第316話 クリスマスの夜、二人(4)

「行こうか」

ブランコで将の膝の上にいた聡が立ち上がった。

まだ雪と聖歌は続いている。今『衆人こぞりて』が始まったところだ。

「終わったら、みんな一斉に出てくるでしょう?」

出てきた人々が、将を見つけたら騒ぎになるかもしれないことを、聡は危惧していた。

そして、活発に動いていたお腹の胎児も少し静かになった今が、帰り時かもしれない、と判断したのだ。

まだ、歌がたけなわのうちに教会を後にしたほうが静かに帰れる、という聡の提案はもっともなので将はブランコから立ち上がった。

来るときにつけた穴のような足跡に足をあわせながら、二人は教会の前までやってきた。

教会の扉は閉められていて、人々が出てくる気配はない。

扉の隙間から、暖かい色の光と、透明な歌声が漏れてくるのみだ。

あいかわらず舞い落ちてくる雪は、少し離れただけで視界から教会をぼやけさせた。

「タクシー呼ぼうか」

携帯を取り出そうとする将に、聡は傘を差しかけながら首を横に振った。

「歩こう。10分くらいなんでしょ」

「寒くない?」

「いい」

聡は将の傍らに寄り添うと、その腕に軽く手をかけた。

聡らしくない大胆さに将は思わず傍らの聡の顔を見下ろす。

聡はちょうど将の顔を見上げていたので、目が合った。とたんに聡は柔らかく微笑んだ。

傘の下まで舞い込んできた雪がピンク色のほっぺたについて……はかなく溶けたとたん、聡は俯いた。

瞳の代わりに庇のように長い睫だけが聡を代弁するかのようだ。

「将と……歩きたいんだ」

聡はそう呟くと、もう一度目をあげた。いたずらっぽい瞳だ。

考えてみれば……二人で寄り添って歩くチャンスは少なかった。

もともと教師と生徒という境界が二人の間に横たわっている。

それに将が芸能界に入ってから二人で寄り添って歩く機会はほとんどなくなってしまった。

将は帰路へと踏み出しながら記憶をたぐる。

二人が結ばれたあの清流荘への夜道を除けば、大悟に痛めつけられて面相が変わったときに手をつないで歩いた、病院から商店街までの短い区間が最後だ。

あのときの入道雲……そして、汗に湿った温かい手のひら。あの直後のことと共に将ははっきりと覚えている。

『俺を裏切るんだな、将』

ふいに大悟の声が大音量で蘇り、将は顔をあげた。

顔をあげた将の頬に寒風が鋭く刺さって将は目を細めた。

次の瞬間……舞い乱れる雪の中に、やせ細った大悟の姿を見つけた将は、眦をカッと見開いた。

「どうしたの?」

聡の声に、大悟の幻はあっけなく消えた。見えるのは暗い水銀灯に照らされた白い乱舞のみだ。

「何でもない」

救われた証拠に将は笑顔をつくる。

それは聡が久しぶりに見る、翳がある笑顔だった。

聡は、将の腕にしがみつくように自分の腕をからみつけた。こうすると歩くたびに聡の半身が将にふれる。

自分はここにいる……言葉を使わずに、確実に伝えるために。

 

「雪の日って好き」

とうとつに聡は言った。『好き』というには、過ぎるほどに舞う雪だ。

ここを歩き慣れた将でも進む方向がかろうじてわかる程度の……大雪。

本当なら、ちょうど食べごろのみかん畑の中を歩いているはずなのに、しばらく目をこらさないと影すらも見えない。

ぼんやりしていたら、道を見失ってしまうだろう。

車で踏み固められている雪道は、二人が歩くごとにギュッギュッという音をたてている。

将が差しているビニール傘にはすぐに雪が積もり重くなる。

とてもじゃないけど『好き』なんて言える状況ではない。

「なんで?」

将の問いに、聡は将の腕にしがみついたまま、顔をあげた。

その濡れたような瞳が、将を映して微笑んだ。

「ニセコを思い出すし……それに、こんな雪の日じゃないと、こんな風に将と相合傘で歩けないでしょ」

聡は、その低めの声でゆっくりと答えると、将の腕にしがみついた腕にいっそう力を込めた。

こんな風に野外で、聡から積極的にふるまうのは初めてかもしれなかった。

寒さゆえに誰もいない道。視界をぼかして舞う雪。

二人が……世間の目から逃れて、こんな風に寄り添い歩けるのは今しかないのだ。

「ずうっと……こんな風に将と歩きたいな」

将は、大悟の幻でこわばった心が、急激に……まるでバターのようにとろけていくのを感じた。

いよいよ冷え込んでいくような夜道だけれど、将の胸の中は温かかった。

将にも、この雪の夜道が、かけがえのないものに思えた。

聡がそばにいれば、どんなに寒い場所でも、陽だまりに変わるのだ……。

 

「あきら」

将は、吐息と共に、その名前を柔らかく発音する。

「……なあに」

「子供の名前だけどさ」

二人が今、歩いている雪道は、温かい陽射しに満ちた未来へと続いている。

そんな願いを込めて将は子供の名前を口にした。

「太陽の『陽』の字で……女の子だったら”ひなた”ってどう?」

「ひなたちゃん?」

聡は白い息と共に何度かひなた、ひなたちゃん、ひなたさん、と繰り返した。

「いいんじゃない。可愛くて。でも男の子だったらどうするの?」

まだ性別がわかっているわけではない。

聡は、将に似ていれば、女の子でも男の子でもどちらでもかまわないと思っていたが、将はどうやら聡に似た女の子を希望しているらしかった。

「男だったら、同じ字で”ヨウ”でいいよ。陽太とか陽治とかでもいいし」

“ひなた”を口にしたときよりは、どうでもいいといった口調に聡はクスッと笑う。

女の子の名前が出たのは、そんな希望が、つい口をついて出てしまったに違いなかった。

「将は、太陽の『陽』の字が好きなの?」

「うん。……アキラは俺の太陽だから。そんなアキラが産んでくれる子供だから」

聡は再び将を見上げると目を見開いた。

将は聡の視線に気付くと、照れくさそうに舌を出した。

「クサかった?……クサいよなー。あー、俺バカ」

ひとしきり呟くと、さもバツが悪そうにそっぽを向いてしまった。

「でもさ……アキラがいてくれたから、アキラと出会えたから、俺はここまで立ち直れたんだ」

それでも将は、聡に横顔を向けたまま続けた。

聡が将を温かく照らしてくれたから……将は再び、自分自身の未来を信じることができるようになったのだ。

聡がいなかったら……それを考えるのも恐ろしいほど冷たい孤独の中で、将は堕ちるところまで落ちていっただろう……。

白い煙になった将の告白は、水銀灯に照らされながら降りしきる雪の中へと溶けていった。

その横顔の、マフラーに見え隠れする喉仏から顎のラインを聡は見上げていた。

そして、ふいに突き上げてくるように熱い涙がたまってくるのをこらえた。お腹の子供が、聡の気持ちに呼応するように、再び動いている。

「俺、絶対に、東大に合格する」

将は横顔のまま、とうとつに決意を口にした。

「アキラと俺と……生まれてくる陽(ひなた)とで温かい家庭をつくろう」

将の視線が聡の顔に戻ってきたとき、聡の頬には涙が伝っていた。