第167話 赤い霧

「所持品と思われるものを調べましたが、身元につながるものは出てきませんでした」

30歳ぐらいの鉄道警察隊隊員が敬礼と共に警部にキビキビと報告した。

夜のホームでは依然作業が続いている。

いったん帰宅していた中年の警部は、突然の人身事故に呼び出されて再度出勤したのである。

「そうか。男のほうは」

「はい。ショックが強かったらしく錯乱状態でしたので病院に。安定剤を投与して眠っています」

「まあ、そうだろうな。アレをまのあたりにしたらな……。で、男の身元は」

警部は同情を含んだ渋面で隊員を振り返った。

「聞ける状況では……。免許等も所持していないようでした」

「遺体は?」

「『すべて』収容しました」

「どれだけ、『集まった』?」

「……まあ。難しいですね」

難しい、というのは人の形に復元するのは、という意味である。

隊員は今回は、それに当たらずに済んだのであるが、当然その処理の経験はある。

慣れたとはいえ、何度やっても嫌なものだ。彼はそれを思い出して目を伏せた。

「覚醒剤反応の検査にまわしたいが」

「無理かと……」

隊員は、今回の遺体の状況について、収容にあたった隊員からもう少し詳細に聞いていた。

それはもはや遺体と呼べる状況ではなかった。拾えるようなものを見つけるほうが困難だった。

大腿骨の一部らしきもの、それが一番大きなものだった。

惨劇の現場となったホームには、ホームだけでなく、柱、駅名表示板から窓ガラスにまでも、一面に細かい血の飛まつが飛んでいた。

収容よりも、それらの清拭のほうにむしろ時間がかかるとのことだった。

時速200キロ近くの新幹線は、一瞬にして人間の体の大部分を小さな飛まつにしてしまったのだ……。

「ホームにいた他の目撃者の証言によると、あきらかに挙動が変だったらしい。それに……」

警部は煙草をくわえると、つらそうに目をあげた。

「普通の自殺者だったら、新幹線はまず選ばない。速すぎてその恐怖感に負けてしまうんだ。……おっと禁煙だったな」

警部は事態のむごさを想像するあまり、思わずくわえてしまった煙草をケースに戻す。

「いちおう男のほうも、目が覚めたら尿検査をしておけ。復旧は?」

「本日は全面運休をまぬがれません。明日始発から通常通り運行をめざすそうです」

 
 

温かい感覚を頬に感じて、大悟は目をあけた。

蛍光灯の光が目に沁みるようだ……。

ぼんやりとしていた、白衣を着た女性の画像が、だんだんはっきりとしてくる。

彼女は、水色のタオルを持って傍らにたっていた。

どうやら大悟は処置台で眠っていたらしい。

着ていたジャンパーが傍らのかごに入れてある。

「あ、起こしてしまいました?……ごめんなさい。お顔が汚れているから拭いて差し上げようと思ったんですけど」

看護士であろう女性の優しげな声に大悟はほんの少し安心した。

しかし、それに似合わない……彼女が手に持った水色のタオルについたチョコレート色の汚れ。

どれぐらい時間が経ったのか。……どれぐらい?何から?

大悟は跳ね起きると、看護士に詰め寄った。

「瑞樹はッ!瑞樹はどこだ」

大悟は処置台を降りると、診察室のどこかにいるであろう瑞樹を探した。

「瑞樹!瑞樹!どこだ!瑞樹」

看護士は、異変にあわてて医師を呼びに走った。

「瑞樹ッ、みずき!」

叫びながら大悟は、診察室中を歩き回った。診察台の下までのぞきこむ。

「!」

診察室の片隅。洗面台の前の壁に据えつけられた鏡に大悟は釘付けになる。

そこに映った大悟の顔は……。

まるで昔かかった水疱瘡のかさぶたのように……いや、さらに細かく、さらに密集して赤黒い点々が散らばっていた。

看護士がタオルでなぞったところだけそれが消えている。

大悟は鏡にはりつくように、自分の顔をながめた。

手を、そして体を見る。パーカーの前の部分に、細かい水玉模様のように赤黒い染みが点々と付いていた。

大悟の唇は一瞬震えた。そして思い出す。あの一瞬を。

現実的には、何も見えていなかった。

ただ、大悟の心にはたしかに見えたのだ。瑞樹が……一瞬にして赤い霧へと変身したのが。

「わアアーーーー!」

大悟が叫びだすのと、医師が駆けつけてきたのとほぼ同時だった。

「大丈夫ですから、落ち着いてください!」

「落ち着いて!」

大悟は医師と看護士に押さえられて、2本目の安定剤を注射された。

「瑞樹、瑞樹ィ……、なんでこんなことに……、なんで、なんで……ああぁ」

大悟は無理やり意識を遠のかせられながら、なおも瑞樹を呼んだ。

 
 

将は、聡を抱きしめて、幸せな眠りの中にいた。

もう明るくなっていることに二人はまだ気付いていない。

だが、将は朝の浅い眠りがもたらす夢の中でも聡を抱きしめていた。

夢の中でも聡は柔らかくて温かく、香りは甘やかだった。

将はふわふわと空中を漂いながら聡を抱いていたのだ。

二人の上には桃色の空が広がっていた。金の綿菓子のような雲が漂っている。

将はふと、下を覗き込んだ。

下には……漆黒の闇があった。あろうことか、闇はじわじわと聡を抱く将の方へと延びてきているではないか。

『アキラ、しっかりつかまれ』

そう言い聞かせたとたん、聡はするりと落ちた……。

 

ハッ。

将は急に覚醒した。携帯の音が鳴っている。

「ん……」

聡も目を覚ましたらしい。間近にある、ピンク色の頬を見て、将はほっとした。

「……将の携帯だよ」

聡がうながす。眠そうな、その顔がいとしい。将は聡のおでこに軽く唇を寄せると、ベッドを降りた。

「間違いか?……ったく、こんな時間に迷惑だなあ」

といいながら携帯を拾う。

02で始まる市外局番に見覚えはない。まだ7時前だ。やはり間違い電話だろう。

聡がベッドに腰掛けて伸びをしている。ちょうど起きる時間だったらしい。

将は微笑ましい気分で通話ボタンを押した。

「鷹枝将さんですか」

男性の声は、将の名前を正確に呼んだ。

「ハイ」

「栃木県警・鉄道警察隊の宮原といいます。朝早く申し訳ありません」

「は、いいえ」

寝起きの聡を見て不謹慎な想像が頭を占めていた将は『警察』という単語にやや緊張する。

同時に『申し訳ありません』という丁寧な言葉に、自分の非行が暴かれたわけではないのだ、と本能で感じ取っていた。

「今、少々お話できますでしょうか……」

「ハァ」

不意をつかれた将は、鉄道が何だ?と思いながらも、短い相槌だけしか思いつかない。

「昨夜、JR○山駅で起きました人身事故の捜査でお電話しております」

「ハ」

――○山。どっかで聞いたな○山。何だっけ。栃木県警っていってたから栃木県か。

何で栃木で起こった事故のことで自分のところに電話が掛かってくるのか、起きぬけの将はまだわからない。

将は背中をボリボリ掻いた。

「失礼ですが、島大悟さんの携帯から番号をお調べして、捜査の必要上、電話させていただきました。ご了承ください」

将の背中を掻く手が止まった。大悟の携帯……?

大悟に何があったのか、将が問う前に、宮原は続けた。

「2、3質問があるんですが。……瑞樹さんという女性をご存知ですか?」

将の心臓が、キコっと軋む。そのままフル回転のようにドクンドクンと激しく波打ち始める。

人身事故の捜査……大悟の携帯……瑞樹。

血液がまわり始めた頭は、嫌なことを結びつけてある答えを導き出しそうになっている。

「はい……。クラスメートですけど、何かあったんですか!」

血相を変えた将の大声に、聡が思わず振り返った。