第359話 卒業(1)

聡は重いお腹を忘れて立ち上がるとひったくるように携帯を取った。

こちらから呼ぶ前に、

「アキラ」

と待ち焦がれた声。

「将……」

胸がいっぱいで次の言葉が出てこない聡の耳に

「終わったよ」

と将の声がやっと届いた。

試験の出来がどうだったのか……直接訊くことを逡巡した聡は……携帯を耳に押し付けるようにして将の声音を聞き取ろうとする。

その声音は、重荷を下ろしたように、安らいでいるようだった。

それだけでは聡の欲しい答えには物足りない。

……だけどもし、あまり出来がよくなかったら、言い出しにくいだろう……気遣いと焦りが聡の中を一周したとき、将は自分から宣言した。

「やれることは、やった」

それは、真に落ち着いた口調だった。

また、その低い声は、いっそう大人びた気がした。

センターのときのように、ツキのようなものは、今回はなかったらしいけれど。

だが自分の持てる力はすべて出し尽くしたというような、さばさばしたものが将の声音からは読み取れた。

「もし……ダメでも、後期があるから」

ダメという言葉を発しながらも、将の笑顔が見えるようで、聡は不安ながらもややホッとした。

「うん……。将、とりあえず、お疲れ様」

聡は心から将をねぎらいたかった。電話でしかそれを示せないのがもどかしい。

「アキラに逢いたいな」

それは聡も同じだ。だが、そんな大胆なことを声にして大丈夫なのだろうか。聡はふと心配になる。

「……今、どこにいるの」

「車の中。運転は西嶋さんだから大丈夫」

それで聡は納得した。

巌の運転手だった西嶋さんは、将と聡のことを知っている数少ない側近のうちの一人だ。

巌に忠誠を誓っていただけあり、口の固さでは信頼できるのだ。

「そう……。将たしか、今日から北海道ロケに入るんだったよね」

前期試験終了と同時に、最終回までの収録が始まるのだ。

それは後期試験の直前にようやくクランクアップする予定だ。

「うん。アキラに会えるのは卒業式までおあずけ」

冗談めかしながらも、若干寂しそうな将の声に聡の胸はきゅんと音をたてそうになる。

「卒業式は……出席するんだよね」

「うん。絶対に」

力強く頷いた後、将はさらに続ける。

「……もし、クリスマスのときみたいに、飛行機が飛ばなかったら。……アキラ。卒業証書はアキラが預かって」

クリスマス。あの大雪のクリスマスの夜。二人だけの雪道が聡の脳裏にいっぱいに広がる。

あれから、たった2ヶ月しか経っていないなんて……嘘のようだ。

聡は携帯を耳に押し当てたまま、部屋の中を移動すると、飾りだなの引き出しを開けた。

大事な宝物だけがしまってある引き出しには……将がくれたエンゲージリングと、それが入っていた赤ちゃんの靴下がしまってある。

聡はリングケースから指輪を取り出すと手の上に乗せた。

ピンクゴールドにダイヤをあしらった指輪は、窓から差し込んでくる午後の光を映して、夕陽のような色に一瞬煌いた。

あのとき。とてつもなく寒かったけれど……二人には温かい思い出。

「それで、アキラから俺に手渡してよ。……それで、俺達、ようやく先生と生徒じゃなくなるんだ」

飛行機がきちんと飛んでも、卒業証書は校長からすべての生徒に手渡されるわけではない。

壇上にあがるのは代表一名のみで……あとは担任教師から渡されることになる。

聡は……あと1週間で、自ら将に手渡す卒業証書のことを思った。

二人の前に横たわっていた呪縛の一つが、そのとき解ける。

二人が教師と生徒でなくなり、ただの男と女になる。

手の中のエンゲージリングを填める権利が……ようやく聡に許されるのだ。

待ち焦がれたときが、やっと、訪れる。

しかし聡は、リングを傍らに置くと、そっと目を閉じた。そして右手をお腹へとずらす。

……もしも、お腹に「ひなた」がいなければ。

卒業さえすれば、二人は自由になれたのだろうか……。

心を通り過ぎたそんな考えに、聡は思わず立ち止まりそうになる……しかし、すぐにそんな仮定を仕方がないと目を開けた。

これは……こうなるのは運命だったのだ。

この先……どうなるか。一寸先もわからない状態だけれど……、将を信じて、明るい未来の到来を信じるしかないのだ。

「アキラ。1ヶ月先には……きっと二人、いっしょになってるよ」

将も、同じ気持ちなのだ。

高い波涛の向こうにきらめいているはずの未来を信じて、今をせいいっぱい頑張るしかないのだ……。

聡は、もう一度、リングを手に取るとそれを握り締める。

そして、こみあげてきた熱いものを飲み下すように、頷いた。

 
 

「わー、センセイかわいー」

制服の胸に生花を付けたチャミが、校門の前でタクシーを降りた聡をめざとく見つけて歓声をあげた。

「女学生さんみたーい」

チャミやカリナと一緒に、女子生徒が歓声をあげながら駆け寄ってくる。

皆、卒業生と在校生を区別すべく、胸に生花を付けている。

3月5日、金曜日。荒江高校の卒業式が執り行われる今朝は、うららかに晴れ渡っていた。

担任教師として最初で……もしかしたら最後になるかもしれない卒業式。

その礼装として聡は、実家から送ってもらった着物に、お腹を少しでも目立たなくするべく袴を身につけることにしたのだ。

髪には袴と同色の幅の広いリボンをあしらったその姿は、カリナが言うとおり大正時代の女学生のようにも見える。

校門のところに立っている職員仲間の屈強教師らも(いつものジャージ姿ではなく、今日はさすがにスーツ姿だ)聡の姿を見ると、顔をゆるめる。

「まるで『はいからさんが通る』ですね」とか

「なんだかアキラ先生が卒業するみたいですねえ」

などと冷やかされる。

聡もこの3月31日付けで退職することになっている。

……実際は、3年2組を送り出した後、数日の残務処理ののち、有給休暇を消化することになっているから、今日は実質、聡の卒業式でもあるのだ。

屈強教師らが今日、見張っているのは生徒たちではない。

さっきから校門のまわりに、カメラを持った記者連中が待ち伏せしている……官房長官の息子にして人気若手俳優の将の卒業シーンを狙っているのだ。

その辺は校長も、学校の宣伝に結び付けたいらしく、式を邪魔しないという条件でテレビカメラと雑誌記者の取材を許可しているらしい。

待ち伏せしているカメラマンや記者は、学校が用意した『許可』と書かれた腕章を付けている。

その取材が……行き過ぎないように、教師らはいちおう校門に立っているのだ。

チャミやカリナは、まだ式も始まってないのに、

「センセー、写真一緒にとろー!」

と携帯を向け始めた。

ひとたび撮りはじめると、『あたしの携帯でも取ってぇ』と携帯とメンバーをとっかえひっかえしながら撮影が始まる。

そろそろ職員室に行かなくてはならない聡が、

『続きは、式のあとで、ね』

と言おうとした時、校門が騒がしくなった。

記者やカメラが一斉に走り寄っていく……将が到着したのだ。