第352話 遠い春(2)

聡が見えなくなるまでその後ろ姿を見送っていた将を、みな子もまた見つめていた。

3年生たちは皆帰ってしまったらしく、2階は急に静かになってしまった。

窓からオレンジ色に浮きあがって見えるような狭い校庭からは部活動なのか下級生の声。

しかし、それとは対照的に、校舎の中は見る間に灰色から墨色に沈んでいくようだ。

みな子は、気を取り直すように、

「行こっか」

と将に明るく声をかけた。

うなづいた将だったが、心ここにあらずという感じだった。

そんな将を振り向かせるべく……一緒に帰るときくらい、こっちを見てほしいみな子は少し冒険してみる。

「将、は」

桃色がかった橙色の夕陽が窓枠の形に浮き出た階段に差し掛かったとき、みな子は初めて将を名前で呼んでみた。

しかし、将はそんなみな子の冒険にはまるで気付かないようだ。先をどんどん歩いていく。

みな子は大いに不満を感じながらも、夕陽を受けてキラキラと輝く将のあとを追いかけて話を続ける。

茜色のスポットライトを踏みながら、将に振り向いてほしい、と祈るように。

「今週の土日、どうするの?」

階段を2段ほど降りたとき、みな子の瞳に夕陽が飛び込んできた。

それは蛍光色より鮮やかなピンク色で、みな子は思わず目を細めた。

「どうするって……。ずっと勉強だよ」

将はみな子の顔のほうに視線を一切向けないまでも、まったく上の空ではないらしく、返事は即座に返ってきた。

「ずっと家で?」

振り向いてほしい。できれば気がついてほしい。みな子はその一心で将の後姿に食い下がる。

「日曜日は岸田先生の家に行くけど」

「その前とか、後とかにちょっとだけ会えない?」

将はやっと振り返った。

しかしその表情から、みな子は返事を悟った。

憮然としそうになるのをなんとか隠した中に、みな子を憐れむような色を見つけてしまったから。

「やっぱ、だめか。そうだよね」

みな子は、自分で答えを出すと、将を追い抜いて階段を一気に駆け下りる。

下で将を待ちながらせいいっぱいの笑顔をつくる。

「来週からさ……あたし、関西で受験なんだ。しばらく会えないから……」

目をあげて自分を見る将に……みな子は小さな満足を得る。しかし、それは予想通りすぐに崩れる。

「ごめん」

将はやるせない表情のまま俯いた。

この程度はみな子の予想の範囲だった。

しかし、何度も予想して、傷つくシュミレーションをやっていても……実際に拒否されて受けた心の傷は、予想よりかなり鋭く深かった。

その痛みに負けず、みな子は前を通り過ぎていった将を追う。

 
 

「あ」

靴箱を開けたとたんにチョコが雪崩のように落ちてきた。

落ちたチョコを拾いもしないでただ見ている将に、みな子がくすりと笑いながら寄ってきた。

「すごい。マンガみたいだね。靴箱にチョコレート」

そういいつつ、みな子は屈んでチョコを拾ってくれた。

「1、2、3、4……5つ。すごいね。さっきのと足して9つも」

ハイ、とおどけて差しだすその笑顔に、将はどんな顔を返していいものかわからない。

だから、せめてチョコレートを収納すべく、聡からもらった紙袋をみな子に向けて開ける。

みな子はチョコを1つずつ丁寧に紙袋の中に重ねるように入れていく。

ピンクや銀色、紺色と色とりどりのチョコのラッピングに視線を向けているように見せつつ……将の心の中をどのチョコよりも鮮やかに占めていたのは……聡だった。

聡に、みな子と親しくしているところを、またしても見られてしまった。

それどころか、チョコレートを抱えている自分は嬉しそうに見えてしまったかもしれない。

将が舌打ちしたいような気持ちを抱えているとも知らず、みな子は

「ちょっと待って」

と将をそのままの体勢で待たせて、自分のバッグの中から新しいチョコを取り出した。

「はい。これは、あたしから」

みな子は笑顔をつくると、ベージュに紺のリボンがついた包みを紙袋の中に入れた。

「時間があったら、日曜日に渡したかったんだけど」

みな子が一生懸命笑顔を作っているのは、将にもわかった。

『私から逃げないで』

元旦に電話でそういったみな子の顔は、こんな顔だったんだろうか……。

そんな哀しげな笑顔に、心が動いてしまいそうになるのを、将はかろうじて堪える。

今は……今こそ、言わなくてはならない。聡のために……残酷にならなくてはならない。

飛び込み台に立つような勇気を、自分の中からかき集める。

それでも将は、自らが傷つけるみな子の心、そしてその痛みを想像して……足がすくみそうになる。

息を吸い込むと将は、チョコを入れ終わったみな子に、その紙袋ごと押し付けるように差し出した。

「ごめん。受け取れない」

「……どうして?」

みな子は黒目がちの瞳を大きく見開いて、将を見上げた。

「俺達……」

将は10個のチョコが入った紙袋から手を離した。それを床に落とさないためにみな子は受け取らざるを得ない。

「単なるクラスメートに戻ったほうがいいと思う」

押し付けられたみな子は唖然としている……そのようすも見るにしのびない。

だけど、将は心の痛みに耐えて、みな子を一生懸命直視した。

みな子は、将をまっすぐに見上げたまま涼やかな瞳を2~3回しばたいた。

「……もともと……、単なるクラスメートじゃない」

かろうじて抗議する声と同様、唇や睫も震えている。

「いや、カモフラージュももう……」

「先生のカモフラージュのためにも!」

奇しくも、カモフラージュという言葉が重なり、二人の視線は言葉と同様鋭くぶつかった。

次の瞬間、二人それぞれに唾を飲み込む。

……1拍置いて、将は続けるしかない。

「もう、カモフラージュは……いいんだ。こういう状態、よくないと思うんだ」

絞りだすように言葉をつないでいく。

その言葉が染みこんでいくように……みな子の瞳は目に見えて哀しみに歪んでいく。

愛しているのは聡だけ。聡を悲しませなくない。そのために必要なことなのに。

好意を拒むのは……人を傷つけるのは、こんなにつらいことなのだ。

将は、がっくりと頭を下げた。

「ごめん」

みな子は、いつのまにかチョコの袋を抱きかかえるようにしていた。

何かにしがみついていないと、耐えられない。

……みな子は受けた衝撃と悲しみを紙袋の中のチョコに吸収させてようやく泣きもせず立っていた。

「先生のため、だよね」

将は目をあげるとみな子を見つめた。

その目は……まるで将のほうが振られたような……みな子に助けを求めるようだ。

「先生が……悲しむからだよね。先生は……あたしに」

嫉妬してるんだ。みな子は辛くもその言葉を飲み込んだ。

聡がみな子に嫉妬しているとしたら。

それは一見、同じ土俵に立ったような錯覚をみな子にもたらした。

だが、そんな錯覚は何もならないとみな子はすぐに気付く。

将の気持ちは聡一人に決まってしまっているのだから。

再確認した絶望の位置同様、みな子の視線は床に沈んでしまった。

泣きも喚きもしないみな子に、救われてもいいはずなのに、将は却ってひどい罪悪感を覚えた。

「ごめん……ていうのも変だけど。今までありがとう」

将は罪悪感を覆い隠すために、せめて感謝の言葉を重ねる。

これまで聡とのことが露見せずに済んだのは……クラスメートでさえごまかすことができたのは、みな子の功績であることは確かだったから。

しかし、みな子は下を向いたまま静かに首を横に振るだけだ。

将の中の罪悪感は一向に隠れることはなく……将は恩人であるみな子をここに残したままにするわけにもいかずに立ち尽くしていた。

「ね」

長い沈黙の果てに、みな子がようやく顔をあげた。

1秒を1時間にも感じるような重苦しい沈黙。

呼吸困難になりそうな空気の重さは……本当は一瞬だったのかもしれなかった。

「最後に、教えて」

それは思いのほか明るい声だった。……明るい声を出そうと、みな子がせいいっぱい努力していることが将にも伝わった。

瞳がひたむきに熱を持って輝いているのは、暗い靴箱の中でもわかった。

「あたしのこと……好きだったときもあった?」