第297話 不安(1)

「東大に、現役で」

聡は目を丸く見開いた。その白い喉に固唾が落ちていくのが将にも見えた。

昼食を実家で食べて、そのあと巌の墓に寄ってきた将が、聡の部屋を訪れることができたのは、午後も遅い時間だった。

雨はあいかわらず降り続いている。

「うん。とにかく東大に現役で入れば、結婚していいってさ」

将は聡の体を気遣って、自らキッチンに立つと、ハーブティを淹れている。

ティーバッグをガラスのポットに落とすがごとく、何でもないことだ、という風を漂わせてそれを繰り返した。

が、聡は絶句してしまった。

レモンの甘い香りが漂うお茶を将はマグカップに注いでローテーブルに運ぶと

「で、とりあえず、赤本買ってきた。2回もチャンスがあるんだな、東大って……それとコレ」

と紙袋を破いて分厚い本の朱色の表紙と一緒に出した『ママとパパの、はじめての赤ちゃんブック』と書かれた本を聡に嬉しそうに顔の前にかざした。

しかし、かざした本に、いっこうに聡からの手が伸びてこなくて、将は本の陰から顔をおそるおそる出すと聡のようすをうかがう。

将にむけられた聡の瞳はこれ以上ないほど悲壮感が漂っていた。

「無理よ……。今から東大なんて。そんな」

「だーいじょうぶだよ。俺がめちゃくちゃ頭いいの知ってるだろ」

本をテーブルに置きながら胸を張った将に、聡は俯いた頭を横に振った。

「あ、ひどい。ひどいなあ、担任なのに、否定した」

将はハーブティの入ったマグカップを手に取ると湯気の向こうでおどけて笑う。

だけど聡は、そんな将を見ようともせずに、その顔が見えないほど俯ききってしまっていた。

将はマグカップをテーブルの上に置くと、聡の傍らに寄り添った。

「……アキラ?」

「……」

聡に返事はない。

「アーキラ。大丈夫だから」

将は聡の肩に手をまわすと、顔をのぞきこんだ。

聡は泣いてはいなかった。ただ無表情に近いその顔には……絶望の文字だけがあった。

「アキラ、心配するなよ。俺、数学も国語も本当は得意だっしー。歴史もヒージーじこみだし。ちょっと覚え直せばバッチリ。

まあ、英語はちょっと……アレだけど。そこはアキラ教えて?……ね?」

「だめよ……」

ほとんど吐息だけのようなその言葉は、雨音に混じって将にはよく聴き取れなかった。

「やっぱりだめなのよ」

やっと聞こえたのは低い声だった。

「アキラ?」

「許されるはずがない」

「いや、だから」

東大に入れば、と続けようとした将は、言葉を飲み込んだ。下を向いていた聡が急に将を振り返ったから。

「ダメなのよ。教え子の子供を妊娠する担任なんて。常識じゃ考えられない!」

苦しげに聡は叫んだあと、再び吐息のような声に戻る。

「……あたしだって、そんな女、非常識だって思うもの。お父様は……できないことをわざわざ押し付けて……本当は反対してるのよ。わかるわ」

「アキラ」

「9歳も年上の担任教師と結婚なんて、ありえないし。お父様がかわいそう」

聡は、将を見ていなかった。ただ辛そうに……その辛さは自分のことより、将の父の立場を慮っているようにさえ見えるほどだった。

「アキラ。それは違う」

将は聡の両肩を掴んで、聡の視界に無理やり割り込もうと試みる。

「オヤジは俺たちのことは反対していない。本当だ」

「うそ」

聡は将のほうを見ようともしない。低い……冷静とも思えるような短い返事を返すのみだ。

「本当だよ。最初俺は、オヤジにアキラと結婚したい、ってだけ言ったんだ。

そしたら、大学を卒業したら先生とでも誰とでも好きな人と結婚すればいい、って」

聡は下を向くばかりだった。

「オヤジは、ただ早すぎるって言っただけで……。だけど、それも東大に入れば許すって」

聡の黒目は将を避けるように斜め下の床に注がれている。

「なあ。アキラ」

将は聡の肩を軽くゆすった。

だけど視線は微動だにしない。

「アキラ、俺頑張るからさ」

返事はない。聡の視線は床にべったりと貼りついたようだ。

「ね?」

「無理よ」

冷淡と思えるような口調だった。

「なんで」

聡は無理だ、という理由のかわりに

「あたし、自信ない」

と答えた。

「東大受けるのは俺だぜ?アキラは、お腹の子供のことだけ考えればいいから」

「それが」

聡の視線が将に戻った。

「自信がないの。あたし、子供なんか産めない……恐い!」

将にすがりつく瞳がみるみるうちに潤んでいく。そしてそれはついに溢れ出した。

「アキラ」

将は思わず聡を抱きしめた。聡も細い腕を将の体に巻きつけてくる。

「将、あたしダメなの。恐い、恐いの」

聡は将の胸で泣きじゃくった。

……こんなに弱弱しく、感情を剥き出しにした聡を……将は初めて見た。

感受性が豊かで泣き虫だけど、大人の女性として芯は強かったはずの聡。

そんな彼女が……思いがけない局面に対峙して、その恐怖のあまり泣いている。

「こんなの、早すぎる……」

「アキラ」

将はとまどいながらも、聡を受け止めた。

聡の体は、この2日のうちにまたいっそうか細くなった気がした。

思えば、昨日。

食べるたびに吐いてしまう、と書かれたメールを将は受け取っていた。

それからして、そもそもおかしかった。

ふだんの聡なら、将を心配させるようなことなど決してメールに書かない。

だけど、今の聡は、体を襲う異変が不安でたまらないのだ。

その不安に耐えられなかった聡は、思わずそれを素直に将に送信してしまったのだろう。

それほどまでに……聡は、今自分の体と人生を襲う不安に恐れおののいているのだ。

「アキラ……」

胸の中の聡はとても小さく見えた。

将はむせび泣く聡の背中を優しく叩きながら、どうしたら聡の不安を取り除けるか考える。

「アキラ。……ごめんな」

将は謝ってみた。聡の体におこった異変は将の責任だと思ったから。

だが聡は、肩を震わせながらも、首を横に振る。

「将が……わるいんじゃない」

そういうと、いっそう全身を激しく震わせた。

将は、聡の髪を撫でながら、自分の無力さに天井を仰いだ。

聡を幸せにしたいのに。

聡を守りたいのに。

将の子供を宿した不安に押しつぶされかけている聡。

――どうすればいい。

将は深く……ため息を吐いた。

ため息は、将の瞳にも涙を連れてきた。

それをこぼさないよう、将は瞼を閉じると、再び聡の肩とそれにかかる髪に自分の顔を深くうずめた。

甘い香り。すでに離れることのできない愛する人の……。

「ねえ、あきら」

やがて、将は聡の髪に優しく語りかけた。まるで子供に語りかけるような声音。

「子供……、あきらめる……?」