環さんも結婚前は優秀な外交官だったから、先が楽しみだ、とね。

それで巌さんに頼んで『国家の将とあれ』という古い漢文からとって『将』と名付けられたんだよ」

将は、腰掛けているにも関わらず、地面が波打つのを感じた。

夕陽が……、沈んでしまう。血のような赤い色で。

自分の中に流れる血脈が重い。重く音を立てて流れる。

――ウソだ。

――ありえない。

――アキラ。アキラ、どうか、そばにいて。

急に混沌としはじめた思考の中で、将はひたすら聡を求めていた。