第304話 意外な救い(2)

漂うかつおだしの香りに将は目が覚めた。

記憶の中にある何かを煮ているような懐かしい匂いは、昨夜遅くに帰宅したときから漂っていた……それを思い出して、将は完全に覚醒した。

旭川からの最終便で、将が羽田に着いたのは、昨夜10時すぎだった。

入院した聡に、真っ先に会いたかったが、病院の面会時間などとうに過ぎている。

ダメもとで電話を掛けたが、病室にいる聡にはやはり通じない。

仕方なく将は、見舞いは翌日の土曜日に行くことにしてまっすぐに帰宅し、そこでかつおだしの香りを嗅いだのだった。

枕もとに置いた携帯を見ると、もう朝10時を過ぎていた。

昨晩のうちに送ったメールに対して聡からの返信がやはりないことを確認すると、将は起き上がった。

大きくあくびをしながら、義母の純代が何か煮物でも作っているんだろうか、と将は匂いの元を探るべく階段を降りる。

すると、階段の音に気付いたのか、ダイニングから孝太が顔を出した。

「お兄ちゃん、おはよう」

孝太は食べ終わった朝食の皿をキッチンに運んでいるところだった。

土曜日の今日は、孝太もゆっくりめの朝食だったらしい。

キッチンに純代の姿はなく、孝太は一人でテレビを見ながら食事をしていたようだ。

「お義母さんは?」

将はパジャマのまま、ジュースを冷蔵庫から出した。

孝太は気を利かせて、ジュース用のコップを戸棚から出して来る。

「お見舞いだって。さっき出掛けたよ」

「ふーん」

代議士夫人である純代が、支援者などのお見舞いに行くのはよくあることなので将はさほど驚かない。

それにしちゃ、この残り香。

しかしキッチンにも冷蔵庫にも、ダシを使って煮るようなものは何も残っていないようだ。

テーブルの上にはほうれん草をいためた物が乗った皿が置いてある。

「お兄ちゃん目玉焼きつくれる?」

孝太は冷凍庫からパンを出してきた。

「うん」

「じゃ、朝ごはんは目玉焼きつくって食べてって。クリームスープはあっためてこの器に入れてってさ」

孝太が伝えるまでもなく、同じ内容がテーブルの上のメモに純代の字で将に宛てて残されていた。

ダシの香りとはまったく逆に、今朝は洋風らしい。

将は香りのもとを突き止めることができずに鍋のスープを火にかける。

「お兄ちゃん、昨日は何時まで頑張ったの?」

「5時くらいかな」

将はスープを温めながら答える。撮影疲れはあったが、仕事がない日こそ勉強をやらなくてはならない。

将は眠気と疲れを我慢しつつ遅れている英語を、聡のために、そして聡を思い出しながら明るくなるまでやった。

……と。将は、急いで聡の元に見舞いに行かなくてはならないことを思い出した。

思い出すと居ても立ってもいられなくなる。

「孝太、パンはいい。……兄ちゃんちょっと出かけないといけないから」

将は慌てて熱いクリームスープを飲もうとして舌を少し火傷してしまった。

 
 

タクシーを呼ぶのももどかしかったので、久しぶりにミニを運転して将は聡の入院する病院へやってきた。

スキーで骨折したとき、それと大悟との死闘での負傷のときに世話になった、看護士の山口がいる病院だ。

みな子は、聡が運び込まれた病院名を告げなかった。

だが、学校で倒れたのならここに運び込まれるだろうとめどを付けた将は、看護士の山口に電話して確認したのだ。

すると案の定、聡はここに入院しているとのことだった。

何もかも忘れていた将だが、電話の向こうの山口が、さも言いにくそうに

「鷹枝くん。先生は赤ちゃんが出来たのよ……」

と口にしたことから、聡のお腹の子が、他の男との子供になっていることにかろうじて気付いた。

将は寝不足の頭を回転させて、

「知ってますよ。ムカつくなあ……」

と明るく、単なる聡を慕う生徒を演じるのに苦労した。

「てっきり、あたし鷹枝くんって、アキラ先生のことを本当に好きなんだと思ってた」

――今でも本当に好きなんだよ。アキラのお腹の子は俺の子なんだよ。

本当は叫びたい将だが、そうするわけにもいかず、ゆるく照れ笑いを返す。

「まさか……」

子供の父親と堂々と名乗れない自分が少しみじめで、将は電話を握り締めた。

「でも、近くまで行くんで、ついでに見舞います」

親に命じられたとはいえ、ウソをつかなくてはいけない自分が、将はちっぽけで情けなかった。

 
 

病院の地下にある駐車場に将はミニを止めた。

ここから内科病棟までエレベーターで直接上がれることを事前に調べてある。

幸いつけてくる記者はいないらしく、将は暗い駐車場でホッとした。

ミニで見舞いに行くことを選んだのは、こうすれば人目に立つのが最低限で済むという計算もあったのだ。

今日の将はサングラスに、髪を全部入れ込んだニット帽で顔を、大きめのジャンパーとブカブカの腰パンで体のラインを隠すべく努力をしている。

なぜなら、順調な上り坂での将の突然の芸能活動休止に、世間は再び蜂の巣をつついたような騒ぎになったからである。

実は官房長官の息子だったという騒ぎが収まったところへ、なものだから世間の騒ぎ方はすごい。

ちょうど、今出ている週刊誌には将の芸能活動休止に関する憶測記事が花盛りだ。

それでも父と芸能プロダクションの努力の成果か、あまりにひどい記事は載っていないようだ。どれも概ね、

『政治家になる将来を見据えて一流大学への進学を目指すためと思われる』

と現実に近いことだけが記事になっていた。

聡のことはどこも嗅ぎつけていないらしいのが幸いだった。

 
 

エレベーターは奇跡的に途中で誰も乗ってくることなく、6Fの内科病棟に着いた。

待合スペースには、土曜日のせいか患者がやたら多い。

将はガムを噛みながら何気なくナースステーションへの直行を試みた。

リズミカルなガニ股は井口の歩き方をイメージしているが、その心の中は見つかって面倒なことにならないように、と必死で祈っている。

病院に似合わない、長身・サングラスにガムを噛むB系男の出現に患者のうちの数人は顔をしかめたが、幸い将だとは気付かなかったらしい。

なんとか待合スペースを抜けることができて気が緩んだ将は、次の瞬間、後ろから腕を強くつかまれた。

驚きのあまり、全身の毛が逆立ち……将は振り返った。

「こちらへ」

毛利は、小柄な体に似合わない力で将の腕を掴み、給湯スペースへと連れ込んだ。

驚きのあまり、一瞬なすすべをなくした将は毛利が引っ張るがままになるしかない。

「困りますね」

毛利は小声ながら、眼鏡の奥の鋭い瞳で将を威圧した。

銀縁眼鏡に流しの上の蛍光灯が無機質に反射している。

「せっかくこちらがあなた様をスキャンダルから守るべく四苦八苦しているのに……。こんなことをされたらすべてが水の泡です」

憮然とすることで自分を取り戻した将は、毛利を無視して給湯スペースを出ようとした。

そうはさせじと毛利は立ちはだかる。

「お帰りください」

「どけよ」

「そうはいきません」

将はこれ以上の押し問答は無駄だと、実力行使をすべく、毛利を軽く突き飛ばそうとした。

だが、毛利はそういうこともあろうかと足を踏ん張っていたのかそれほどよろけず、将を頑として給湯室から出そうとしない。

そこへ。

「何をしているんですか」

鋭い女の声に一瞬の隙を見せた毛利の脇をすり抜けて、将は給湯室から転がり出て……そこに立っていた女を見て、あっ、と声をあげた。

そこにいたのは……義母の純代だった。