第331話 初詣(4)

「勉強、進んでる?」

話を切り出したのは将のほうだった。足が長い将には高いスツールも単なる椅子のようだ。

それに軽々と腰を乗せながら、傍らのみな子に微笑みかける。

窓に向かうカウンター席。二人のスツールの距離は思いのほか近い。みな子の肩と将の肩の距離はわずか10センチほどだ。

将の体温で体の左半分が熱い錯覚さえ覚えながら、みな子はうなづいた。

本当は……あのクリスマスイブ以来、勉強はまるで進んでいない。

いままでM大を目指してたんだから、関西圏ならR大やK大がある、と両親はみな子を元気付けようとしていたが、みな子はまるっきりやる気を失っていたのだ。

「図書館にぜんぜん来てなかっただろ。みな子。どうしたんだろって思ってた」

――『どうしたんだろって思ってた』だって。

気にかけてくれていたという将の言葉に、みな子は大きく息をついた。

もちろん熱すぎるカフェオレを冷ますような振りをして。

好きなひとが、自分のことを考えてくれていた。こんな嬉しさは、生まれて以来はじめて味わうものだった。

それで、みな子はかなり救われた。

「予備校に通ってたから……」

これも嘘である。たしかに予備校に通える手続きはしていた。

だが、実際は講義をサボってネットカフェなどで徒に時を過ごしていたのだ……。

「でさ。話って何?」

一刻も早く本題に入りたそうな将に、一瞬浮かび上がったみな子の気持ちは再び沈む。

二人でいる時間がいとおしいのは、みな子の側だけなのだ……。

そんなに軽い存在の自分。

自分が関西に行くときいても、最悪「ふーん。残念だね」だけで終わってしまうかもしれない。

そんなことを考えながら、

「鷹枝くん、東大以外でどっか願書出した?」

と質問をしてみる。

「ああ」

一方将は、みな子がもし、告白してきたらどうすればいいのだろう、と恐れていた。

もちろん応じるわけにはいかない。自分には聡がいる。

でも、みな子はいい子だ。

できれば、今の関係を壊したくない……。

付き合えないけど、失いたくない。これはエゴなんだろうか、と将は考える。

みな子はいったい自分の何なのだと考えたとき、一番近い答えは『友達』である。

だが、その単なる友達が、自分以外の誰かを好きになることを考えると……それはあきらかに不快なのだった。

異性として告白されるのを恐れながら、自分を諦めて他の男を好きになるのは不愉快……。

「いちおう、親がうるさいからK大にも出しておいた。センターで受験できるやつ。でも行く気ないけど」

自分の我侭さに感じるかすかな吐き気。それを自覚しながら将は、何食わぬ顔をしてみな子の質問に答え、さらに質問を返す。

「みな子はM大だろ」

「うん……それがさ」

急に、本題のうちの1つの足がかりを与えられてみな子は下を向いた。

もう、話すしかない。みな子はカップを置いてカウンターに肘をついた。

「うちさ……。オヤが転勤になっちゃって。あたし、関西の大学を受験することになりそうなの」

伝え終わったみな子は勇気を出して、傍らの将の顔を見上げた。

将はカップから唇を離して、こっちを振り返った。

こんなに近い距離で見詰め合うのは初めて――。

みな子は、驚きのあまり眼鏡の奥で大きく見開いた将の瞳を見つめた。

1年生のときと同じ、明るい茶色の瞳がみな子を見つめる。

「うそ……」

「ホント」

思ったより将はずっと驚いてくれた……それだけでみな子は満足した気がした。

「こっちには残れないの?」

みな子は首を静かに横に振った。

「うちにはそんな経済力ないもん……。だから、卒業したらもう、鷹枝くんとも無関係」

わざと自虐的な言葉を選んでみる。

「無関係、なんてことないだろ」

自分がいなくなる事実が、将の声を、そんな風にせつなくさせる。

将は、みな子を、みな子として認識してくれていたのだ。

だが、救われた反面、みな子は自分の位置を……聡との相対位置を確かめたくなる。

聡が絶対であることはわかっているけれど。

「関西の、どこ」

「たぶん大阪」

「おおさか、かー」

今度は将が肘をつく。みな子とは反対側の肘をついたおかげで将の身体は大きく傾く。

「ショック?」

おどけて見せるみな子に、将は素直に

「うん」

とやや細めた目をみな子に向けた。いわゆる流し目。

みな子はどきん、とした。おかげで用意していた

『あたしは、鷹枝くんの、いったい何?』

という言葉が吹き飛んでしまった。

 
 

カフェを出ると、街はもう紫色に沈んでいた。

ビルの上のほうだけがいやに赤く照り輝き、地上近くでは信号の緑や車のテイルランプの点滅が煌き出した。

昼間こそ温かだったが、陽が翳って急に冷えこんだようだ。

信号待ち。吹き付けた風に、みな子は思わず首をすくめる。

冷えたストールの毛がひやっと頬を撫でてみな子は瞼を一瞬きゅっとつむった。

「だけど、残念だな」

その声に、みな子は思わず瞼に込めた力をゆるめて、将を見上げた。

夕映えとは反対側の……わすれな草色を深めていく空に浮かぶ将の横顔の唇から白い息が漏れていくのが見えた。

「そう思ってくれるんだ……」

ため息のようなみな子のつぶやきに、将は小さく「うん」とうなづいたまま俯くと、そのまま、茜色を深めていく夕映えの空を振り返った。

まもなく藍一色になるであろう空は、美しく焦がれていた。

きゅうっと……みな子の胸は締め付けられる。

締め付けられたせつなさが喉を逆流し、つんと鼻の奥を刺激しつつ、脳に達した。

せつなさに支配されたみな子は、将の首にぐるぐると巻かれた手編みのマフラーがふいに羨ましいと思った。

将を温める……将が必要なものになりたい。

将が振り返る……あのたそがれの空になれれば。

『友達』という中途半端な存在。それが何なのだろう。

好き。

どうしようもない想い。

信号がふいに変わり、けたたましいメロディが夕風に混じる。

「あたし……鷹枝くんの何」

「え」

横断歩道に三歩ほど踏み出していた将は止まった。

みな子はそのままの位置に立ち尽くしていた。

「あたし、鷹枝くんの、何なのかな」

震える声。だけど、みな子は泣いてはいなかった。

ただ、その黒目勝ちの瞳は、まっすぐに将を射抜くように見詰めていた。

「みな子」

将は、それだけでみな子が何を言いたいのかわかった。

だけど……どうしようもない。みな子はいい子だ。たぶん、いい女でさえあると思う。

せつないけれど……大事な友達としかいいようがない。

みな子を選ぶことはできない。

いつか、この甘酸っぱいようなせつなさは消えて、平らな友情だけが残る日が来るのだろうか。

そう、お互いに好意を確認しあった男と女の間に、友情はありえるのだろうか。

「ごめん」

将はそれを言うだけでせいいっぱいだった。

「どうして」

みな子は声を張り上げた。すでに限界だったのだろう、涙が一粒頬を伝う。

「どうして、先生なの」

みな子はそこで初めて、こみあげる熱いものと一緒に聡の名前を吐いた。

喉はマフラーで隠れているのに……将が固唾を飲むのがありありとわかった。

みな子はほんの少しだけ溜飲を下げている自分に驚いていた。

生まれて初めて好きになった男が、自分の言葉に感情を動かすさまをまのあたりにして……涙を流しながらも、失恋の場面なのに、一種の喜びを感じずにはいられない。

「先生は関係ない」

将はといえば、みぞおちに一撃をくらう直前のように、腹に力を込めた。

――そうだった。

将が信頼していたみな子だから……聡への想いも知っていたのだった。

その後、諦めたふりをしておいたはずだが、信じていないのは仕方ない。

だが……最後の秘密だけは、ぜったいに知られてはならない。

将はぎゅっと奥歯を噛んだ。

「うそ!」

みな子は叫んだ。

その声に通り過ぎる通行人の何人かが振り返る。

将は、これ以上大声を出させないために、みな子の傍に駆け戻った。

みな子は、しきりに流れる涙を手の甲でぬぐいながら、将を見据えた。

まるで睨みつけられているように見えるほど強い目の光だった。

「あたし、知ってるんだから……」

みな子は自らの昂ぶりを実感しながら、その心の奥では将を観察している冷静な自分がいるのをすでに知っている。

将のとまどう瞳。おびえながらも、みな子の次の言葉を待つその顔をまのあたりにして、喜悦はますます増幅した。

「先生は、本当は、結婚してないし……」

あてずっぽうをさも知っているように舌にのせる。

否……みな子の中では、すでに、クリスマスの夜から事実になっていることだ。

「先生のおなかの子供は、鷹枝くんの」

みな子の言葉はそこで不自然に止まる。

手にしていたビーズのバッグがアスファルトに落ちた。

言葉の続きを発しようとしたみな子の唇は、将の唇でふさがれていた。

横断歩道のメロディが止まり……車が動き出したが、二人は静寂に包まれていた。

 

横断歩道の向こう側で……聡も立ち尽くしていた。

たそがれゆく冬の街だけが、三人を包んでいた。