第400話 最終章・また春が来る(8)

「スイスからのお土産は明日あけようね」

「うん!」

「よしよし。じゃあ、今日はもう、寝ようね」

そういって香奈は了を部屋に連れていって休ませた。

その間、寒い外から帰ってきた妻を気遣って、将はダージリン・ティを淹れた。

「あー、いい匂い」

深呼吸をするようにして、子供部屋から香奈が戻ってくる。まだ帰って来た時のままの姿で、着替えもしていない。

「コニャック入れる?」

「ちょっとだけ。眠くなってお風呂に入れなくなっちゃうもん」

将の問いに、香奈は手で「ちょっとだけ」と示しながら、くしゃっと笑った。

そのまま、倒れこむようにリビングのソファーに体を投げ出す。本当にクタクタなのだろう。

「ちょっとだけ……ね」

将は慎重にコニャックの瓶を傾ける。

2滴だけ、香奈のカップに垂らすのに成功したとき、急に香奈がこちらを振り向いた。

「……そういえばね。チューリッヒで珍しい人に会ったのよ」

「へえ、誰」

香奈が答えようとしたとき、玄関の鍵が開く音が響いた。

純代か海が帰ってきたのだろうか。

声もなく、ただ廊下を歩く音がする。

「海。海なの?」

香奈はリビングに座り込んだまま、呼びかけた。

紅茶をカップに注ぎ終わった将が、リビングの入り口をあけると、そこにちょうど海の姿があった。

家の者に挨拶もせずに、階段をのぼって自室に行こうとしていたらしく、将の姿を見つけると、眉を少しだけ寄せた。

「帰ったなら、一言ぐらい挨拶しなさい」

思わず将はキツい口調になる。

背が伸びた……といっても186センチの将にはまだ遠く及ばない海だから、さすがに目立つ反抗はしない。しかし

「……ただいま」

という声は低く……愛らしかった子供の頃からはどんどんかけ離れていくようだ。

「お母さんも、帰ってるぞ。ちゃんと顔を出しなさい」

それには無視して海は階段を駆け上った。

「海!」

「あとでするよ!」

それが聞こえたときにはもう姿は見えなかった。将はため息をついた。

「受験が近づいて、ピリピリしてるのよ」

後ろから香奈の声。

いつのまにかソファから立ち上がって、カウンターキッチンの上で湯気を立てていたティーカップをちゃっかり傾けていた。

「まったく。昔はもっとかわいいヤツだったのに」

「本当にね。誰に似たのかしらね」

香奈はそういうと、クスッと口角をあげた。将は黙るしかない。

香奈は義母の純代や、90を過ぎた大磯の春さんから将の昔の『武勇伝』を漏れ聞いているらしい。

あの悲惨だった純代との確執の日々も……和解した今では、いつのまにか笑い話に近いものとして妻にはとらえられているらしい。

「あいつ、そんなにピリピリするような成績なのか?」

将はソファに腰掛けながら話題をやや逸らした。

「ううん。A判定よ。でも、好きな子が公立中に進むみたい」

追随して腰掛けながら、香奈は平然と答えた。

好きな子。意外な単語に、将は口をぽかんと開けた。

「……この4月で13才だもの。好きな子くらいはいてもおかしくないわ」

笑いながらわが子をフォローする香奈に、将は憮然と黙り込む。

海の誕生日は将と近い。

将が海の年齢の頃、ちょうど背中に負ったヤケドで入院していた。

そのせいで将は中学受験をあきらめ、公立中に進んだのだが……そのせいで将は一気に悪くなったと思う。

あまつさえ、14になるまえに女さえ覚えてしまった。

そんな年に、あの可愛かった息子が差し掛かっているとは……。

感慨深くなったついでに、将は自分の当時の「好きな子」を思い出そうとして愕然とする。

将には「好きな子」がいなかった。

つきあっている子はいたが、誰にでもいるはずの「好きな子」という存在が、将にはまったく思い出せない。

それこそ聡という存在ができるまで、まったく。

ふわりと羽が飛んでいくように、将の思考を再び聡がかすめていく。

それを振り切るように

「俺は、海が公立に行きたいなら、別に反対はしない」

将は差し出されたティーカップに、噛みつくように口をつけながら呟いた。

「あの子だって、わかってるわよ。自分のこれからを考えれば私立に行ったほうが楽だって。

だけど、頭ではわかっているけど感情で割り切れていないから、ああいう態度を取るのよ」

フン、と鼻先で答えつつ、将も理解している。

もう海も13。親に反抗したくなるのは、正常に育っている証拠なのだ……と。

 
 

「……で、あっちで会った、珍しい人って誰?」

コニャックの甘い香りを含んだ紅茶の湯気に若干心がほぐれた将は、香奈がさっき言いかけたことを思い出した。

「ああ。西嶋さんよ。西嶋大悟さん」

その名前に、湯気さえも一瞬止まった気がした。

なんという奇遇だろう。

昔の……13才頃の自分を思い出していたときに、あの、大悟の話が出てくるなんて。

「……元気そうだった?」

「ええ。何年ぶりかしらね。あちらの精密機械を取り扱う企業と大きな取引があったんですって」

「そうか……」

将は鼻先を温める湯気とともに再び思い出をたぐる。

懐かしいと同時に、お互いの心に大きな傷を残すこととなった、大悟。

大悟に刺されたことを……将は恨む気になれなかった。

あのおかげで将は1ヶ月も意識不明のままになり、やっと意識が戻っても体がなんとか自由に動くようになるまで1年もの歳月を要したのに、だ。

自分が大悟にかぶせてしまった罪に比べたら。

つらいリハビリのたびに、将はそれを思った。

大悟はといえば、将を刺した直後に自首していた。

被害者である将が意識不明の間に、いったん殺人未遂罪として起訴予定となっていたが、息を吹き返した将の強い願いもあり減刑された。

それでも再犯ということで、2年の懲役が言い渡され、結局1年10か月の間、少年刑務所に入っていた。

その後、大悟は更生し、二度と闇の世界には戻らなかった。

養子縁組を撤回しなかった西嶋氏に心から恩を感じたのだろう。

西嶋氏の会社で働きながら技術を学んだ大悟は、8年前に西嶋光学工業を継いでいた……。

その後、二人が顔をあわせたのはわずか数回だ。

何気ない思い出話も交わしているが、その間柄に大きな傷跡が残る二人である。

昔のようにいつも一緒にいるような関係には、もうなれないと将はわかっている。

将のほうは……大悟さえ許してくれるのなら、いつだって元どおりの関係になりたい。

だけど、大悟は心の中では、一生自分を許さないだろうと思う。

できれば自分にかかわりたくないだろうと……。

それでも将はいつも大悟を気にかけていた。

大悟が西嶋氏から受け継いだ会社は、大悟自身の才覚と尋常ではない努力で、ますます成功していた。

大悟の会社が何か新しい特許をとるたびに、また外国の大きなプロジェクトに参加するたびに、将はいつも自分のことのように喜んだ。

でも……自分の罪は、一生かかっても償えないと思う。

 
 

「あいかわらず独身だそうだけど。あんなに素敵なのに、不思議よね」

大悟と今までに2度ほど会っている香奈は、将と大悟の間に何があったかを詳しくは知らない。

彼女が認識しているのは、ただ、将の古い友人だということくらいだ。

香奈が不思議がる、大悟がいつまでも結婚しない理由についても、将は知っていた。

以前健康診断に訪れた病院で、偶然、大悟と出会ったことがある。

『精密機械を扱っているのに、経営者の手が震えたらダメだよな』

大悟はそういって静かに微笑んだ。

若いころに覚えたあの薬は、今も大悟の体を蝕んでいたのだ。

手の震え、激しい頭痛、鬱症状……そしてフラッシュバック。

連用していたのは1年足らずのはずなのに、今でもときおり、そんな症状が大悟を襲うという。

何年も経ったのに、未だに大悟は苦しんでいる。

きっと……口には出さないけれど瑞樹のことも、忘れられずにいるのだろう……。

自分の罪の重さは、時を経て消えるどころか、さらに重圧を増しているのかもしれない、と将はおびえた。