第195話 禁断の告白(1)※改題

ミニは雨に濡れた道路を走っている。

黒く湿った道路とタイヤが立てる冷たい音が、どんよりとした空の下で将の心と共鳴していた。

将は西へと車を走らせながら、寂しかった。

聡の前では、ものわかりのよい男を演じていたけれど、心は孤独で千切れそうだった。

『あたしね。あのマグカップ見るたんびに、あのときの嬉しさが蘇るんだ』

嬉しそうに目を細めていた水曜日。

『忘れ物』

いたずらっぽい瞳で唇を指差した今朝。

そこから、どうしたら……こんな風に鮮やかに、将の期待を裏切れるのだろう。

聡を恨みそうになるのをこらえるようにアクセルを踏む。

苦しげなエンジン音はそのまま苦しい将の気持ちになる。

将は苦しさに唸りをあげるようにして、濡れた道路の音が聞こえなくなるまでアクセルを踏み込む。

そうしないと……涙がこぼれてしまいそうになるから。

こうして大磯をめざしているとクリスマス前の気持ちが蘇ってくる。

あの頃、聡に見捨てられたと思った将は、軌道をはずれて、ひたすら太陽から離れ、宇宙空間へ迷走していく惑星のような寂しさを感じていた。

今また、こうして東京から離れていくのは、ひょっとして、太陽の重力圏を離れていっているようなものなのではないだろうか……ふとそんなことを考えが浮かぶ。

ばかばかしい。

将はすぐに否定した。

今はあのときとは違う。今日は、単に、肉を食いに行くだけの話だ。

それに聡から見捨てられたわけでは……。

もしかして見捨てられたのだろうか。

聡は、将の何かに、愛想をつかしてしまったのだろうか。

ひとたび湧き出た疑問に、将はすぐに引き返して聡に確かめなくてはならない気持ちに支配される。

だけど、もう出口のICだ。

物狂おしいほどの思いは消化できないまま、将はヒージーの家へ向かうしかなかった。

 
 

「そうか、あきらさんは具合が悪いのか」

ヒージーこと巌は少しがっかりした顔をした。

「ああ。4人で食っちまおうぜ」

将は上着を脱ぎ捨てながらそっけなく言った。

4人というのは、将、巌、ハルさん、運転手の西嶋さんのことである。

「ケンカしたのか?」

「……そうじゃないけど」

目を伏せた将の寂しげなようすを、巌は丸眼鏡の奥から心配そうに見た。

「ハルさん、手伝うよ」

将は、巌の視線に気付かないふりをして台所で野菜などの準備をするハルさんに声をかけた。

 

淡いピンクに見えるほどにサシが入った高級な米沢牛は、本当にたっぷりあった。

しゃぶしゃぶ用にあらかじめ薄くスライスされたものと、塊のままのものが大型冷蔵庫を占拠していた。

晴れていれば薪でバーベキューにするのもよかったが、あいにくの雨である。

炭火を起こして、飛騨こんろで炭火焼にすることになった。

ハルさんや運転手の西嶋さんは

「私らまでお相伴させていただいちゃって」

と恐縮していたが、もともと巌の家族のようなものである。

おまけに料理の腕が二人とも素晴らしいのだ。

しゃぶしゃぶにはハルさん特製の胡麻だれ、それと西嶋さんは

「オードブル程度で……」と謙遜しながら炙り寿司をつくってくれた。

そこへ、巌が土蔵から文字通り『秘蔵』のシャトー・マルゴー89年を持ってくる。

将が生まれた年のヴィンテージだ。

わざわざ、この日のために用意していたに違いない。

将は巌の心遣いに、冷えた心がほんのり温まる気がした。

肉の素晴らしい味もさることながら、将がここに預けられていた頃からの古い顔なじみで、久しぶりに将は温かい団欒の夕食を過ごせた。

本来だったら、大食いするような気分ではない将だが、それをすっかり忘れて肉の旨さに没頭する。

渋みの利いた、フルボディのシャトーマルゴーは、ぼってりと甘い米沢牛の脂をすっきりと洗い流して、また新たなる食欲を引き起こす。

それを繰り返しているうちに、一同、腹が重くなるほど、肉を堪能していた。

「まだ肉はたっぷりありますよ」

とハルさんが言う。

「もう入らんわ。将食え」

「もう俺もダメ」

若い将にしてももう腹がはじけそうだった。体が牛になりそうなほど重い。

「じゃあ、明日、牛たたき丼にでもしましょうか。牛丼でもいいですけど」

と西嶋が提案するが、将も巌も顔をしかめて

「今、その話はやめて」

と声がそろってしまった。次の瞬間顔を見合わせて、大笑いした。

じゃあ、食後のコーヒーにしますか、とハルさんは洋館の灯りを点けた。

食事は母屋でいただいたのだが、食後は茶室がわりのそこで寛ぐのが巌の好みだからだ。

雨はもう上がっていて、空は藍色に晴れて月が出ていた。

ただ日中陽がささなかったので、少し冷える。

暖炉ではいくらなんでも強すぎるので、将は火鉢に炭を起こした。

ハルさんはコーヒーと一緒に手作りの小さなみつ豆を切子のお猪口に盛ってきた。

家で寄せた透明とミルクの寒天に、赤えんどう、そして黒蜜だけのシンプルなものだが、これまた将と巌の大好物のデザートだった。

「こりゃー、舌がすっきりするわい」

と巌が上機嫌なところを狙って、将は頼みごとをすることにした。

ワインのおかげですっかり忘れるところだったが、大悟の保護者の件である。

幸い、ハルさんも西嶋も片付けをしているせいか、こっちに来る気配はない。

「すっかり、食べ過ぎたなあ……極楽、極楽」

巌は、一人がけの皮のソファーに身を預け、台に足を乗せ、夢見ごこちの瞳をうっとりと閉じた。

「あのさ、ヒージー。頼みがあるんだけど」

将ももう1つの1人がけのソファに身を沈める。重力を忘れるような、絶妙のすわり心地だ。

「ああ、電話で言ってたな……。何だ」

あいかわらず100歳にしては素晴らしい記憶力だ。

「あのさ……。俺の友達で、島大悟っていうやつがいるんだけど……」

将は、保護者がいない大悟の境涯と自分との関係をざっと話した。

ちなみに巌は、将が殺人を犯して隠していることは知らない。

あのことは、父の康三と三宅弁護士、それと毛利ぐらいしか知らないのだ。

父にも口止めされているし、あの現場にいたヤクザの片割れが殺されたことも知っている将は、たとえ相手が巌だろうと今まで話さなかったのだ。

ゆえに将は少し説明に苦労した。

「あいつ保護者がいなくていろいろ困ってるみたいなんだ」

程度しか大悟の困窮について述べることができなかった。

「それで、ヒージーだったら誰か保護者になれそうな人を紹介してくれるかな、と思って……」

案の定、ヒージーは眉を少し寄せた。疑念のある表情だ。

「それは……いくらでも紹介はできるが……。将、お前はどうして、そんなにその友達のために世話を焼くんだ」

部屋を間貸ししているだけで十分なのではないか、ということだ。

「いや……。保護者がいないと、受け取れる金も、もらえないみたいなんだ」

「なんだそりゃ。本人の金なら、保護者も何も関係なかろう」

将は、ワインのせいで表面に薄い膜が張ったような脳を必死で動かそうとするが巧くいかない。

「いや、そうじゃなくて……」

将は小さく舌打ちした。

「何か、お前、秘密があるんじゃろー」

巌は、ワインの酔いで赤くなった顔を、ぐいと将の方に向けた。そして、ふふ、と笑う。

「……何でも話してみろ。今更、驚かんわ」

もう一度、ソファに寄りかかりながら、腕かけをポンポンと叩いた。

そう言われると、将は、酔いのせいか、『あのこと』を話してもいいような気になってきた。

しかし核心は言わずにおく理性は残っていた。

将はソファから立ち上がって、火鉢の炭をいじくりながら、

「実は、俺さ……前にちょっと悪いことをしちゃってさ。それで……親父がその罪を大悟に被せてバックれたんだ」

とだけ言ってみた。

できるだけ、その『悪いこと』が大したことのないように伝えながら、将の心は押しつぶされるような痛み……罪悪感を覚えていた。

殺人の重さはあれから2年以上経った今も将を大きく動揺させるのに変わりはない。

苦痛に耐えながら大悟のために続ける。

「で、代わりに、大悟は金をもらえるようになってたんだけど、何せ、俺らワルだったからさ……。未成年のうちは保護者がいないと、大悟はその金を受け取れないんだ。だから……、お願い」

「なーにをしたんだ」

巌はソファに寄りかかったまま、視線だけをだるそうに将に投げてきた。

「なんだっていいじゃん。……相当悪いことだよ」

そういいながら、将は緊張のあまり、震えそうになる。

さっきまでワインで火照っていたのに、なぜか寒い。火鉢の上に手と顔をかざす。

巌は目を三日月のように細めて

「オンナか」と訊いた。

「違う」

反射的に将はムッとした。

「そうか、オンナじゃないのか。……よかった、わしゃ、お前がどこぞの娘さんを手篭めにでもしたのかと心配したぞ」

「そんな極悪非道、するわけねーじゃん、俺が」

将は口を尖らせつつも、少し緊張が和らいだ。

「じゃあ、何なんじゃ」

巌は背もたれから身を起こして、食い下がった。

「いいじゃん、もう」

将はそっぽを向いた。すると巌は

「じゃあ、誰も紹介せん!」

とヘソを曲げて「ハルさん、ハルさん」と大声で呼んだ。2回目は声が裏返った。

母屋の奥から「はーい」と聞こえる。

「風呂じゃー!」と巌は叫ぶ。

ヤバイ。このままじゃ、本当にヘソを曲げたままになる。

「いや、ヒージー、困るよ」

将は、火鉢のそばから立ち上がると、ヒージーの腕かけのところに駆け寄った。

「じゃあ、何したんじゃ。教えなさい」

「殺し……」

将は、俯いて小さく呟いた。巌の目は恐くて見ることができない。