第184話 親友(1)

大悟は名古屋行きの夜行バスに乗っていた。

もう日付は金曜日に変わろうとしているとき、携帯が鳴った。将だ。

――そういえば、将に連絡しておくのを忘れた。

大悟はまわりの乗客に遠慮して小声で「もしもし」と携帯に出る。

「大悟?お前、今どこにいるんだ。いきなり夜勤か?」

将は、今日は、聡の家に泊まらずにマンションに帰ってきたらしい。

大悟の帰りが遅いので心配して電話をかけてきたようだ。

「将……。悪い。俺、ちょっと愛知にいってくるから。今バスん中」

「愛知?いつ帰ってくるんだ?」

「明日、……いや今日にはすぐ戻る」

ちょうど日付が変わったところだった。

「愛知に何しに行くんだ?」

「ちょっと、取りに行くものがあって。ごめん、連絡しなくて」

「いや、いいんだけど」

気のいい『親友』は、じゃあ、気をつけて行ってこいよ、と大悟に声を掛けた。

大悟はそれを聞いて、スリッパを履いた足先からじわじわと恥かしさと後ろめたさがよじのぼってくるのを感じた。

だけど。

――必要な金なんだ……。

大悟は閉めたカーテンの隙間から外を見た。

バスはまだ東京を抜け切っていないらしく、窓の外には家々やビルの明かりが散りばめられている。

自分が将の身代わりになった代償として受け取れる金について思い出した大悟は、さっそく将の父の代理人である弁護士に電話をかけてその現状について聞いた。

驚いたことに、その金は、愛知の親類に今も月10万ずつ振り込まれているということだった。

しかも大悟がそこにいたころからずっとだという。

大悟は唇を噛んだ。

自分の給料の大半をぶん取り、酔って暴力をふるったあの親戚のジジイは、給料ばかりでなく、大悟が将の身代わりになった金までこっそりと我が物にしていたのだ。

大悟は、電話口で弁護士に、その親類のしうちについて訴えた。

そして、その金を自分の口座に直接振り込むように頼んだ。

弁護士は、大悟に同情的な口調ながら、未成年である大悟に、大金を直接振り込むわけにはいかない、と諭した。

いくら大悟が懇願しても、その強硬さは変わらなかった。

だから……大悟は、今日の給料となけなしの金をはたいて、夜行バスに乗って、親戚に交渉に行く羽目になったのだ。

 
 

聡は、学校を終えるターミナル駅がある街にやってきた。将のプレゼントを選ぶためである。

ふだんだったら社会見学がある金曜日だが、今週と来週は進路相談のため社会見学のほうは休みになっている。

8歳も若い10代の男の子に何をあげたら喜ぶのか、正直いまだにわからない。

だけど、消耗品や流行ですぐ変わってしまうようなものは避けたかった。

一生もののプレゼント……これが一番難しい。

服やアクセサリー、時計など、聡が買える値段のものはたいてい流行系だ。

そうかといって、生活雑貨は将はあまりなじみがないだろう。

将が生まれた年のワイン。

これは一瞬よさげに思えたが、ワイン好きだった前の恋人の博史を思わせそうなのでNGである

(将はそんなことを知るよしもないのだが、何となく)。

頭を抱える聡の目のまえに、高級ステーショナリーショップがあった。

なんとなくそこへ入ってみる。

桜の木目で彩られた暗めの店内には、皮表紙の手帖や、メタリックに輝くシャープペン、国ごとに色の違う石をはめこんだ地球儀などがまるでギャラリーのように数少なく陳列されていた。

金属板で小さく表示された値段は、聡がふだん職員室で使っている文房具の100倍もするようだった。

――こんなの誰が使うんだろう。

そう思った聡だったが、ガラスケースの前で足をとめた。万年筆が陳列されている。

その万年筆で書いたものとして、さまざまな色の文字が見本として展示されていた。

その中で、聡の気持ちを素晴らしく惹いた、セピア色の文字があった。

「こちらは、●●県の工房がつくっている、手作りの万年筆なんですよ」

見とれる聡に、低い静かな口調で女店員が、声をかけた。

そんなところで、と聡は少し驚いた。

それは日本海側にある、人口が少ない県だったからだ。

「本当はオーダーメイドなんですが、うちでは標準的なものを置かせてもらってるんです。インクもこちらの工房のオリジナルで、こちらは」

と聡が見とれていた色を指す。

「イカの墨を原料にしてつくったインクなんですよ」

「え!イカですか!」

「ええ」

女店員は微笑んだ。聡は、見本の文字に思わず鼻を近づけた。

「匂いはしないんですね」

聡はおどけて微笑んでみせた。

「もちろん」

仕立てのよいスーツを来た女店員は聡のジョークに対応して少し可笑しそうなそぶりを見せた。……感じのいい店員だ。

「よろしかったら、試しに書いてみてください」

「いいんですか」

聡は、万年筆を握った。すっと手になじむ心地よい重みがあった。

ざらつく紙なのに書きやすい。

店員は、この万年筆は100年、いや半永久的に持つものだ、と言った。

創業100年近い工房だから、メンテナンスも万全だという。

3万円台はやや高いが、一生ものなら、十分に許せる値段だ。

イカ墨のセピア以外の色も、独特の色合いで、かつ万年筆ならではの濃淡が美しい。

聡は、自分がこれを欲しくなったほどだった。

そこで、将の文字を思い出す。

長いこと学校をさぼって不良をやっていたくせに、均整のとれた文字を書く将。

国語の担当に、彼が書いた小論文を見せてもらったことがある。

中身はもちろん、字の美しさからもそのクオリティの高さが伺えるような、そんな端正な文字だった。

「すいません。プレゼント用にこれを包んでください」

聡は将のプレゼントを即座に決めた。

 
 

プレゼントも買ったし、明日のために早く帰ろうと、聡は電車に乗った。

ちなみに将は、今日はバイトだという。

「週に2度ジムに通えって言われてさあ」

と口を尖らせた将の顔を思い浮かべる。

事務所としてはもう少し、筋肉をつけさせたいのだろう。

聡の脳裏に、細身だけどしなやかな筋肉がついた、浅黒い将の裸体が蘇る。

思わず聡は顔を伏せた。

あしたの今ごろは……将と。

それを考えるだけで、体の中心に快感の予兆がほとばしる。

聡はそれを追いやるように、踵をもう片方の足に引き寄せた。

そして、そんなことをみじんも考えてませんよ、というまわりへのPRのために、つまらなそうに顔を窓の外に向けてみる。

もう暗いせいか、窓は車内の蛍光灯に照らされた聡の顔を反射した。

幸い、そこには地味なスーツに髪をひっつめた、淫らなことなどとおおよそ縁のなさそうな女が映し出されていた。

ほっとした聡の顔の向こうに、見覚えのある端正な横顔があった。

思わず聡は振り返った。

――やっぱり。

「大悟くん?大悟くんでしょ」

萩の実家に将と一緒にやってきた友人。将は彼を中学時代からの親友と紹介したはずだ。

急に声を掛けられて、振り返った大悟は目を見開いてけげんな顔をしたが、すぐに

「あ、アキラセンセイ」

と気がついた。

聡は、大悟の口元が殴られたような痣とともに切れていることに気付いたが、その顔に隠された憔悴には、まだ気付いていなかった。