第367話 忘れ雪(1)

「あ、センセーだ」

会場となった小さなクラブに、聡が到着したとき、卒業パーティはすでに始まっていた。

クラスメートの声に、将が一瞬こちらを見る。

だが、すぐに興味なさそうに瞳をそらす。

……二人の関係が露見しないための演技が、将は巧くなった。

「センセー、こっちー!」

女子生徒に呼ばれてそちらへ向かいながらも、視線の端が引っ掛かったように、将を意識している。

「じゃ、先生も来たことだし、もう1回乾杯しようか」

さりげなく将が提案するのが聞こえる。

皆、異論はなく、ジンジャーエールやコーラが入ったグラスを持って立った。

「センセー、乾杯の音頭取ってよ」

なにくわぬ顔をして促す将に、聡は微笑みながら、グラスをとった――。

微笑みは意識してつくったものだ。明るい声は必死で絞り出したものだ。

――本当は、ここに来る力も残っていなかった。

あの高級レストランから自宅へ送ってもらった聡は……さっきからの一連の出来事に、激しく磨り減った神経を感じて床にへたりこんだ。

重い袴と一緒に体の芯が抜けてしまったように、そのままそこから動けない。

だけど。

もしかして、これが将の顔を見ることができる最後かもしれない。

康三の申し入れを受け容れるなら、将とはもう二度と逢えない……。

体はあいかわらず床に倒れこんだまま聡は、瞳をあげた。

将に会いたい。これが最後だとしても。最後に一目だけでも。

その思いだけが、聡をここに連れてきたのだ。

 
 

3時間ほど前。

さっきまでいた康三に代わって、聡と対峙しているのは博史だった。

康三は、聡のお腹の子供の父親として……そして聡の夫として、かつての婚約者・博史をあてがおうというらしい。

彼は、いったん博史に待合ラウンジに戻らせると、あらためて聡に向かい合った。

「無理強いはしません、ですが」

その瞳は、親として自分の子供の未来を考え抜いた気迫に満ちていた。

「将のためにも……そして、あなたのためにも、これがベストだと信じます。よく彼と話し合って……できるだけ早く、旅立っていただくことを願います」

将のため。

その言葉で、すべての拒絶も反論も封じられて……聡は動けなくなった。

 
 

ほぼ1年ぶりに向かい合う博史の顔を……聡は正視できずに俯いていた。

今、給仕によって新たに置かれたハーブティのカップの中に、かける言葉を探すこともなく、聡の頭の中は空白だった。

いや、正確には空白ではない。

康三の……「将のために」という言葉だけが、すべてのシナプスにリフレインするように頭蓋の中に響き渡っていた。

将の未来に垂れ込める暗雲は聡自身――。

それは、聡も……ずっと前から自覚していながら、どうすることもできなかった。

わかっているのに。

聡の心が将を欲していた。将を必要としていた。

将の明るい未来へとつながる道筋を示しつつ……聡とその子供についても不義理はしないと約束した康三の具体的な案。

それを受け入れるべきなのは、とうにわかっている。

だけど、聡の心は……心の一部だった将を、今まさにえぐりとられるべく、血を流していた。

将のために、将の前から消える。

だけど将を失いたくない。

聡の中で、理性と感情はまっぷたつに割れて……それらが乖離した空間に、「将のために」というリフレインががなりたてる。

 
 

対峙する二人の間の、重い沈黙を最初に乗り越えたのは博史だった。

「……驚いたよ。こんなことになってるなんて」

『こんなこと』が何を……どこからどこまでを指しているのか、わずかに残った思考力では判断がつかなくて、聡の唇は動かない。

ただ、そのいたわりさえこもった口調で……博史はどういうわけか、聡を責めているのではないことだけが伝わった。

だが聡の瞳は、少しずつ冷めていくハーブティから浮上することはない。

博史の顔を見ることなんてできない。

かつて聡が彼にしたことを考えれば、のうのうと博史に声をかけるなどできないし……、それに博史と言葉を交わすそれだけで……聡がいまから行う将への裏切りの幕あけになるに違いないのだ。

「女の子だって?お腹の……」

将も知らないお腹の子の性別を……どういうわけか博史はすでに知っていることに、聡の胸はズキリと痛んだ。

それで、わかった。

レールは完成しているのだ。

そしてたぶん、そのレールから逃げることは許されないのだ……。

聡は奥歯をただ噛み締めるしかない。

「……乱暴な、話だと思うだろうね」

そう。乱暴な話なのだ。

別の……博史を裏切るきっかけとなった男の子供を孕んだ、前の婚約者。

そんな女と復縁して、自分とは何の関係もないお腹の子供の父親になれという、博史にとっても荒唐無稽この上ない話。

それなのにどうして、そんな穏やかな声を自分にむかって差し出すのだ……。

「だけど。僕は」

博史は、俯いたままの聡にかまわず、穏やかな口調のまま続ける。

「これも運命だと思う」

運命。

その強い単語に聡は顔をあげた。

博史は……これ以上ないほど真摯で温かい瞳を聡に差し出していた。

だけど、その温かさは聡を逆に怯えさせ、聡の視線は再びティーカップの底へ沈んだ。

その温かさを受け取ってしまったら。

受け取った、そのときから、将を本当に失ってしまうのだ――。

それに運命は……。

『アキラ……。やっぱり俺たち、こうなる運命だったんだ』

聡の耳元で、たった今囁かれたように――博史の言葉より鮮烈に――蘇ったのは将の声だった。

思いがけず妊娠して、動揺する聡に、将は力強く囁いたあのときの将。

運命。

そんな重い単語で、自分と結びあわさるのは……やはり将ひとりしかいない。

運命のひとは……将、一人だけ。

将だけなのだ。

「将のため」のリフレインはいつか、聡の記憶の中の将を、花火のように次々と花開かせた。

あどけなさが残る笑い顔も。

大人ぶった流し目も。

涙を堪えて歯を食いしばった苦しい顔も。

寂しげな背中も……みんな、みんな聡が愛した将だ。

そして。

あの、将が好きな夕陽の海。

宇宙に投げ出されたかのようなニセコ山頂の星空。

雨に打たれてずぶ濡れで歩いた森の匂い。

腕をからめて歩いた雪の中。

将を思い出すとき、聡の中には将にまつわる鮮やかな風景、そして音色、ぬくもりや風の感触、匂いまでもがいっぺんに蘇る。

すべては、将がいなければ、振り返ることもできない、意味もない日々。

そんな鮮やかな思い出ごと……将を捨てられるのだろうか。

将なしで……生きていく意味があるのだろうか。

壁紙を温かな色に染めて、午後の光が差し込んでいるにもかかわらず。

聡は将のいない、暗澹たる未来を思って、震えた。