第292話 運命(3)

「アキラ!」

洗面台にかぶさるようにして咳き込む聡の背後に、将も思わずかけよった。

聡の唇から洗面台には白い唾液が落ちるのみで、何か固形物を吐くというわけではない。だが痙攣するかのような嘔吐の動作は続く。

ぜいぜいと苦しげなパジャマの背中をさすりながら、将はある考えに思いがいたる。

「アキラ……、まさか、アキラ」

学校での貧血。そして吐き気。

「……できた……の?」

ようやく波のように逆流する内臓の動きがおさまりつつあった聡は、洗面台から視線をあげる。

洗面台の鏡の中に、息を飲んで自分をみつめる将の顔が映っていた。

将も、鏡の中の聡の顔を見つめていた。その赤くなった顔が……歪んだかと思うと再び鏡の中から崩れるように落ちていった。

ユニットバスの床にしゃがみ込んだ聡は、膝に顔をつけんばかりに俯いた。

パジャマの華奢な肩がこきざみに震えている。

「アキラ……」

思わず将も聡にあわせてユニットバスの床にしゃがみこむ。

「……ごめん」

聡は顔を膝の中に埋めたまま、うめくように呟いた。

「あたしが、いけないんだ……あたしのせいなんだ」

「て、アキラ」

将は、膝で隠れた聡の顔を覗き込むようにした。

だがその顔は膝と腕で隠されていて見えない。

たぶん泣いているのは震えていることからもわかる。

将はできるだけ優しい声を出してもう一度確認する。

「本当に?できたの?」

もうあれから1ヶ月になろうとしている。

せせらぎの中、声をひそめるようにして何度も抱き合ったあの夜の……。

聡は、声を出さずに、より膝に顔を埋めるようにして頷いた。

 
 

まず、生理が4日遅れた時点で、おかしいと思った。

12歳で生理が来てからというもの、聡は始まった年の冬に3日遅れた以外、極めて正確に毎月やってきていたのだ。

遅れたり早まったりしてもせいぜい2日。

だから、あの日……将と結ばれた日は、完全に安全日のはずだったのだ。

それが、もう4日来ない。

もしかして夏バテで体調がおかしかったから、遅れているだけかも。そう思って聡は毎日、それを待った。

5日、6日、7日……日にちが過ぎるごとに、聡は薬局の前を通るときに、威圧感を感じるようになった。

そこには聡が確かめたいことを調べる道具が売っていたから。

日ごと、聡は薬局の前を通るたびに、動悸が強くなるのを感じざるを得ない。

そしてついに14日が過ぎてしまい……聡は薬局に入らざるを得なかった。

まさか、自分がこの商品……妊娠検査薬……を、こんな風に恐れながら買う日が来るとは思わなかった。

こそこそとレジに他の客がいないときを狙って買う未婚の自分は、ひどくだらしない女だと思われているのではないか。

聡は女の店員の様子を盗み見た。

だが、幸い妊娠しても倫理的にも社会的にも問題ない年齢に達していた聡は、何の咎も受けずに、スムーズにそれを買うことができたのだった。

それでも……往生際の悪い聡は、それを買ったまま放置すると、一縷の望みをかけたまま19日から始まる4連休を過ごした。

果たして……生理は来なかった。

連休最終日も夕方になって、聡はようやく意を決すると、検査薬の封を切った。

検査薬は……あっけらかんと、聡が妊娠していることを伝えたのだった。

 
 

「病院、行ったの?間違いないの」

将の問いかけに、聡はあいかわらず無言で頷くしかない。

 

『間違いかもしれない。検査薬が誤った結果を出しただけかもしれない』

という最後の望みをかけて聡は昨日、病院にいった。

学校から遠く離れた、女医がやっている病院をわざわざネットで調べた。

30代後半と思われる痩せぎすの女医は、尿検査の結果を見ると、抑揚のない声で淡々と言った。

「妊娠してますね。最後の生理はいつでしたか」

「8月8日です」

「じゃあ……いま2ヶ月ですね」

そのとき聡は初めて、妊娠○ヶ月というのが、最後の生理が始まった日から数えるものだということを知ったのだった。

それでも聡は、納得できなかった。

どうしてきっちり28日周期の自分が、あのタイミングで妊もるのか。

あの日は安全日じゃなかったのか。

「あの……」

聡は丸椅子の上から控えめに声を出した。

「何か?」

女医の一重瞼にひるみそうになりながら、聡は思い切って問い掛ける。

「排卵日って……急に1週間もずれるものなんですか?それまでずっと正確だったんですけど」

質問を発してしまって、聡はしまった、と後悔した。

これでは自分が望まない妊娠、つまり失敗をしでかしたことが、この女医にバレバレになってしまったではないか。

しかし女医は、首を少しすくめた聡に目もくれず

「風邪をひいたりして薬を飲んだりとか……体調が悪かったり、ストレスが溜まっていたり、ダイエットしたりとか。1週間ぐらいは普通に狂いますよ」

と極めて淡々と回答した。

そういえば今年の夏は聡にとってことさらに暑かった。

きちんとした服を着込んでの蒸し風呂のような教室。そして毎日の補習。

ずっと夏バテで貧血ぎみだったあの頃から……聡の体の歯車は少しずつずれていたのだろうか。

とりあえず淡々とした様子を続ける女医の口調にほっとしたのも束の間、

「産みますか?」

という短剣が聡に突き刺されたのだった。

 
 

いる。……このお腹の中に、将の子が。

あの夜、将から受けた精のうちの1つが……確実にいま、聡の腹の中で育っている。

「アキラ、アキラ」

気がつくと、聡はユニットバスの床に座り込んだまま呆けていたらしい。

将の顔が目の前にある。

さっきと同じ、心配のあまり睨みつけるような顔になってしまっている。だけど聡の肩に置かれた手は温かい。

「将……」

角膜に映る、将の顔が万華鏡のように崩れた。

ゆがめた睫の間から大粒の涙がこぼれて、頬をつたっていった。

――産めるわけがない。

本当は……あの翌日も、その翌日も。

数日間は聡の中で生きているであろう将の精子が……聡は嬉しかった。

自分を抱きしめたくなるほど、いとおしかった。

それが、聡の卵子と結び合って1つの命をつくったのなら……聡にとっては素晴らしい僥倖のはずだった。だけど……。

「ごめんね。将……」

教師が教え子の子を身ごもったなどと、どこの世間が許すだろうか。

まして、将は……人気急上昇中のイケメン俳優、しかも官房長官の息子だ。

『迷惑はかけないから……。自分でなんとかするから』

と哀しい決意を口にしようとした聡は、ふいにがっしりと抱きしめられた。

熱くて弾力がある将の胸が意を決したように深く動いて息を吸い込んだ。

「アキラ……。やっぱり俺たち、こうなる運命だったんだ」

将の声は吐息と共に、聡の背中に染み込むようだった。

そして、将はもう一度聡の両肩をしっかりと掴むと、向き直った。

「結婚しよう」

将の瞳は今までにないほど真剣に聡を見据えていた。

その真剣さに聡の『でも』という言葉はたやすく溶けてしまった。

将は、口元に微笑さえ浮かべながら続ける。

「子供が出来るなんて……、やっぱり俺たちの縁は本物なんだ」

そういうと将は、再び聡を抱き寄せた。首筋に鼻を擦り付けるように……いつになく、髪から背中を優しく撫でる。

「……将」

聡は現実におののきながらも、目の前の将にはからずも、体重を預けてしまう。

「予定日はいつだって?」

予定。産むことなんてまるで頭になかった聡だ。

思い出せるはずが……ない。

あの女医の問いかけにも、聡は『産めません』と答えるしかなかった。

女医はこれまた淡々と、相手の男から署名捺印をもらうように、と中絶同意書を聡に手渡したのだった。

「無理だよ……将」

聡は将の胸に手をおいて自分を引き剥がした。将がどんな顔をしているかは見ないでもわかる。

「ダメだよ。将……産めるわけないよ」

「どうして」

「だって……。教師が生徒の子供を産むなんて……ありえないし」

聡は将の顔を見ることができない。まるでユニットバスに話し掛けるような不自然さで聡は続けるしかない。

「それに、将は……芸能人でしょ。スキャンダルになっちゃう」

「いいよ、俺。学校なんかやめるよ。芸能界だって関係ない……」

そう言いながらなおも聡を抱きしめようとする将を、言葉ごと振り払うようにして聡は言葉を投げる。

「結婚だって。将は未成年でしょ。ご両親の承諾がないとできない……」

振り払った一瞬、聡の視線はとまどった将の瞳まで浮上したが、すぐに墜落してしまった。

「生徒を誘惑して、妊娠した教師なんて……、ご両親が承諾するわけがない」

そこまで言ってしまって、聡は涙が止まらなくなった。

あたりまえの理屈を……自分では納得していることを言っているのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。

「堕ろすしかないよ……」

その言葉はすでに涙声になってしまっている。

これではまるで、本当は堕ろすのが嫌で、取り乱しているように見えてしまう。

「アキラ……大丈夫だよ」

案の定、将は懲りずに聡を胸に押し当てた。

聡は、いけないと思いつつ、将の胸にすがってしまう。

すがったら最後、泣きじゃくってしまう。

将はそんな聡の髪を優しくほぐすように撫でた。

「大丈夫。アキラ。せっかくできた二人の子供だろ……。堕ろすとか言うなよ……」

「でも」

しゃくりあげながら、悲観的なことを言おうとする聡を将は優しく制した。

「大丈夫だから。絶対に俺たち結婚できるから」

将は、しゃくりあげる聡の背中を、とんとん、と叩いた。

なんだか、遠い昔……子供の頃、父親にこんなふうになだめられたことがある。

聡の背中で、セピアになった子供の頃の記憶が蘇った。

将は……聡のお腹の子の……すでに父親なのだ。聡は涙と共に、郷愁を飲み込んだ。

「学校や、仕事はいざとなったらやめればいいし……オヤジは絶対説得するから」

「でも、でも。せっかく卒業……それに元倉亮……」

「そんなものより、アキラが大事」

将は優しく、でも、きっぱりと言い切った。

「俺の人生で、アキラが一番大事なんだ」