第273話 夏の別れ(5)

葬儀当日もよく晴れた。

将は、朝から事務所の若手社員の運転する車に乗って、喪服を着た武藤と共に大磯の邸宅を目指していた。

将は高校生だから、本来は制服でもかまわないのだろうが、武藤が喪服の黒のスーツを用意してくれたのでそれを着ている。

幸い、将の顔の痣はこの日までにすっかりなくなった。

足のほうも、わずかな違和感とつま先に黒い内出血が残るものの、むくみもひき、ほとんど支障はない。

スモークの後部座席からの景色は、わずかに青みがかって見える。

将は、夏の太陽の下、きらめく太平洋の水平線を車窓から見つめていた。

世界は巌を失っても、何1つ変わらないように見える。

だが……将の世界では、将を愛した数少ない人間が一人減り、また巌が生きた政治の世界では貴重な長老を失った。

昨日行われた通夜では、焼香をと訪れる大勢の人がひきもきらなかったという。

そうやって、悼む人々は、巌がたしかにこの世にいた証である。

人は……ただ生きているだけではない。

人の中に生きている。人の存在は、他人とのかかわりのなかで初めて意味を持つ。将は今そんなことを考えていた。

将は……世界は1つであって1つではないのでは、と仮定してみる。

それぞれの人の中に、社会の中に、1つずつ世界があるとしたら。例えばドラマのように。

どれだけ多くの世界の中に登場できるのか。

また、誰かの世界で重要な存在に……主要人物になれるか。

それが、人の生きた証になるのではないだろうか。

将にとって巌は、まさに重要な人物だった。

巌は、また将という個人だけでなく、国家という単位の中でも必要とされた。

そういう意味でも偉大な人物だった。

自分は誰かの重要な人物になりえるのだろうか……そう考えた将は、自然に聡を思い出す。

聡の中で……聡の世界の中で、将の世界の中の聡のように、在ることができれば。

それこそ将が生きている証だろう。

いつもと変わらない太平洋を見つめながら、将の思考は、人の生の意味、自分の中の聡、自分の存在を順番にめぐっていた。

 
 

巌の邸宅の近辺から、そろそろ渋滞が始まっていた。

参列者の多くが東京から参列するうえに、重要人物が多いのだ。ゆえに多くが車でやってくる。

それに、マスコミもかなり来ているようだ。数こそそう多くないがテレビカメラも見え隠れしている。

渋滞する車を囲むように、交通整理をする警察やSPらしき黒服がうろうろしている。

彼らは、まるで検問のように運転席の窓を開けさせて、誰が乗っているのかを質問している。

「おそらくテロ対策でしょうね。今日は要人が多いから」

将の車を運転する、事務所の若手社員がつぶやいた。

将たちも質問されたが、そこの関門は難なく通過できた。

巌の邸宅の前の、大木が茂る細い田舎道は、いつもの静かな趣は消えて、車がずらりと並んでいた。

あまりの騒がしさに、いつもは祭典のような蝉の声が、なりをひそめてしまっている。

狭い道なので一方通行にし、門のところで参列者だけ下ろし、運転手は近くの小学校の校庭に車を止めることになっているようだ。

足腰もおぼつかない年寄りの参列者が多いので、降りるのにやたら時間がかかるのと、駐車場になっている小学校の場所の説明で車の進みは遅い。

将と武藤は、目立たないよう、門の手前、土間の台所がある裏門で車を素早く降りた。

そのまま裏木戸の中に入ってしまおうとしたとき、前に立ちはだかる黒いスーツがいた。

毛利だ。

「……困りますね」

小柄な毛利は、小さい声で言うと、銀縁の眼鏡の下から将を見上げた。

将は挑戦的な気分で、毛利を睨み付けた。

しかし、さすがにマスコミもいるこの場での押し問答は、目立ちすぎると毛利もわかっているのか、

「とりあえず、こちらへどうぞ」

と、隣のハルさんの家に将と武藤を案内した。

「まあ、まあ、おぼっちゃま……」

自宅と巌の邸宅の間を往復して、下働きをしていたハルさんは、居間に座る将の姿を見ると涙をこぼした。

「御前もお待ちかねですよ。今日はお忙しいのによくおいでになりました……」

動きづらいのか、着物ではなく、黒いワンピースの上に白い割烹着を着ている。

「巌様は、本当に安らかなお顔をされていました……」

ハルさんは巌の最期のようすを話してくれた。

亡くなる前の日も、いつも通りにあゆみに体をぬぐってもらい、いたって普通に食事をし、そのまま休んだという。

そして朝、起きたあゆみさんが様子を見に行ったら、ベッドの中でそのまま冷たくなっていたという。

医師によると死亡推定時刻は、午前4時頃とのことだった。

『昨日の粥は本当に絶品じゃった。将のやつ、また来ないかのう』

と食事に際して言ったのが最期のことばだったという。

将は、もう耐えられなかった。

さっきまでの挑戦的な緊張感が一気に瓦解した反動でゆるんだ全身の血管に、怒涛のように感情が流れ始めた。

歯こそ噛み締めていたが、声にできない分まで涙があふれはじめた。

悲しい、と意識をするような思考力はない。

ただ、生理的に涙があふれてきてしまうこの状況……将は全身を支配しそうな感情にかろうじて抗って声を出すのをこらえた。

肩が震え始めた将に気付いて武藤が、無言でハンカチを差し出す。

そこへ。

目の前にいたハルさんが、ハッとして将の後ろを見ると、ひれ伏した。

振り返ると、毛利を伴った康三がこちらに向かって歩いてくるところだった。

「来るな、と言っただろう」

康三は座っている将を見下ろした。将は涙を手の甲でぐいとぬぐった。

何も答えられないその瞳は、悲しみの色から、瞬時に怒りに変わった。

しかし、何と言い返せばいいのか、悲しみに膨張してしまったような脳細胞は巧く働かない。

将は唇を震わせて康三を睨みつけるしかなかった。

「康三様……失礼ですが……あんまりじゃありませんか」

ハルさんが、思わず涙声のまま康三に抗議する。

「申し訳ありませんが」

それでも康三は一応、ハルさんに礼儀はつくしつつ、突っぱねる。

「鷹枝家の問題です。口を挟んでいただくにはおよびません……それに武藤さん。今日は来ないように、とご連絡さしあげたはずでしょう」

矛先は武藤に向かった。

武藤は座ったまま、一応深々と礼をすると、深く息を吸い込んで答えた。

「お言葉ですけれど……将は……将さんは子供の頃、故人さまに預けられていたこともあって可愛がられていたと聞いております。

ゆかりの深い親族の葬儀に出席するのは当然だと私が判断したのです」

「ですが」

そこへ毛利が口を挟んだ。

「御社とは、将君の身元を明かさないことを条件に、契約したんですよ。

……この状況で葬儀に出席させるというのは、立派な契約違反ではないですか」

『契約違反』を持ち出されて、武藤は押し黙った。

「……とにかく、今日はお帰りください」

康三は、丁寧な口調ながら冷酷な言葉を、武藤と将に投げかけると、踵を返そうとした。

「待って下さい。一般の参列者としてでもだめでしょうか」

武藤はその背中に向かって叫ぶように訴えた。

康三はゆっくりと振り返った。

「……御社の手腕でしょうか。今では将も、立派に世間に顔が知れるようになっています。

……一般の参列者に置いても、目立ちすぎてしまうでしょう」

静かながら、とにかく将を葬儀に出席させないという決意は固いようだった。

将は、いつしか睨むのをやめて俯いて、畳の目を見ていた。

――ごめん。ヒージー……。約束守れないや。

畳に、巌の在りし日の姿が浮かび上がってきた。俯いた将の目に再び涙が盛り上がってきたそのとき。

「あなた。何という言いようですか」

と鋭い女の声が聞こえた。

顔をあげた将の瞳に、義母の純代の姿が映った。

この暑い中、きっちりと喪服を着けている。

「そんな酷いことを実の息子に向かってお言いになるなんて、あなたは人として恥かしくないんですか」

「純代……」

従順な妻からの思わぬ反撃に、康三はあきらかに狼狽していた。

毛利は、康三の陰に隠れるように一歩奥に下がった。

「それに将は、うちの跡取じゃないですか。跡取が葬儀に参列しないなんて、それこそ道理にあってません」

純代は静かに、しかし威厳を持って、ずい、と進んでくる。

意外な出来事に、将の涙はひっこんでしまった。

康三も毛利も、のけぞるような姿勢になった。

「しかし、将の身元が世間に……」

「身元なんて、隠したっていずれ知れるものでしょう!」

純代は二人に向かって一喝した。凛とした声が、家中に響き渡った。

二人は黙り込むしかなかった。純代は将を振り返ると、そこに静かに正座した。

その立居振舞は、さすがに名門・岸田家の息女だけあり、無駄なく、かつ、たおやかな動きだった。

まず武藤に、両手を揃えて深々と礼をする。そして、将に

「将、忙しいのによくぞ来てくれました……。大おじいさまも、お喜びになるわ。さあ、一緒に参りましょう」

純代は将にむかって膝を進めると、一緒に立ち上がるように促した。

「あちらで孝太も待っているわ」

将は、わけがわからないまま頷くと、純代と一緒に立ち上がった。

康三は、目をパチパチさせながら、自分の目の前を通り過ぎていく、純代とその後に従いていく将を見送った。

「御前のおぼしめしです……」

ハルさんは小さく呟くと、数珠を顔の前にあげて拝んだ。