第39話 夜の川(2)

※引き続き暴力的・衝撃的な表現があります。閲覧にはご注意ください。

 

 
寒さは聡を思いのほか早く覚醒させた。目が覚めた聡の上に粗末なベニヤ板の天井が広がっていた。

――ここ、どこ?

あまりに見慣れない風景に一瞬、夢なのかと思ったが、寒さのあまりくしゃみが2回連続で出て、聡は体を起こした。次の瞬間、自分の姿に気付いた。

――何コレ!

上着がなぜか掛かっていたが、右の膝下にストッキングとちぎれたショーツがかろうじて残っているほかは素裸だった。

しかし誰も居ない。

聡はあわてて体を確認したが、何かをされたような痕跡も感覚もない。ケガもしていないようだ。

まわりにあった服をかき集めた。破けて使い物にならないブラウスにアンダーシャツ。ショーツも片側が見事に切られている。

聡は何も考える余裕もなく、かろうじて無事なスラックスを裸の下半身に穿き、ブラジャーと上着、コートを身につけてから、自分に何があったのかを思い出そうとして頭がくらっとした。

――そうだ、何か薬をかがされて……。

駅の風景が脳裏にひらめく。黒髪の女。そうだ。

駅で教え子の葉山瑞樹が「話があるんですけど」と寄ってきた。その直後に誰かにタオルを口にあてられたんだ。

と、複数の若者の笑い声がプレハブの外から聞こえた。

聡は靴を履くと本能的に身を隠しながら、サッシの入り口から外を覗いた。

そこでは恐ろしい遊びが行われていた。いたぶられているのが誰だかわからないが、聡は血が凍る光景を見た。

 
 

川に投げ込まれた将は、体全体に染み込む冷たい水に、逆に意識がはっきりした。浅瀬だったせいもあり、立ち上がろうとした。

しかし、殴られ続けたのと、氷のような冷たさに体全体がこわばり、思うように動けない。

やっと立ち上がったと思ったら川底の石に滑って転んだ。再び、全身を冷たい水が縛り上げる。

それを見た川原にいる前原ら不良5人が大笑いする。

なんとかずぶ濡れで立ち上がると、川原に向かって歩き始めた。

歯の根があわないとはこのことだろう。ガチガチと将の歯が小刻みに鳴る。

歯が鳴るのは生死に関わる体温低下にさらされている証拠である。しかし、将はまだ自分が死ぬとは考えられない。

将はすべての思考を停止し、単に生存本能だけで起き上がり、岸へと歩いた。

雨は、いつのまにか雪に変わっていた。暗い水銀灯に照らされて雪が舞う。

ふらふらと岸にあがってくる将に、こんどは赤毛と金髪が向かった。

ちょっと蹴っただけで倒れる将を再び、二人で抱える。水に濡れた将の体は氷のようで、持つだけで手が固くかじかむようだった。

よくこれで生きてると二人は思ったが、勢いをつけて再び川の中に投げ込む。

この二人もまだ将が死ぬとは思っていない。また死んだ場合どうしよう、とも考えていない。

軽い感覚で、この見栄えの良い青年をいたぶるゲームを楽しんでいた。ゲームは最高に楽しかった。だから寒いのを忘れて転げるように笑う。

もうあがってこない、と誰もが――サッシから覗いていた聡も――信じたが、2分ほどして、少し下流に流された将は再び立ち上がった。

横なぐりのように降るボタ雪の中を、さっきより若干早いペースで岸に向かって歩いてくる。

「お前、しぶとすぎッ!」

前原は狂気の叫び声をあげると、氷のような川の中を歩いてくる将に向かった。自らも川の中ジャブジャブと入る。

前原はここに来る前にクスリをやっていた。そんな彼には水の冷たさは感じていても関係なかった。

雪が降る川の浅瀬にやっと立っている将を三たび川の中へ殴り倒す。

起きようとするその顔を水の中に押し込んだ。

「死ねやあああ!」

「がふっガボっ」

将はすごい力でもがいて水面に顔を出そうとする。ばしゃばしゃと手を動かして水面に押し付ける前原の手をどけようとする。

氷のような水しぶきが前原の顔や体にかかった。

前原はやみくもに動かす将の手を払いのけながら、将の頭をさらに水中に押さえ込む。

川原ではやしたてていた不良はいつしか固唾を飲んでいた。

――あいつヤバくない?

――本当に死んだらどうする気だ?

ふっと前原の手をどかそうとする将の手の力が抜けて、水面が静かになった。

川のせせらぎが雪の中に不気味に響く。将はうつぶせのまま動かなくなった。

突如、サイレンが鳴り響いた。暗闇の対岸遠くに赤いランプが点滅した。

「ヤバイ!」川原にいた不良はあわてた。

髭面が川の中に入り、なおも気違いじみた力で将の顔を水中に押さえ込む前原を連れ戻すとワゴンを急発進させた。窓から聡のカバンを放り投げる。

聡は不良が退散したとたん、サッシを開けて、外へ出た。

暗い空に水銀灯に照らされて雪が花びらのように舞っていた。

「将!」

川の浅瀬でぐったりと倒れる男がはっきりと見えたわけではない。ただ直感で聡はそれが将だと確信した。

聡は川に足を浸した。冷たいというよりは痛いような川の水。

川底の丸みのある石にローヒールの靴底をとられそうになりながら、将のいる川の浅瀬に入っていった。

深さ20センチぐらいのところに将は倒れていた。

「将!しっかり」

聡は力をふりしぼって将の体をひきずった。

が、足をとられて二人とも倒れた。水際といえるほど浅い場所だった。

聡は自分が濡れるのもかまわずにその場で横たわる将の顔をぴしゃぴしゃと叩いたが、将は呼吸していなかった。

暗い水銀灯とプレハブからもれたわずかな光の中浮き上がった将の顔は、殴られた跡の色とりどりの鮮やかな痣が浮き上がっているものの、不思議に青白かった。

その上に白い雪が舞い落ちる。葬列の花を予感させるようなぞっとする美しさだった。

聡は死の予感に負けじ、と将の唇に自らの唇を押し当てた。将の唇は氷のように冷たくなっていた。

聡は自分の息が将の肺へと届くのを祈り、熱い息を将の中へと吹き込んだ。

「将!将!しっかりして!」

呼びかけながら胸をマッサージして再び息を吹き込む。

何度か繰り返すうちに喉でごぼっ、と音がして、水が将の口から逆流した。

やっとあいた将の眼に、髪の毛に雪をくっつけた聡が映った。

「ア……キラ」

将は手を伸ばすと、聡の髪に手をやった。

「雪が……」

将は深く息を吸い込んで目をあけると、苦しそうにむせて水を吐き出した。

「将……よかった、よかった……」

聡は安堵して、咽る将の背中をさすりながら泣いた。

そこへ、やっと井口とカイトが走ってきた。

「将!」

「大丈夫か」

二人はカイトのバイクに二人乗りしてやってきたのだ。

「センセーも無事?」将のそばにかがみこんだ井口が聡をふりかえった。

「私は大丈夫よ」

カイトが赤く点滅するサイレンを手に持っていた。

「覆面パトから前に盗んだヤツです。なんとかだませたらしーな」

にやっと笑って聡に差し出した。

「ありがとう……」

聡は二人に頭を下げると再び涙をこぼした。

そのとき雪雲の陰から月が顔を出した。雪がやみそうだった。

 
 

 
ミニは井口が運転して、なんとか将をマンションに連れて帰ることができた。

長身の将は、同じくガタイがでかい井口と聡の2人がかりで運ぶのも大変だった。

将の体は、さっきとはうってかわって火のように熱くなっていた。

さっきからのひどい状況で風邪が悪化したのだろう。意識が飛んでいるらしいが、息はしている。

救急車を呼ぶことを聡は提案したが、車の中で将自身が却下した。いろいろと面倒なことになるから、と。

「何だこれ。髪?」

リビングの入り口にちらばった黒髪を見て井口は言った。

「片付けてくれる、いえ、まず濡れた服を脱がすのを手伝って」

何度も川に投げ込まれた将は、全身びっしょりだ。

このままベッドにいれたらベッドもぐっしょりになってしまうだろう。

聡はソファにバスタオルを敷くとそこに将を寝かせて井口と二人で服を脱がせた。脱がせながら乾いたタオルで水気をぬぐっていく。

部屋の暖房は最強にした。濡れたシャツを脱がせた聡はハッとした。

将の背中にケロイドのような古い傷跡を見つけたからだ。傷跡は水でふやけて蝋のようになっている。

火傷だろうか。もし火傷だとしたらかなりひどい傷だったはずだ。

聡は一瞬躊躇したが傷のあたりもそっと拭ってパジャマを手早く着せた。

将の体は湯気が出そうなほど熱くなっていて、意識がないままガタガタと震えていた。

「センセイ、パンツもびしょびしょなんだけど」

ジーンズと靴下を苦労して脱がせた井口が聡に伺いをたてた。

濡れたジーンズに包まれていた将の足は蝋人形の足のように白っぽくなっていて、腰のまわりにはまだびしょびしょのトランクスがぴったりと貼り付いている。

聡は顔をそむけて「もちろん、脱がせて」と指示した。

「ええー。はずかしいんだけど」

「バカなこと言わないの。男同士でしょ」

聡は強い調子で言った。

「やだよ。センセイやれよ。彼女なんだし、もう何度も見てんだろ」

井口はぷいっと横を向いたがニヤニヤして続けた。

「違うっ……!まだそういう関係じゃないっ」

聡は目をむいて否定した。

「あ、そ、『まだ』そういう関係じゃないんだぁ」

井口はピアス顔の目を三日月のようにニヤつかせた。

こんなことをしている間にも震えと熱が心配だ。らちがあかないので、

「乾いたタオル、もっと持ってきて」

と井口に命令すると、仕方なく将のトランクスの腰の後ろに手を回してずり下ろした……。

「何してる」

急に将の目が覚めた。

「ご、ごめん。下着まで濡れてたから、替えようと思って」

聡は腿のあたりまでずり下ろした将のトランクスからとびのいた。

「……自分でやる」

将はかすれた声で言うと、いったん脱がされかけたトランクスをずりあげて起き上がった。

いつもだったら聡には何か冗談の1つもいう将なのにそういう余裕もないようだ。

よろけて柱にもたれかかる。頭はボーっとしているようだ。

「大丈夫かよ?」

井口が肩を貸してなんとかふらつきながらもバスルームへ行った。

バスルームの脱衣所からは立て続けに激しい咳が聞こえてきた。

「で、見た?」

井口が再び目を三日月にして聡をのぞきこんだ。聡は顔を赤くした。

「見たんだ、見たんだー!」

「何コドモみたいに騒いでるの。これ片付けてっ」

聡は井口にリビングの入り口にちらばった髪を片付けさせた。

「あたし、1回着替えてくるから、井口くん、ちょっとここにいてね!1時間以内に戻るから。将が出てきたら寝かせて、顔に氷をあててあげて!」

聡も実は下着を着けていないのが、そろそろ気になっていたのだ。

「ほいほいサー、……将、ね」

井口は、いつのまにか『将』と呼んでいる聡に気付いていた。なぜかほほえましく思っていた。

そして掃除機でちらばった黒髪を吸い取りながら、これは瑞樹の髪だ、と直感した。