第389話 旅立ち(3)

手紙を書き終えた聡は、軽く部屋を片付けた。

博史からメールがあり、迎えに来るのは8時30分すぎになるらしい。

出発までの時間が延びた分、聡は部屋の片付けに費やすことにした。

ベッドを整え(本当はシーツを洗濯したいけれどそこまでの時間はないのでそのままにしておく)、床にモップをかけ、ゴミを厳重にくるんでひとまとめにしてベランダに置く。

ベランダにある、なんとか冬を越したミントの鉢植えからは早くも新芽が芽吹いていた。

これも、たぶん枯れてしまうだろうけれど、せめて最後に水をたっぷりあげておく。

そして朝食で使った食器を洗いがてら、流しを掃除する。

旅立った後で誰かが片付けてくれるとはいえ、できる限り見苦しくないようにしておきたい、というのと。

……じっとしているといろいろなことを考えてしまうから。

最後にコーヒーを飲んだペアのマグカップも泡にまみれ、そしてきれいになった。

乾いた布で水気をぬぐったそれを、聡はローテーブルの上に置いた。

一度たりとも飲みっぱなしになどしなかったそれは、茶渋なども付いておらず新品といって遜色ない。

2つ揃いのそれは、愛し合っていた二人の象徴のようによりそっていた。

将がはじめてくれたプレゼント。

もちろんこれらも持っていくわけにはいかない。

聡は封筒に入れた手紙の上に、将が使っていたほうのカップをそっと乗せた。

今日、将は試験を終えたあと、大磯の別邸に直行するという。

そこではじめて、聡が来ていないことに気づくのだろう。

たぶん将は電話をかけてくる。

だけどそのときには、すでに聡の携帯は電源を切った状態でこの部屋にある。

電話がつながらないから、今日の夜か明日か……将はたぶんこの部屋を訪れる。

この手紙を手にするのは、きっとそのとき。

その瞬間を想像した聡は思わず息が止まっていた。

将のためとはいえ、将を傷つける。

将が受ける痛みは……少しでも隙があれば聡自身の痛みとなって襲ってくる。

お腹がぐるりと動く気配があった。

もしかして『ひなた』もおびえたのかもしれない。

 
 

「早く、もう少し急げませんか」

将は、運転席に乗り出すように繰り返した。運転手が悲鳴のような声で応答する。

「お客さん、無理ですよ。ちょうどラッシュの時間なんですから」

将は唇をかみしめながら時計を見た。8時になるところだ。

昨日からの聡の涙。

そしてスーツケース。

兵藤の連絡。

予感というより、もっと確実な……不吉な暗示に、将はタクシーの運転手に引き返すように頼んだ。

その段階で7時50分をまわったところだったから、急いで聡の所に戻って、疑惑を解明しても試験にはギリギリで間に合うだろう、と将は素早く計算した。

聡が自分を捨てるはずなんてない。

聡のお腹には自分の子供だっている。

試験に遅刻する危険を冒してまで、引き返す必要もない。

だが……一瞬浮かんだ理性は、いまや嵐のような不安の前に吹き飛ばされていた。

とにかく。

もう一度、聡の顔をみないと。

聡に会って、確認しないと。

聡は……自分の前から消えてしまうかもしれない。

拳を握りしめた将は、昨日から今朝の聡を思い起こした。

……そこで追い打ちのように、聡が急に髪の毛も切っていたことも思い出す。

嫌な予感はますます濃厚になり、将はここが高速道路でなければすぐさま車を飛びおりたかった。

引き返すために最寄りのインターで降りなくてはならないが、そこが本線より混んでいた。

坂道を降りていく車は歩くような速度でずるずると進むのみで、将は思わず膝を揺らす。

早く、早く。

引き返すと決めてからもう10分が経過する。

最悪、試験は20分程度なら遅刻できる。

9時50分までに着けばなんとかなる。今8時。まだ2時間近くある。落ち着け……。

将は自分に言い聞かせるそばから、この焦りは時間によるものではないことがわかっている。

聡が。聡が……どこかに行ってしまう。

まさか、兵藤がいった通り、ボストンへ行ってしまうのか。

将はずるずるとしか移動しない窓から、視線を膝の上に移した。

――アキラ、アキラ……俺を置いていくな。

いつのまにか、祈るように手を組んでいた……。

 
 

高速を降りると、あいかわらず車は多いものの、スムーズに流れ始めた。

ラッシュアワーと逆方向になるからだろう。

特に問題もなく逆方向の都市高速に乗り、ほどなく、みなれたあたりにやってきた。

祈るように手を組んだまま、少しほっとした将は時計を見た。

8時20分すぎ。

どうやら聡の顔を見た上で、試験にも間に合いそうだ。

「時間帯一方通行が多いですねえ」

聡のコーポの近くは、朝のラッシュ時間帯に一方通行化しているところが多い。

将の乗ったタクシーは思ったように元の場所にたどりつけずに迂回を強いられた。

「あ、ここで降りて、歩きます」

将は料金を精算してタクシーから飛び降りると、そこから走り始めた。

最高潮に達した不安が将の足を急がせる。

――アキラ。アキラ。考えなおしてくれ。どうか俺を捨てないで!

早足で通勤する人々をも追い越すように将は全力で走った。

次の角を曲がれば、聡のコーポがあるはずだった。

……と。その角に。

若い男が立っていた。

逆光で顔はよく見えなかったけれど……よく知っている背格好。

「大悟」

思わず将は立ち止まった。

そこにいたのは確かに、大悟だった。

「……大悟じゃんか。なんでこんなところに」

こうして顔を見るのは……あの7月の台風の翌日以来だから、何ヶ月だろうか。

将は走りすぎて苦しくなった息を整えながら、日にちを逆算しつつ、大悟に近づいた。

「将」

大悟は微笑むと、足早に将のほうへと近寄って来た。

その大悟の顔が……異様なほどに痩せこけて、目の下に真黒なクマが浮き出ているのに、そして瞳が異様な光をたたえているのに……将が気付いたそのとき。

将は、大悟がぶつかってきたのかと思った。

次に……ふいに下腹を殴られたと思う。

内臓が一気に突き上げてくるような強い力を、将は下腹で受け止めた。

いや、殴られたより鋭い衝撃。

しかも、その衝撃を、将の体は跳ね返すことなく、ギリギリと吸収していた。

――刺された。

大悟は将の瞳さえも突き刺すように睨みつけながら、えぐるようにギリギリと刺したものに力を込めてくる。

反射的に局部にあてた手が、次第にぬるぬるしてくるのを感じながら、将は大悟の瞳を見つめ返した。

大悟の瞳は……真黒なクマの上で、狂人さながらに光っていた。

あの夏の。台風の翌日。

警察官に押さえつけられながら将を睨みつけたあのときさながらに。

「だ……いご……」

「……瑞樹のところへ行ってやれ、将」

大悟は激しい視線に似合わない静かな口調でそういい放った。

そしてツカまで将に突き刺したサバイバルナイフをぐっと引きぬいた。

そのとたん、将の視界は暗くなった。まるでパソコンの……省エネモードのようだ。

心臓と同じリズムで、大量に何かが体から失われていくのがわかる。

ピューピューという感覚が傷口から伝わって……体温が失われて寒くなっていく。

傷口から噴き出した血は、ジーンズを内側からあっというまに血染めにした。

ジーンズの内側を伝った大量の血液は、靴下やバッシュも血染めに、アスファルトに染み出した。

もはやまっすぐに立っていられない。

体をエビのように曲げる将は、アスファルトに流れる自らの赤い血を見た。

明るい赤。

自分がヤクザを刺したときと同じいろ。

『動脈が通っているから、まず助からないわ』

いつかカオリさんに習った、急所の1つを、大悟は冷静に狙ったのだ。