第219話 自分の道

「真剣に何の話してたの?」

タクシーの中で、篠塚が将に訊いた。

篠塚はフランス語がほとんどできないので、将とロマーヌの会話が理解できていなかったのだ。

「いろいろ……。将来のこととか」

将は窓の外の暮れていくパリの街に目をやりながら答えた。

今の時期のパリは、暮れはじめてからが長い。

長い夕暮れは夜の8時すぎまで続くのだ。

「そう。かなり勉強になったみたいだね」

「ハイ」

将は素直に答えた。

彼氏の話をする愛くるしいロマーヌは、一方で自分の人生もまじめに考えていた。

人生で一番大事な時期だから、彼に会うのも我慢できるという。

もし、自分が失敗したら、彼の方が悲しむだろう……。

そんなロマーヌの言葉に将は聡とのことを考えずにはおれない。

将とはもう付き合えない、ただの教師と生徒に戻るべきだ、といった聡を将はひどい、と思った。

あんなに愛し合っていたのに、どうして急にそんな残酷なことが言えるのだろう、と恨みかけさえした。

だけど。今ならわかる。

聡は、将のためを……将の人生を思ってあんなことを言ったのだ。

それは

『あたしのために、何でも捨てちゃう将が心配なの』

という言葉にも表れている。

 
 

『アンドレってばね。毎日メールで、今日は何の勉強をしたか、ってチェックを入れるのよ……おかげでサボれないわ』

ロマーヌはあれからさらに嬉しそうに付け加えた。

『あのさ。バックを控えた人はみんな、恋人と会うのを我慢してるの?』

将は訊いてみた。人生の局面と恋は両立できないのか、と思ったのだ。

『ううん。会ってる人もいるよ。我慢できないんでしょうね』

ロマーヌはうっすらと笑った。

それは、自分のことかもしれない、と将は思った。

『でもね。アンドレは違うの。彼は本当に私のことを考えてくれてるから……。

だいたいバックが終わるまで会うのを控えよう、って提案したのはアンドレのほうなの。彼自身すごくバックで苦労したらしいから……』

もし彼が、自分のことしか考えないのだったら、ロマーヌの試験のことなど考えずに、毎日のようにデートしてるはずだ、とロマーヌは熱い目で語った。

 
 

そのとき将を世界と隔てていた硬いガラスにひびが入り、それはあっさりと瓦解した。

そこから温かいものがなだれこんできて、将の心はそれに浸された。

わかっていたはずなのに。

わかろうとしなかった、それに耳を塞ごうとしていた甘えた自分。

ぬくぬくとした、二人の時間を守ろうと、ただそれだけに必死になっていた。

だけど、聡は。

もっと先を……今の将だけでなく、将の可能性を含めて将を大事に思っていてくれたのだ。

将が見つめるパリの空に、聡の顔が浮かぶ。ベソをかいた顔。

8歳年上とは思えない泣き虫の聡。二人のときの、甘えん坊な聡。

しかし、彼女は二人の刹那だけでなく、遠くを見据えていたのだ。

見捨てられたのではなく、もっと深い愛情に包まれていたのだ……。

――自分は、聡のために、今、何ができるだろう。

西の空を眺める将の瞳が、澄んだ空の色を映している。

 
 

今日の宿は、パリ市街にあるプチホテル・Mだ。

ここに撮影も兼ねて2泊することになっている。

クラシックなしつらえの部屋と、モダンなしつらえの部屋の2通りがあり、将はモダンな部屋を割り当てられている。

モノトーンで統一された部屋に入った将は、昨日とは違った気持ちで、ベッドに身を投げ出した。

昨日はただ重かった体だが、今日はその重みが『生きている』という実感を伴っている。

何かをしなくては。そんなパワーが重みに転化しているのかもしれない。

将は仰向けのまま深呼吸をすると時計を見た。まだ19時になったところで、空は明るい。

このあと、近くのレストランにリヨン料理を食べに行くことになっている。

軽い空腹を感じて、その空腹感が久方ぶりだったことを将は思い出した。

この3日間、空腹感も食べたものも、何も他人事だったのだ……。

将は今日の昼食べた、ブルターニュ風のクレープを思い出した。

目玉焼きとソーセージ、チーズを、そば粉入りの甘くない生地で包むように畳んである。

その味を今ごろ、舌の上に再現する。子供の頃に何度か食べた懐かしい味だ。

シードルも日本では飲めない、濃いものだ。

空腹の将が、食べ物のことを思って時間をつぶしていると、ベッド近くにある電話が鳴った。

武藤だろうか。

夕食に出発するというのだったら嬉しい……将はベッドの上を這って電話に出た。

フランス語だった。

「ムッシュウ・タカエダに日本のマダム・コジョーから電話です」

リラックスしていた将は、フランス語を理解するのに1拍、マダム・コジョーが誰かを判別するのに1拍ほどの時間がかかった。

返事もしないうちに、

「将……」

とどんな音楽よりも聞きたかった声が受話器から聞こえてきた。

「アキラ!」

将は思わず飛び起きて、ベッドの上で正座をした。

「将……、元気?」

「う、うん。元気、だよ。って……アキラ、今そっち何時?」

「2時すぎ……」

将は急な聡からの電話に、何を話せばいいのかわからない。

地球を1/3回転して……ユーラシア大陸を越えて、宇宙の衛星を中継して、届いた聡の声。

あまりにも嬉しすぎて、将は胸が苦しく感じた。

 
 

聡も、武藤から教えられた番号を押しているときから、鼓動が乱れていた。

交換台が出て、待っている間も……ずっと心臓は痛いほどに乱打していた。

そしてついに将が出たとき。それは動きを止めてしまうのかと思うほどに、キュッと収縮した。

さっき、日本時間、22時すぎ。

わざわざ国際電話をかけてきてまで、武藤が聡に依頼したことが、まさにこれだった。

『実は……将が、元気がなくて、撮影が難航しているんです』

『……ハイ』

冷静に相槌を打ちながら聡は、ああ、やっぱり、と額に手をあてた。

やはり、自分が出発前にあんなことを言ってしまったせいで、将に影響を及ぼしてしまった。聡は後悔する。

『それで、古城先生に、彼を励ましていただきたいんです。彼は……将は、古城先生をとても慕っていると聞きました。古城先生にお電話で励ましていただければ、将も少しは元気がでるんじゃないかと思って……』

武藤は『古城先生を慕っている』という言葉を使った。

あくまでも、聡が将の恋人だと知っているとは言わなかった。

だけど、聡にはわかっていた。

武藤は、自分と将の関係を見抜いていると。だからこうやって、わざわざ電話をかけてくるのだ。

それはいいとして……、付き合えない、と宣言した将をどうやってなぐさめるのだろうか。

『私に……、鷹枝くんを励ませるでしょうか』

『ええ。古城先生にしか、彼を元気付けられる方はいないんです。どうか、ぜひお願いします、古城先生』

武藤の真摯な熱意は、国際電話を通しても聡に十分に伝わった。

だから、聡は引き受けてしまったのだが……こうして、将と実際に電話が繋がっても、何を話していいのかわからない。

どうやって彼を励ませばいいんだろう。

『やっぱり付き合える』といえばいいんだろうか。

いっそ、そう言って、自分の言葉を無効にしてしまいたい、元通りに将と一緒にいたい……そんな気持ちも聡の中には、依然存在するのだ。

「将……」

こうして名前を呼ぶことしかできない。

国際電話料金が高いのは知っているけれど、こうやって無為な時間が流れていくのを、聡にはどうすることもできない。

「……アキラ。俺さ」

将の声が無為な回線を有為に変える。

「アキラの気持ち、わかったから」

思わず、携帯を握る聡の目から涙がこぼれ落ちた。

「俺、とんでもなく子供だったよな」

静かな調子の将の声。

「目が覚めたよ、俺」

「しょう」

将は、遥か遠くの聡がすすりあげるのを聞いた。

「アキラ。俺、アキラの気持ちに、絶対に応える」

将は、自分で自分の考えを1つ1つ確かめるように言葉をつむぎだす。

「俺のやりたいことが、芸能界なのかはわからないけど……。でも、とりあえず頑張ってみる。そして、アキラを心配させないでいいような、大人に1日も早くなる」

涙は、もはや、とめどなく聡の頬を流れ続けている。

「しょう……」

「誰も文句を言えないほどの実力をつける。何年かかっても。……そしたら、アキラを迎えに行くから、絶対に」

何をすればいいのか、何をするべきなのかは、あいかわらず将にはわからない。

だけど、聡のために、自分をせいいっぱい生きていく。

将には、未来へ続く自分の道が見える気がした。

「アキラ、愛してる」

将は、何度か言った、この言葉に、今までにないほどの想いを込めた。

「将、あたしも。……あたしもよ。将が大人になるのを……待ってる。ずっと待ってるから」

今は、流れる涙と一緒にほとばしる気持ちを将に伝えたい。聡は思わずそれを声にしていた。

いつか大人になった将は、自分を忘れるかもしれない。

だから、愛の言葉を伝えるのはこれが最後になるのかもしれない。

そんな哀しい予感を……聡は抱えている。

「将。私は、将だけを愛してる。ずっと……、ずっとよ」

「アキラ」

ついに将の目からも涙がこぼれた。

聡の言葉に、何かの予感が感じられて、それが無意識に将の感情を動かしたのだ。

「将……。頑張って。ずっと見守っているから……」

「アキラ……、頑張る。頑張るから、俺」

このままずっと地球の1/3の距離を結ぶ回線を離したくなかったけれど、明日も学校だから、と聡のほうで電話を切った。

聡は、電話を切ってからも、ずっと涙が止まらなくて……おかげで、翌朝、瞼がひどく腫れてしまった。

将のほうは、少しだけ涙が残ったが、新しく勇気が湧いてくるのを感じていた。

……後年、将はこのときを、自分を変えたターニングポイントのうち、重要な1つとして振り返ることになる。

二人は、新しい局面を迎えようとしていた。