第260話 遺言(3)

空の青さと蝉の声が東京より一段階強い、と駅舎を出た聡は思った。

「アキラ!」

声に振り返ると、漆のような黒塗りに太陽を反射させたシロトエンの横で将が手を振っていた。

『将』という呼びかけを、思わず飲み込んだのは、運転席の傍らできちんと帽子をかぶった運転手がこちらに一礼したからである。

聡も深々とお辞儀を返すと、教師バージョンで将を呼ぶ。

「鷹枝くん」

「将でいいよ。こっちでは、もう公認だから」

将はそういうと、目を細めて眩しげに聡を見つめた。

夏の日差しが眩しいのか、聡も目を細めている。

その顔や紺色のノースリーブのブラウスから剥き出しの腕の白さは太陽の光をそっくり照り返すかのようだ。

白いプリーツスカートは教室では見ないものだ。

「貧血は大丈夫?」

「ええ。サプリメントを飲んでるから、だいぶよくなったよ。……ケガのほうは?回復は順調?」

将でいい、といわれたが、そぐわない気がした聡は、主語を省略してしまった。

「手首は明日抜歯。腫れもだいたい引いたんだけど、左目と右足がどす黒くなっちゃってさぁ。気持ち悪いのなんのって」

将が冗談めかして答えたところで

「暑い中、立ち話も何ですから、中へどうぞ」

運転手の西嶋が、にこやかにシトロエンのドアをあけた。

 
 

「ヒージー。アキラを連れて来たよ」

将は唐長の襖に向かって声を張り上げると、それをいきなりすっと開けた。

聡はあわてて頭を深々と下げた。

「お初にお目にかかります。古城聡と申します」

「おお、おお、あきらさん。こっちに来て掛けなさい」

可動式ベッドに寄りかかっているのは、枯れ木のように痩せた老人だった。

だが、窓からの眩しい照り返しにも、重厚な調度にも負けないオーラが、どことなく漂っている。

なんといっても、大臣を務めたこともある政界の長老なのだ。

ちなみに今日は、巌のベッドのそばには、洋館から持ってきたソファがしつらえてある。

「あれ?あゆみさんは?」

いつも巌の世話をしているあゆみの姿が見えない。

「あれの『びすとろ』とやらのポトフが食いたいと言ってやったでな、なにやら慌てて取りに帰ったわ。

本当はお前が若い美人を連れてくるから、やきもちを焼いたらいかんと、わしが気を遣ったのじゃ」

といって巌はいたずらな笑顔を将、聡に向けた。

「若くて美しいだけでなく、好い所のお嬢さんじゃな。あきらさんは」

巌は細めた優しい目を聡に向けた。

「いいえ。とんでもありません。うちは共稼ぎの一般的な庶民です」

聡は笑みを浮かべながら、一言一言穏やかに返した。

「ふっふ。最近の若い娘さんで、畳の縁を踏まないように躾されている者は少ないぞ」

聡は声にしないで『ハイ』とやや照れて俯いた。萩の武家屋敷を借りて住んでいるゆえの賜物だろう。

いわゆる日本家屋における立居振舞は、家を大事に長持ちさせるための、合理的なものなのだ、と萩焼を焼く叔父に教わったのが役に立った。

「ところで……あきらさんは、将の学校の先生なのじゃな」

「ハイ……」

出された麦茶を飲んでいた聡は、喉がつまる思いがした。

それがどういう意図なのか、少し動悸がする。

将はたしか、二人のことはここでは公認だ、といった。

それを裏付けるようにさっきからアキラ、アキラと呼び捨てだ。

運転手も、お茶を出してくれた老婦人も、皆心底歓迎してくれているように感じた。

だが、先生=教師が教え子を……という事実を問い質されるのではないか、と聡は戦々恐々として巌のほうに視線をあげた。

「実は、学校の先生をしているあきらさんにぜひ訊いてみたいことがあったんじゃ」

「ハイ」

答えながら聡は思わず逃げ出したくなった。

将は、何も気づかないように、笑顔で聡と巌を見比べている。

「わしはな。畑仕事のあいまに、子供を持つ親御さんを集めて、教育についての意見などを聴くことにしているのだが……」

どうやら、将との恋仲を問い質されるのではない、とわかって、聡の張り詰めた気持ちが急にほぐれる。

「その中で『とにかく他人に迷惑をかけないように』という意見がやたらに目立つのじゃ。あきらさん、あきらさんはそれについてどうお考えじゃ?」

聡は思いがけない質問に軽く目を伏せた。

将は、聡の長い睫が下をむいたまま3回またたいて、再び巌の方に戻るのを見た。

「大事なことだと思います。……ですが」

「ほお?」

巌は、ですが、という接続詞に大いに興味を示した。

「あくまでも最低限、の話だと思います。それだけに終わってはいけないと思います」

将は、低い声で、ゆっくりながらも自分の意見を述べる聡の横顔を驚いて見つめた。

「その心は、いかに?」

「はい。……人間というのは生まれながらにして、知らず知らずのうちに誰かに迷惑をかけているものです。

それに、何が迷惑になるかは、個人の価値観や習慣によって違ったりします……」

「そうだな。日本では泥足で家に入ることは迷惑千万だが、英国などでは臭足を見せることのほうこそ迷惑だそうだからな」

「はい。ですから、どうしても迷惑をかけてしまうことを前提に、その分、何をすれば人の役に立てるか、喜ばせることができるか、を考えるほうが建設的だと思います」

聡はまっすぐに巌を見据えるといったんそう言い切った。だがすぐに「ただ」と付け加える。

「それはあくまでも私の理想です。……私の勤める高校では、最低限を身につけさせることでせいいっぱいです」

下を向いた聡の声は、最後には消え入りそうになった。

将はただ驚いていた。聡が、そのうるんだ瞳の中で、胸の中でこんなことを考えているとは。

「天晴れじゃ!」

いきなり大きな声が発せられたので、将も聡も驚いて巌のほうを見た。

巌は心から嬉しそうな顔を見せた。

「将!あきらさんは素晴らしい先生だ。お前も精進しないと、すぐに捨てられるぞ」

「そんな」

聡は思わず乗り出すようにして声にしてしまった。

『そんなことはない』という言葉の向こうにある自分の気持ち。

それを確認して思わず熱くなった顔を隠すように俯く。

「将、台所のハルさんを手伝ってきなさい」

なぜか巌は急に将に申し付けた。

「えー、なんで」

将は不満げに口を尖らせた。

「あきらさんに話があるんじゃ。つべこべ抜かすな」

なんだかんだ言っても巌には逆らえない。

将はちらりと聡のほうに視線を投げた。聡も心細げな顔を将のほうに向けたが、再び俯いてしまった。

巌の真剣な視線に、将は仕方なく立ち上がると、襖の向こうに消えた。

将がいなくなると、部屋はたちまち広くなってしまった。

昼下がりの庭から届く蝉の声はいっそう激しくなったように思えた。

「あきらさん」

永遠のように感じられる、重い沈黙のひとときを破って、巌は今までで最も優しい声をかけた。

「はい」

思いがけない声音に聡は顔をあげる。

こわごわ……だが、もう後戻りはできない、と意を決して可動式ベッドによりかかった巌の顔を見ようと試みた。

何の話か、だいたい予想はついている。

「将を……誠に好いてくれているのか」

あんなに騒がしかった蝉の声が感じられなくなった。

予想していたはずなのに、聡はとっさになんと答えていいかわからなくなった。

聡の視線はいとも簡単に、自らの膝のあたりに墜落した。

「……申し訳……ありません」

声にしたとたん、目をぎゅっとつむる。それがせいいっぱいだった。

恐い。

皺だらけの顔に、ほとんど動かないらしい体。優しい声。

だけど巌にはオーラがあった。

こんな立派な紳士の前で……教師が生徒に恋している、そんな浮ついた告白など、どうして出来ようか。

「あきらさん」

巌はぽつりと、呟くように聡の名を呼んだ。仙人の呼びかけのような、すべてを悟った声。

「……はい」

「顔をあげなさい」

巌の声は穏やかだったが、威厳に満ちていたので聡は、ぎこちなく顔をあげた。

聡の目にはすでに涙が浮かんでいた。恐ろしくて泣いてしまうなど、何年ぶりだろうか。

「……あやまることも、泣くこともない。わしは、あなた様を責めたいわけではないのじゃ」

「で、でも……すいません」

再び俯く聡の声の最後のほうは、喉の奥から絞り出すような細いものになっていた。

将は、襖のこちら側で盗み聞きしながら、聡がどれだけ自分とのことに罪の意識を持っているのかを再確認することになり、胸が痛んだ。

「なあ。あきらさん。あれは不憫な子でのう」

巌は俯いたままの聡に静かな調子で話し始めた。

「まだ子供の頃に母親を亡くし、寂しいときに父親は多忙のきわみ、やっときちんとした継母がやってきたと思ったら、爆破事件でぎくしゃくしてしもうた」

巌によって語られる将の身の上。将は襖の向こうで身じろぎもせずに聞いていた。

「家出中もいろいろとあったらしい」

いろいろ、とは主に殺人事件のことだろう。巌が略した内容は、聡も知っている。

聡は、そのことと、それがもたらした今回の将の負傷を思い、唾を飲み込んだ。

「……わかるかの。あれは心も体も傷だらけなのじゃ」

「……はい」

聡は返事をしながらハンカチで涙をぬぐっていた。

それは、最初は自らの罪の意識から出た恐れによるものだったが、徐々に将の身の上を再確認したゆえの憐憫の涙に変わっていた。

「1年前まで……あれの目はほんとうに冷たくて、そのくせ寂しげでのう。暮し向きも刹那的で殺伐としていたらしい。

あのままなら、あれはどうなっていたやら……だが」

巌はそこで言葉を区切る。聡に視線を注ぐ……それを感じて聡も、ハンカチを目にあてたまま、おずおずと顔を上げた。

「あれを変えたのは、あきらさん、まさに、あなた様なのじゃ」

皺の一部のような瞼を見開くようにして、聡を見つめている……その老人ながら澄んだ瞳は、すでに涙で潤んでいた。

「あなたのことを好いたおかげで、あれは本来の姿を取り戻したんじゃ」

聡は眉をゆがめて、必死でかぶりを振った。

違う。将は、最初から将だった。聡はそう思っている。

しかし、巌は続ける。

「単なる惚れたはれただけでは、こうはいかんだろう。あなた様だから将は立ち直ったんじゃ。

……あきらさん。あなたは将にとって、先生であり、恋人であり……、そして……おそらく、母でもあったのだろう」

りん、と風鈴が障子の外で鳴った。

風はガラス障子に遮られてここには届かない。

だが、それが合図のように、蝉の声が一瞬静かになった。

「あきらさん……どうか」

ぼうっとしていた聡はハッとして、巌のほうを見た。声の調子が穏やかなものから変わったからだ。

巌は左手をこきざみにふるわせて、こちらに伸ばそうとしていた。

聡は立ち上がると、ベッドの脇に寄ってその手をとった。

夏のさかりだというのに、乾いた手。乾いた薄い皮膚に覆われた長い指は……たしかに将との血のつながりを感じさせた。

巌は聡の顔を嬉しそうに見上げた。

「……あきらさん。どうか……頼む。わしの代わりに、あれ……将が」

巌の手は、表面だけでなく、その内部にも水分というものが極端に少ないように感じた。

かすかに感じる温かさを確かめるように聡は、握る手、そして巌を見つめる視線にそっと力をこめた。

「道をはずさぬよう……見守って……」

巌は白くなった睫にふちどられた目に涙を貯めて聡の顔を見つめた。

「そして……願わくば……倖せにしてやってくれ」

聡は、しばらく100歳の老人の瞳を見つめていた。

手の皮膚とおなじように乾いた瞼の中、涙に揺れる瞳の色は将と同じ色だった。

自分の目にも涙が溜まりはじめているせいか、それは徐々にぼやけていく。

そして、意を決すると、瞳から視線を動かさないまま、深くうなづいた。

巌は、安心したように微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。

目じりから涙が次々と流れ落ちて掛け布団のカバーにしみをつくった。

そして聡に握られた手を、握り返すべく、ときおり震わせた。それが生きている証だった。

さっきより温かくなった気がする……そんな巌の手を握ったままの聡も、新しい涙が湧いてはとめどなく流れていた。

襖の向こう側では……将も涙ぐんでいた。

いつのまにか蝉の合唱が輪唱のようにこだましていた。