第320話 借り(1)

岸田助教授宅からの帰宅がてら、将は待ちかねたように聡へ路上から電話をかけた。

「ん……将?」

聡の声はどうやらうたたねしていたようで少しかすれている。

妊娠するとやたら眠い、と聡が前にいっていたのを思い出した。

「ごめん。寝てた?」

「ううん、いいよ。何?」

聡はホットカーペットの上に寝そべったまま携帯を耳にあてなおした。

「あのさ」

将は携帯で話をしながら、今そこに近づいたタクシーに手をあげて呼ぶと、乗り込む。

別に電車で帰ってもよかったのだが、人目に付かずに済むのと、こうして聡と話すために将はとっさにタクシーを選んだのだ。

「終わったの?個人教授?」

携帯をずらして、運転手に行き先を告げたのが聡にも聞こえたようだ。

「うん。あのね、アキラ。俺、いいこと思いついたんだ」

「なあに?」

「あのさ。英語の特訓なんだけど……」

将は、さっき思いついたことを聡に提案する。

それは、インターネットのメールと携帯電話を使って、英語の特訓を行うということだった。

「……これだったら、誰にも知られずに、思いっきりアキラに教えてもらえるだろ」

冬休み中の学校の図書館開放ももちろん利用するが、他の生徒や教師の目がある以上、聡が将ばかりにかまうわけにはいかない

だろうことは明白だ。

聡はなるほど、と思いつつ、いちおう眠い頭の中で、不都合な点がないかどうか確認してみる。

「電話は俺から掛けるから」

つまり電話代のことは心配ないと、将は先回りする。

毛利から月50万ずつ振り込まれている聡だから、その点は心配ないのだが。

「ねえ、アキラ。名案だろ」

「そうね……」

慎重に考えたがどうやらデメリットはなさそうだ。

「じゃあ、時間を決めてダラダラしないようにしましょう。将、勉強は英語だけじゃないでしょ。センターの科目だって多いんだし」

「わかってるよ」

自分の恋人ではなく教師になっている聡に将はわざと反抗したくなる。

「……だけど、お腹のひなたの様子を訊くくらいいいだろ。あれから動いた?」

「動いてる。今も将の声を聞いたとたんに動き出した」

恋人に戻った聡の声に、将は心が温かいもので満たされた。

気がつくと、タクシーの窓からオレンジ色の光が自分を射抜いている。

将は自分の目線の高さになった夕陽に視線を移した。

かつて孤独を感じながら、独りで眺めていた太陽は今、限りなく温かいものの象徴として将を染めている。

その確かな温かさは、臓腑の底へと降りて根をおろし……聡とその子供の将来のために頑張ろうという意欲につながっていった。

 
 

西嶋隆弘が3階にある自宅の鍵をあけるのを待つ一瞬の間、大悟は夕陽を見つめた。

将がタクシーから見つめていたのと同じ夕陽だった。

「さあ、入って。大悟くん。お部屋は用意してあるのよ」

節子が後ろから大悟の背中を押すようにした。

西嶋光学工業の自社ビルの3階にある、西嶋家に入った大悟は……ダイニングに飾られたクリスマスツリーに目が行った。

節子は、大悟を追い越すとかがんで、そのツリーのライトの電源を入れた。

ツリーはカラフルな光で輝き、やがて点滅を始めた。

大悟はしばらくそれを見つめていた。

「きれいでしょ。せめてクリスマスらしくしたいと思ってね。ケーキも買ってあるのよ」

節子が寒さで赤くなった丸顔をほころばせる。

「お前、毎年飽きないな……まあ今年は特別だけど」

隆弘が茶化す中、大悟は返事もせずにクリスマスツリーを眺めていた。

こうして、『自宅』にあるクリスマスツリーを見るのは何年ぶりだろうか……。

それを思い出すには、もう記憶の彼方に消えようとしている、母が失踪する前まで遡らなくてはならなかった。

「これ。使って。いちおうクリスマスプレゼント代わりよ」

節子はリボンがついた、紙袋を大悟に渡した。

中にはパジャマが入っているらしく、大悟はぺこりと頭を下げた。

その頭は、ちょうど東京に出てきた1年前のように短髪だ。

骸骨のようにやせ細っていた体もちょうど1年前と同じくらいまで回復している。

しかし、その瞳はどこか虚ろだった。

「でも、元通りになってよかったわ」

夕食の席で、ジンジャーエールで乾杯しながら節子は感慨深くもらした。

薬物を使っていた期間が2ヶ月ほどだったのと、まだ若いのとで、大悟はほぼ元通りに回復することができたのだ、と医師は言った。

もちろん、今後の人生においてフラッシュバックが起きる危険性をまったく否定しているわけではない。

だが現段階で、大悟がほぼ健康を回復することができたのは、慶ぶべきことだ。

「心配をかけてすいません」

謝りの言葉を述べながらも大悟は……心に得体のしれない不安のようなものを沈殿させていた。

「気にするな。私たちは君の保護者なんだから」

隆弘の笑顔に曇りはない。

この夫妻は、覚醒剤中毒で矯正病院に入院した大悟だというのに、保護者を解消するどころか甲斐甲斐しく世話さえやいてくれたのだ。

大悟はそれには恩義を感じている。

だが、夫妻の温かさに触れれば触れるほど、違和感を感じてしまうのも事実だった。

夫妻が本当に自分を思ってくれているのは、わかりすぎている。

家族の温かさ、というものに今までの人生でほとんど触れていない大悟である。

家族だとか両親というものを頭で理解していても、心は警戒してしまうクセがついてしまっているのだ。

それに……自分が人なみの『両親』を手に入れて幸せになればなるほど……それを知らずに死んだ瑞樹が憐れだった。

そもそも元をたどれば、瑞樹が死んだことは、大悟がこの温かい夫妻にめぐりあうきっかけになっていたのではないだろうか。

瑞樹が生きて、ここにいたら。大悟は想像してみる。

答えは簡単だった。ここにいる夫妻は、きっと彼女にも優しく接しただろう。

――瑞樹。お前バカだ……。

「大悟くん?」

節子に呼ばれて、大悟はハッとした。

どうやら箸が止まっていたらしい。

「お代わりは?」

「もういいです」

クリスマスらしく、テーブルの上にはチキンやローストビーフ、シチューといった洋風の物が並んでいるにも関わらず、ご飯と漬物。

そんな庶民的な温かい食卓も瑞樹はとうとう味わうこともなかったのだ……。

「大悟くん、これからどうする」

ふいに隆弘が訊いた。

「あなた、まだ早いわよ。大悟くんは、まだ病み上がりなんだから」

たしなめる節子を無視して隆弘は続けた。

「高校へ行くか、それとも大検を受けて大学に行くか。好きなようにしなさい。……養子縁組も私たちは心から望んでいる」

大悟は、隆弘の言葉に、めまいがしそうになるのをかろうじて持ちこたえるべく、ぐいと目を見開いた。

「よかったら、私たちの籍に入って一から出直しなさい」

隆弘が、見開いた大悟の目を見つめたので、大悟はうつむくしかない。

「……あなた、まだ早いわよ」

節子は静かにもう一度夫をたしなめると、うつむいた大悟の肩に手をおいた。

「大悟くん、ゆっくり考えていいのよ。まずは何にも考えないで、休んで。ね?」

沈黙の中、ツリーだけが忙しく点滅を繰り返す。

点滅のパターンを5回ほど繰り返したとき、大悟は口を開いた。

「俺……働きます」

夫妻は、大悟の顔を心配そうにのぞきこんだ。

その視線に引き出されるように大悟はゆっくりと顔をあげた。

「タダで、置いていただくわけにはいきません。働いて……せめて家にお金を入れさせてください」

「大悟」

隆弘は大悟を遮るように呼んだ。

いったん、手元のグラスに残ったビールを飲み干すと、黒目だけで大悟を見据えた。

「君は、いくつだ。……18だったな」

質問を切り出して、すぐに自ら解答を出す。

大悟の事を呼び捨てにしたが、口調はあくまでも穏やかだった。

「18やそこらで、他人に力も借りずに出来ることなんてタカが知れている。せっかく手を差し伸べるヤツがいるんだったら……今は力を貯えろ」

借りはつくりたくない。大悟はその言葉を苦く飲み込んだ。

「君は、私たちのところに来ることを、借りだと思っているのだろう……。だからこそ、今、作った借りを、今返そうとするんじゃない」

隆弘の……まるで大悟の心を読んだような言葉に大悟は思わず、対峙する隆弘の真意を探ろうと目を見開いた。

だが隆弘の目はまっすぐに大悟に注がれるばかりだった。

「借りは……いつか大きく成長したあとで、大きく返すんだ」