第397話 最終章・また春が来る(5)

聡は将を捨てたのではなかった。

おそらく――将のために、将の未来のために、身をひいたのだろう。

いままで濁っていた部分が、何かの溶媒を入れたかのようにクリアになっていき……将には聡の意図するところが今になってはっきりとわかるかのようだった。

すべては将のためだったのだ。

『母に会ってほしいのです。お願いします』

美しく成長した陽の声が将の脳裏に三たび響く。

将は握りしめた万年筆を眺めた。

18の誕生日に、聡からもらった万年筆。

将はそれを大事に使ってきた。聡を失った後も。

数年に一度は、製造元に送ってメンテナンスまでする凝りようだった。

将とて。

心の底では聡を忘れてはいなかった証――。

諦めながら、忘れることなどはできなかった……。

 
 

「将。夜食の用意できてますよ」

背後で純代の声がした。

将がずっとダイニングに降りてこないので、心配した純代が上がってきたようだ。

将は彷徨させていた思考を元の場所に戻す。

「わかりました。すぐ降ります」

そう答えると、窓辺から離れた。

振り返った将に、二つ並んだベッドが目に入る。

今日は出張中で帰らない、妻の香奈のベッド。

離れながらも二人が思いあっていたことがわかったからといって。

二人の間には、それぞれの25年が降り積もっている。

将には……築き上げてきた家庭がある。

いまさら、どうしようもないのだ。

将は万年筆を自分のベッドサイドに置く。

万年筆は長いこと握りしめていたのでほんのり温かくなっていた。

一度、日本海側の小さな町にある、万年筆の製造元を訪れたことがある。

『大事に手入れをすれば、名前の通り、一万年でも持ちますよ』

年配の店員はそういって笑った。

その言葉の通り、その書き味は今も衰えない。むしろ年を経るごとになめらかになっていくようだ。

万年筆は健在でも。

それをくれた聡の命は、もうすぐ終わろうとしている。

聡が病気。

もう何度も大きな手術を受けている。

そして、2年前に余命2年と宣告されている……。

将の中の聡は、20代半ばの、桃のようにみずみずしい笑顔のままだ。

もしかして聡は、自分を愛したせいで、不幸になってしまったのではないだろうか。

しなくてもいい苦労をしょいこんでしまったのではないだろうか。

25年の苦労と、病気は……その姿をどのように変えてしまっただろうか。

次々に湧きあがってくる重いものに、ため息も喉で押し固まるようだった。

 
 

「ごちそうさま。おいしかった」

純代手作りの温かい豚汁は、少しだけ沈んだ気持ちをほぐしてくれた。

「おかわりは?」

「いや、もういいです」

将は、ふと義母の純代に……さっきのことを話してみようかと思いついた。

なんといっても純代は25年前、妊娠した聡の世話を自ら進んでひきうけていた。

聡が消えてしまった後も、夫に内緒で独自に探させたりなど……二人ができるだけ不安のない形で結ばれることを、一生懸命模索してくれたのだ。

かつ、心肺停止から奇跡的に生還したものの、体中に麻痺が残った将につきそい、つらいリハビリにくじけそうになる将をときに叱咤しながら励ましてくれたのだ。

将が今、ほとんど体に不自由を残さずに暮らせているのは、純代のおかげだといっていい。

「お義母さん。今日……女優の月舘よう子さんに会いました」

できるだけ何気ないように……口にしたはずなのに、食後のほうじ茶を淹れていた純代の手が不自然に止まった。

しん、としたダイニングの中、湯呑から立ち上る湯気だけがふわりふわりと立ち上っていく。

「……将」

純代はおずおずと視線をあげた。

「ご存知だったんですね」

「隠していたわけじゃ、ないのよ。あなたはもう結婚して、ふっきれているからと思って」

とっさに言い訳をする純代を、将はもちろん責めるつもりはない。

「いや、咎めるつもりはないんです……。父は、先生親子をずっと援助していたんですね」

純代はうなづいた。

「それくらいしか、してやれることはないから、と……。先生がアメリカに渡ったときから、いろいろと世話をしていたみたい」

もしかして聡が自分を捨てたのは……父の差し金ではないか、というのは25年前からずっと考えていたことだがそれを聞いて、将は確信を持った。

「やっぱり、先生は父に……」

「ええ。今だからいうけれど……私にも内緒で、先生を結婚させてアメリカに行かせたの。亡くなる前にすべてお話になったわ」

純代はうなだれるようにしながらも、残りのほうじ茶を湯呑に注いで、将に差し出した。

もう、振り返れないところまで来ているという開き直り――いや、純代は、一切父に知らされていなかったのだろう。

いまさらだからなのか、怒りは湧いてこなかった。

ただ、ただ、むなしい胸のあたりに、熱いほうじ茶は沁み込んでいく。