第383話 最後の夜(2)

ピンポーン。

チャイムの音に、今スーツケースを持っていったばかりの業者が何かを忘れて戻ってきたのだと聡は思った。

とって返してモニターをのぞくと同時に

「センセー、俺。井口」

という声が聞こえた。

画面の中にはニット帽にマスク、サングラスという怪しいスタイルの男が映っている。

しかしその体を揺さぶるような仕草はたしかに教え子の井口だ。

――なんで井口クンが?

聡はいぶかりながらドアをあけた――。
そのとたん、聡は懐かしい匂いと温かさに包まれた。懐かしい、干し草のような匂い。

――将。

触れる直前。すでに聡にはわかっていた。

将。どうして将が。

そんな疑問以前に、体が心が……ひさしぶりの将に引き寄せられていく。

体中の血液が将に向かって集まっていくようだ。

将に接している部分が温かくなっていく。

将は聡のせり出たお腹に沿って上半身を少し折るようにして、聡の顔に自分の顔を重ねる。

1週間ぶりの聡の顔。

至近距離でうるむ黒目がちの瞳に誘われるように将は聡の唇に自らのそれを押し当てた。

柔らかい感触。からみあう舌と舌。混ざり合う液体。

思えば、こんなふうに二人きりで会うのはいつ以来だろうか。

こんな風に口づけするのも何十年かぶりのよう……唇と唇は狂おしいほどに引きつけられた。

意識から遠く離れたところで二人は、夢中でお互いの唇をむさぼった。

ずいぶん長いこと唇を交わし……その唇の甘さを味わったところで、将は聡の顔をもっとよく見ようとした。

そして……その髪が短かくなっていることに気付いた。

「あれっ。髪切っちゃったの?」

久々の口づけでぼうっとしていた聡は、ハッと我に返る。

同時に、髪を切った理由を……今自分が置かれている立場を、そして明日の旅立ちを思い出す。

「なんで切ったんだよ~。俺アキラの髪好きだったのに」

将は未練がましく、あごのあたりで切りそろえられた聡の髪の毛先をいじくる。

髪を切った理由。それは将を断ち切るため……。

でも今それを言うわけにはいかない。明日は将の大事な受験だ。

でも、もし仮に明日が受験ではなかったとしても、聡はそれを言えなかったと思う。

とっさに、言い訳をつくる。

「春だから、イメージチェンジ。似あうでしょ」

自分でも苦しい言い訳だと思う。きっと、つくったようなぎこちない笑顔になっていると思う。

だけど、将は

「まあ、似合ってるけどさ」

とあいかわらず毛先を手のひらでいじくっている。

そんなふうに将の手がうなじとあごを往復するたびに……聡の肌は悦びに震えそうになる。

心は必死でせつない何かを押し殺しているのに。

それをごまかすように聡は

「将こそ、いきなりなあに? その格好。しかも今、井口って言ったでしょ」

と明るい声を出す。

「ああ、これ井口の服。井口のモノマネも似てたでしょ」

将は得意げに顛末を話し始めた……。

 
 

1時間ほど前。将は、井口とその彼女のさやかとカフェで待ち合わせをしていた。

「将! なんだその格好」

サングラスにマスク姿の井口は、待ち合わせ場所に現れた将を見て思わず大声をあげた。

「よ」

手をあげた将はもう3月だというのにダボダボに厚着して、やはりニット帽にサングラスをして、マフラーを口の上まであげている。

「さやかさん、久し振り~」

さやかは、クスッと笑う。

「こうやってニット帽にサングラスまでおそろだと、似てるね。双子みたい」

それこそ将の狙いだった。

井口と将の背丈はほぼ同じ、細身の将が厚着をして髪を隠せば遠目には井口に見えないことはない。

「どーして、マスクなんかかけないといけねーんだよ。苦しいんだけど」

文句をいう井口に、将は

「花粉症という設定だから、そのまんましといて。俺だって暑いの我慢してるんだしさ」

そういいながら、自分があとをつけられている事情を説明する。

井口にマスクをさせているのは、鼻から口を隠すためだ。

幸い花粉症のシーズンだから、マスクにサングラスという重装備の人は、結構いる。

「で、今からトイレ行って服取りかえるから」

「え~?」

驚く二人に、

「このままだと俺、彼女にも会いに行けないから。頼む、協力してくれ」

と将はおがみ倒した。将の計画はこうだ。

将になりすました井口は、将が今日泊まることになっているホテルに一人で行く。

井口になりすました将は、さやかと一緒にタクシーに乗る。

もっとも、あとをつけられるのは井口のほうだから、将が目的地までついたところで、さやかを井口のところへ返すという作戦。

「スパイごっこみたい。面白そう」

さやかは無邪気に喜んだが、井口は

「いっけどよー。お前、彼女って誰だよ。星野さんはもう大阪だろ」

と食い下がる。将は

「星野さんには振られたよ」

としか言わなかったから井口は不満そうだった……。

 
 

「それで井口とさやかさんに協力してもらってここまできたわけ。井口のマネ似てるだろ? 研究したんだぜい」

将は、井口がよくやるように体をゆすってみせた。

「ところで、将、今日はどうしたの? 明日大事な受験じゃないの?」

「その大事な受験だから」

将はそういうともう一度聡を抱き寄せた。

「今晩、一緒にいたいんだ……」

吐息が額に触れるようだ。しびれるような甘い感触。

「でも」

「……アキラといると安心するんだ。今晩一緒にいれば、明日、落ち着いて実力が発揮できると思う……それに英語の仕上げ、してくれるって言ったろ?」

聡を見下ろす将の瞳は、すでに安心しきった色になっている。

明日の計画……などはまるで気づいていないようだ。

それを見ていると聡のほうは、取り乱しそうになる。

切なくて、別れがつらくて、涙がこぼれそうになってしまう。

すべてを打ち明けてしまいそうになる……聡は思わず将の瞳から自分の視線をそらしてうつむいた。

「そういえば、アキラ」

将は聡の視線を先回りするように、顔を聡の目の前にもってきた。

あまりの至近距離に、少し目が寄っている。

「……ボストンに行くんだって?」

聡は思わず息を飲んだ。