第164話 嫌な予感

「……大悟、あたし……今日ね……。義理父とのこと、お母さんに見られちゃった」

「えっ!」

当然将には大悟が携帯に向かって発する声しか聞こえない。

しかし、そのただならぬ様子に、思わず身を乗り出すようにする。

大悟は、そのときすでに、瑞樹がすすり上げる音を携帯から拾っていた。

「大丈夫か」

大悟の声に優しいいたわりが混じった。見られてどうなったか、を知るよりも先に瑞樹が心配なのだ。

「……うん」

瑞樹は涙を飲み込むように頷いたらしい。そして続ける。

「お母さんね。私のほうを……叩いたんだ。『泥棒猫』って」

大悟はしばらく沈黙した。

目を伏せて歯を食いしばっている様子から将は、瑞樹によほどひどいことが起きているのだ、と予想し緊張した。

「ひどい」

大悟はようやく漏らした。電話の向こうで、電車の揺れる音に瑞樹がときおりすすり上げる声が混じる。

「いま、どこにいるの……」

これ以上優しい問いかけはない、というような大悟の声を将は聞いた。

携帯を包み込むように持っている。

……焼き網からこげた肉が、目にしみるような煙と嫌な匂いを発し始めて、将はあわててその肉をどける。肉は、もはや炭のようになっていた。

「小山のおばあちゃんにも、お別れを言いにいこうと思って……。しばらく会えなくなるだろうから」

瑞樹はたびたび小山の祖母の家に行っていた。

祖母のほうは、母親と違ってきわめて普通の人らしく孫の瑞樹を可愛がっていたらしい。

「大丈夫か」

大悟は何度目かになるいたわりの言葉を発した。

「……うん。お母さんのことは……、もういい。もうふっきれた。……もう捨てる。あんなヒト、お母さんじゃない」

瑞樹は一言一言区切りながら、自分自身に言い聞かせるようにして、母への訣別を口にした。

携帯を耳に押し当てた大悟の顔が、つらそうに歪んでいくのを将は、見てはいけないもののように盗み見た。

将はわからなかったのだが、そのとき大悟は、自分が父に訣別したことを思い出していた。

借金だらけで、大悟に迷惑ばかりかけてきた父とは、連絡がとれなくなって2年以上経つ。

そんな父でも……たった一人の肉親に引導を渡すのはつらかった。

もう頼るまい、愛情を期待するまい、と思いつつ何度もゆきつ戻りつした、つらい日々。

……大悟は瑞樹のつらさを的確に想像していた。

「おばあちゃんのうちには……泊まるのか?」

「……ううん。終電までには帰る。帰りは新幹線使っちゃおうかな」

瑞樹はきっと、つらそうな笑顔を浮かべているに違いない。

大悟はそっとため息をついたとき、

「あ、もう着くみたい」

と瑞樹が電話の向こうで言った。不明瞭だが車内アナウンスも聞こえる。

「じゃあ、切るね。今日、必ず、帰るから。将に……」

1拍、息を吸い込むような沈黙が混じる。

「今までいろいろゴメン。さよなら、って言っておいて」

「瑞樹」

電話は切れた。

大悟は、しばらく携帯を耳に押し当てたまま、目を見開いていたが、ぎこちなく見えるほどゆっくりと携帯を下ろした。

まるで見えない粘りに捕まった様な、そんな感じだった。

「瑞樹、なんだって」

将は、大悟のようすから、訊くべきじゃないかも、とも思ったが、このシチュエーションじゃ話をいきなり変えるのも変だ。仕方なく問い掛けた。

予想通り、大悟は沈黙している。

まるで魂が抜けたように、それでもジョッキに半分ほど残ったビールをあおると流し込んだ。

「どこにいるって?」

将は答えやすい質問に変えてみた。大悟はビールを飲み干して、大きく息をつくと、

「小山」

と短く呟いた。続けて

「おふくろさんと……いろいろあったらしい」

と慎重に言った。

大悟は、瑞樹の家庭の秘密を将が知っているとは思わなかったからそういう表現をしたのだが、

将はそれで、瑞樹の身に何が起こったかが、だいたいわかってしまい、息を飲んだ。

「将、お前に『いろいろゴメン、さよなら』って……」

大悟はやりきれないように、テーブルに肘をつきながら、瑞樹から託された言葉を将に伝えると頭を抱えるようにがっくりとうなだれた。

「なんだそれ」

と将は反射的に答えながら、急に嫌な予感にとらわれた。

それは大悟も同じだったようだ。うなだれていた頭を電気仕掛けのように上げた。

髪が乱れ、目は四白眼になりそうなほど、見開いている。

「ヤバイ!」

「どうした」

大悟は、目を伏せると左手を出して、指を折りだした。頭の中で何かを数えているようだ。

「禁断症状が……!」

小山から戻ってくるまでに、時間的に瑞樹を禁断症状が襲うであろうことを、大悟は計算したのだ。

「将、悪い。俺、瑞樹を迎えに行く。俺がついてないと……アイツ……瑞樹は!」

大悟は即座に席を立った。

将も追うように席を立ち、

「車出そうか?」

と大悟の肩をつかんだ。

大悟は、つらそうな中で少し笑顔をつくった。

「今日はいい。飲酒運転になっちまうだろ」

大悟は、焼肉代を払うと、わき目もふらず走り出す。が途中で将を振り返った。

「将、本当にいろいろありがとうな!」

そう叫ぶと、一目散に駅のほうへ走っていった。

不安に囚われた将は、大悟が見えなくなるまで佇んでいた。

 
 

「へえ。美智子、4月で独立するんだ」

「ウン。もうこき使われるのはウンザリだからね。もう今年27になるんだし、今後は自分のペースで仕事したいんだよねー」

そういう美智子はあいかわらず素顔がわからないほどの濃い化粧に、明るい色の髪を今日はゆるく2つに結んでいる。

しかし結んだ先の髪は計算されたようなきれいな波を描いていた。

ほのかに香るスパイシーな香水も美智子のこの雰囲気によく似合っている。

しかし、香水をかいだ聡は、今日星野みな子に

『センセイ、臭い』と言われたことを思い出してしまった。

美智子に、試しに

「あたし、匂いキツイかな?」と聞いてみると、

美智子は『?』という顔をし、

「なんにもにおわないよ。聡、香水つけないでしょ」

と言ったので聡は少し安心した。

聡と美智子がいる、カウンターの前に南部鉄っぽい行燈でライトアップされた坪庭が広がるお洒落な創作料理の店。

これも以前の寿司屋同様、美智子が太鼓判を押す店らしく、出てくる料理はどれもキレイなだけでなく旨い。

リンゴのような風味の生のナスにとろりととろけそうな馬肉をあわせたカルパッチオに聡はさっきもため息をついたばかりだ。

店のスタッフに美味だった旨を伝えると彼は嬉しそうに

「シェフの出身の熊本から取り寄せた馬刺しと、肥後紫というナスを使っております。ナスはハウス栽培ですけど」

と説明を加えてくれた。

「いいなー。美智子は。手に職持ってて」

焼酎で少し頬を赤くした聡は頬杖をついて美智子を眺めた。

お菓子のような香ばしい香りのする芋焼酎も大メーカー品ではなく、小さな蔵元からわざわざ取り寄せたものだ。

ロックにしたそれは、少しずつ舐めるように飲むのがちょうどよかった。

「なにいってんの。聡だってキョーシ頑張ってるじゃん。聞いたよ。すっごくユニークな教育方法をやってんだって?」

「そんなたいそうなことじゃ……」

と謙遜しかけて「なんで知ってるの?」と聡は頬杖からやや顔を起こして目を見開いた。

「新聞社の友達に聞いたの。あれ?まだ連絡行ってない? 取材するって言ってたけどな」

「聞いてない、聞いてない。何それ」

美智子によると、中退者が少ない上に、会話を重視した英語教育、将来の夢を見つけるための社会見学を取り入れている荒江高校のとりくみについて、ある新聞社が取り上げたいと言っているらしかった。

「うっそー」

「しかも、それ、ほとんど聡が考えたっていうじゃない」

「中退が少ないのは私とは違うけど……。誰がそんなこと言ってるの?」

「海潮寿司のご主人に聞いたんだと思う」

海潮寿司と聞いて、聡は納得した。教え子の兵藤が修行している店だ。

あの店は、一度美智子の情報誌に掲載されて以来、あっという間に評判が広まってしまった。

テレビ取材の話もあるらしいが、お客さんに迷惑になる、と断り続けているらしい。

聡は、寿司の味と共に皺が刻まれた頑固そうなご主人の顔を思い出した。

兵藤が京極のことで停学になりそうになったとき、学校にやってきた弟子思いな一面もある、素晴らしい職人だ。

「海潮寿司かぁ……。あそこ本当に美味しかったよね」

聡が寿司の味を具体的に思い浮かべようとしたとき、携帯が鳴った。

「ゴメン」と美智子に謝りながらバッグから取り出す。将だった。

「将?」

「アキラ。いますぐ会いたい。どこいるの」

将は聡の声を確認するなり、畳み掛けてきた。

「将、待って。さっきも言ったけど、今友達と食事してるのよ」

男性の名前を呼んでいる聡に対して、美智子があきらかに、好奇心旺盛な目をこちらに向け始める。

「どうしても会いたいんだ」

「いったい、どうしたの?将」

美智子がいつも持ち歩いているメモに『新しい彼氏?』と書いて電話中の聡に見せる。

ちなみに博史と別れたことは、さっき話したばかりだ。

聡はカッと顔が熱くなるのを感じた。

「会ってから話す。今どこ?○○?」

将は街の名前を言った。あたっている。

「食事が終わったら電話するから……」

そこへ美智子が再びメモを見せる。

『聡の新彼、ぜったい見たい!来てもらいなよ』

と書いてある。

「えー、でも……」

思わず、聡は将のほうではなく、美智子のメモに返事をしてしまう。

「○○にいるんだろ。俺、とりあえずそっち行くから。着いたらまた電話する」

「将……ちょっと、」

将は一方的に電話を切ってしまった。

聡はため息をつきながら、電話をバッグにしまった。

「新しい彼氏、しょうっていうんだ……」

美智子が擦り寄ってくる。目が三日月のようになっている。

「婚約者のいる聡を略奪するなんて、どんなオトコなんだろ。ね、今から来るんでしょ。会わせてよ、絶対」

「ヤダ……もう」

まさか教え子の高校生と付き合っているなんて言えない。聡は赤くなって下を向いた。