第170話 五分咲き

「もう五分咲きね」

聡が桜並木を見上げながら言った。

その瞳に青い空が映っているのを、将はいとおしく見つめた。

綿菓子のようになる満開のときと違って、ぱらぱらと花をつけた桜は、青い空をレースのように透かしている。

逢えなかったのはたった3日なのに、まばたきをするのも惜しいほど、将は聡に見とれていた。桜よりも。

二人で街に出てきたついでに、公園にやってきている。

気候に恵まれたせいか、25日に開花した桜は、今日28日には聡の言うとおりの五分咲きになっていた。

土曜日というのもあり、人出のほうは、満開に近い。

 

24日に終業式があり、荒江高校は春休みに入った。

休みに入ってから、聡に会っていない。

職員の聡は、この時期は入学試験(『電話一本、ハイ合格』の荒江高校といえど、いちおう形式的に入試がある)やら入学手続きや、来年度のカリキュラム検討など、通常通りの出勤だ、というのもある。

しかし、会えなかったのは、むしろ将のほうの事情だった。

「大悟くんは、その後……どう?」

聡は少し心配そうに将の顔を見上げた。

「ああ……少しずつ、立ち直ってるよ」

将は聡を安心させるために、少し、希望的なウソをついた。

あれから……瑞樹の死から大悟は、どこにも出かけず、……もちろん仕事にもいかず、引きこもり状態だった。

滋賀の仕事は、断ってしまったらしい。

あまりにもひどい事故を目撃してしまった、ということで週一度のカウンセリングを受けている大悟だが、

それ以外は一人でいれば1日中、残された瑞樹の写真(将が与えたクラス写真とプリクラ)を見るか、酒を飲むか寝るかで過ごしている。

酒も最初はビールだったのが、最近は焼酎になってきている。

「体に悪いぞ」

さりげなく将が注意するものの、大悟はため息をついて言った。

「正気でいるのがつらいんだ」

その気持ちは将もわからなくもない。

瑞樹への罪の意識が消えない将は、できるだけ大悟と一緒にいるようにした。

お笑い番組を見たり、ゲームをやったりして、大悟の意識を瑞樹の死から少しでも遠ざける時間をつくろう、と努力をした。

だけど、将がそんな努力をすればするほど、大悟は瑞樹の思い出に固執した。

大悟は酔ってくると、将に瑞樹の思い出話を強いた。

いや、強いていたのではない。

大悟にとってかけがえのない瑞樹だったのに、彼女とはたったの2ヶ月足らずの日々しか過ごしていない。

それを補完するがごとく、大悟は、将の思い出の瑞樹をも、共有しようとしていた。

だが……将にとっては、それは苦悶だった。

将はあまり瑞樹のことを覚えていなかった。

1年以上も一緒に暮らしていたようなものなのに、印象に残っていることはあまりにも少なすぎた。好きな食べ物ですら知らなかった。

聡だったら……一緒に暮らしたのはたったの1週間なのに、とても細かいことまで覚えている。

それはまさしく、将が瑞樹のことを『道具』扱いにしていた証拠だった。

覚えてもいないのに。見つめてさえいないのに。欲望だけは発散していた……罪。

自らの罪を……瑞樹を死に追いやった罪の一角を担っているということを嫌でも毎日のように反復させられる。

しかし。つらかったが、それも自分に与えられた罰の1つなのだ、と将は耐えた。

つまり、できる限り大悟に付き合っているゆえに、将は聡に会う時間を削らなくてはならなかったのだ。

今日は、たまたま大悟がカウンセリングにいっているので、ようやく聡の顔を見ることができたのだ。

 
 

桜に見入る将の目を見て、聡は何も言えなくなってしまった。

瑞樹の死は、将にもまた深い傷を残したのだろう。

それだけはわかる。

聡は話題を変えることにした。

「自動車学校のほうはどう?」

将はパッと明るい顔になって、聡を振り返った。

「おう。ばっちりよ。たぶんストレートで合格だぜ」

18歳の誕生日まで1ヶ月を切った将は、自動車学校に通い始めたのだ。

毎日が懺悔のような将の最近の中で、唯一明るい話題だ。

荒江高校は校則で免許取得を禁じているわけではないから、そのへんは問題ない。

「これで、ようやく偽造免許証ともサヨナラね」

聡は将の顔をのぞきこむようにしていたずらっぽく微笑んだ。

「なんだよ。1年半、無事故無違反だぜ」

「無違反のほうは、どうだか。……ところで、やっぱ初心者マーク付けるの?」

「つける必要ないでしょ!」

将は、一枝だけ満開のように咲いている桜の枝に向かっていきなりジャンプした。

惜しいところで届かない。将は何度もチャレンジした。

骨折した足も、今では走ったりジャンプしたりするのに問題ない程度まで回復している。

「チェー、やっぱり届かないや」

将は残念そうに枝を見上げた。

「だめよ。枝を折るなんて」

聡が後ろから咎めた。

「じゃ、こっちで我慢」

将はいきなり振り返ると、聡の唇にいきなり軽くキスをすると、逃げ出すそぶりをした。

「ちょっと、我慢って何よ!待ちなさい!」

将は、笑いながら振り返り振り返り、人をよけながら逃げる。聡も笑いながらそんな将を追う。

「あら?将?」

いつのまにか、将はいなくなっていた。

桜並木からはずれた、公園の一角まで来ていた。

ここはあの賑わいが嘘のようにしん、と静かだった。聡はひとりっきりで取り残されてしまった。

「将、……どこ?」

聡はあたりを見回したが、将の姿はない。

丸く、背の高さほどに刈り込まれた茂みの向こうに見える、高層ビル群に春の陽射しがあたっている。

それを見ていよいよ心細くなった聡は思わず携帯を取り出した。

そのとき、茂みからにゅっと手が伸びてきて、聡の腕を引っ張り込んだ。

「ひっ!」

茂みの陰の芝生に引っ張り倒された聡の目を、後ろから大きな手が覆った。

「……へっへっへー」

声音を変えているけれど、聡はすぐ安心した。

「もうっ、将でしょ!わかってるんだから!」

目隠しされた聡は、怒っているにしては明るい声を出した。

「なーんだよー。えっちなことしてやろーと思ったのに」

復活した視界で、将がいっぱいに微笑んでいた。

「バレバレだってば」

微笑む聡を

「えいっ」

将は芝生の上に押し倒した。

聡は、特に抵抗もしないで芝生の上に仰向けになった。

芝生はまだ枯れた色のままだが、芝生の中に生えたクローバーなどの雑草はすでに青い。

ひんやりした草の感触がなんとなく気持ちいいのはもうすっかり温かくなった証だろう。

将の向こうの青空も雲も、すっかり春めいている。

花見客の楽しげな喧騒がどこからか聞こえてくる。

「なに、ボーっとしてんの?」

青空を将の顔が遮った。

「ん。空がすっかり春だなと思って」

「もー。アオカンしちゃおうかと思ったのに」

過激なことをいいつつ、聡を見下ろす将の目は優しい。

「バカ」

聡は将の顔に手をそえると、身を素早く起こし、将の唇に自分の唇を一瞬押し当てた。

不意打ち。聡からの思いがけないキスに将は一瞬ぼけっとなる。

聡のほうは再び草に寝転んで、ふふっといたずら気な笑いを浮かべて将を上目遣いに見ていた。

「もー!ホントにやっちゃうぞ!」

ハッとした将は、寝転んだ聡にのしかかって、首筋に口づけた。

「キャー、くすぐったい。だめってば、こんなところで」

くすくすと笑いながらじゃれあう。

将は、聡とこんな風にふれあいながら、しばしこのところの暗い気分を……自分の罪も忘れ、ひさしぶりに明るい気分になっていた。

「はあー」

二人は並んで芝生に仰向けに横たわり、青空を眺める。

「んもう、アキラってば、絶対にやらせないんだもんなー」

将が不満げにつぶやく。でもそれは、いつものお約束のようなセリフだ。

「だって、教師と生徒じゃん」

聡の答え。これもお約束。

「教師が、生徒にキスすんの?」

将は笑いながら横にいる聡に目をやる。

「イヤならやんないけど?」

聡も負けずに、言い返す。口調とは逆に目も口も笑っている。

「イヤなんて……言ってないっ!」

将は寝転がったままこっちに向き直ると、聡をぎゅっと抱きしめた。

将の胸に顔をうずめた聡は、干草のような将の香りと、地面から香る青草の匂いに酔いそうだった。

しばらく、二人はお互いの感触を確かめるように、抱き合っていた。

 
 

「……メシいこうか」

どこからともなく流れてくる、ソースの香りに空腹を意識した将は昼食を提案した。

聡もうなづいて、二人が起き上がったちょうどそのとき。

将の電話が鳴った。聡の友人の編集者、美智子からだった。

「美智子さんだ。なんで俺のほうに掛かって来るんだ?」

と言いながら、電話に出る。

「もしもし」

「あ、幸田です。将くん?……あのさ、ちょっと助けてほしいんだけど。mon-moの街イケに穴が空きそうでさァ……」

「ハァ?」

早口でしゃべる美智子のいってることが、将はさっぱりわからなかった。