第409話 最終章・また春が来る(17)

今は3月。

もうすぐ、あの日から26年になる。

二人の関係が、途切れてしまったあの日――。

 
 

聡が成田から飛び立った、ちょうどその頃。

最先端の医療技術、そして最優秀を誇る医師団の努力によって将の心臓は再び動き始めていた。

しかし、心肺停止状態が30分以上も続いていたせいか、手術が無事に成功したというのに、将は目覚めなかった。

奇跡的に、脳の大半も救われたにも関わらず、将はそれから1ヶ月もの間、眠り続けた。

付き添っていた純代は……将が目覚めるよう何度も呼びかけた。

呼びかけながらも。

目が覚めたら、何と言えばいいのだろう。

聡の不在を……どう説明すればいいのだろうか、悩んでいた。

将の目覚めを心から望みながらも、心のどこかではそれを恐れていた。

 

一方聡は。

将が刺されて重体に陥ったことを、ボストンに到着してまもなく知った。

無事に到着したことを、萩の両親に知らせようと、日本が朝になるのを見計らって電話したところ、母親からその事実を告げられたのである。

「聡。あんたの教え子さんが刺されて、今こっちじゃ大騒ぎだよ」

「えっ」

聡は一瞬、母親の言葉の意味をよく捉えられなかった。

「……あの、去年うちに来た、官房長官の坊ちゃん」

母親はすぐにそう付け加えたから、聡は今度こそ崖から突き落とされたような錯覚に陥った。

立ちくらみがして電話を握ったまましゃがみこむ。

それを見た博史が駆け寄ってくる。

「刺されたって……。ケガはどうなの?」

震えそうになる声を……かろうじて保つ。

近くで心配そうに様子をうかがう博史のためと、電話の向こうの母親によけいな心配をかけないために。

だけど、体中がふわふわとしている。

現実なのかどうかわからなくなった体の中心で、心臓だけがばくん、ばくんと揺れている。

「今朝のニュースじゃ一命をとりとめたって言ってるけど……、そうとう危なかったみたいだよ」

母親は聡が宿しているのは将の子であるとは、まさか知らないから、事実をそのまま述べる。

だが、こちらの体調を気遣って隠されるよりはいい……。

「でも。助かったのね。とりあえず無事なのね……」

聡はしゃがみこんだまま、あえぐように繰り返す。

「でもね、まだ意識が戻らないみたいだよ」

無理矢理安堵しようとした聡は再び、奈落に突き落とされる。

意識が戻ったという情報が入ったらすぐに連絡するという母親の声を聡はごく遠くで聞いた気がする。

それは地球の裏側から聞こえてくる頼りなさとして、聡の耳に残る。

「あきら」

博史が心配そうに聡を抱え起こした。

「顔が真っ青だ。どうしたの」

優しい博史の顔に聡は思い出す。

この顔こそが、これからずっと一緒に生きていく伴侶の顔なのだ。

聡は、すべてが沈んだような意識の中で、自分に再確認する。

――なんでもない。

そう取り繕おうとしたけれど、口が動かない。

せめて、泣いたらいけない。

そう思っているのに、涙が目じりからこぼれてしまう。

「……鷹枝くんのことだろ」

優しい瞳のまま、まるで博史は聡の心を読んだようだった。

「今、パソコンを接続したらネットに書いてあった」

本当は日本を発つ前に知っていた博史、ネットは続報の確認のためだったのだが、それは言わない。

「……見せて」

聡は真っ青な顔のまま、自発的にパソコンへと手を伸ばした。

康三の計らいで、到着第一夜はボストンのホテルの、最高級の部屋に泊まっている。

ソファを備えたスイートだ。

ソファのテーブルの上に博史のパソコンは置いてあった。

真っ青な顔ながら……聡の気迫に負けて、博史はテーブルの上に置いたパソコンをあけると再接続した。

聡はソファに座ると、食い入るようにネット上のニュース記事を読んだ。

そして知る。

自分が将と別れた直後に、彼に何が起こったのか。

読み終わって……それまで詰めていた息を大きくついた。

「心配だろう。日本に……帰りたい?」

博史はぽつりと聞いた。

聡はハッとして博史を振り返った。博史は優しい瞳のままだった。だけど……それは、どこかゆがんでいるようだった。

一瞬『帰りたい。今すぐ引き返す。将のところに帰る』と言ってみたい衝動にかられる。

だけど。

そう答えるわけにはいかないことぐらい……わかっている。わかりすぎている。

聡は、吸い込んだ息をお腹に落とし込むと、首を静かに横に振った。

「帰れないもの。帰らないって、もう、決めたんだもの……」

だけど、涙だけは止められない。

ティッシュでぬぐっても、あとから、あとからあふれてくる。

どうして。

一番大事な人の命の危機に……そばについてやることができないのだろう。

自分の幸せを投げうってまで、幸せになってほしいとまで思ったのに……。

思えば将は。ずっと、自分が離れるのを恐れていた。

泣いて、ダダをこねながら、自分を捨てないでくれと訴えていた。

まさか、将がこのままいなくなるなんてことは。

自分が将の前から消えることを考えても、将がこの世から消えるなんて――。

聡は身震いした。

もしかして自分は、もっとも残酷なことを、将にしてしまったのだろうか。

神はその罰として、まさか、聡にとって一番大切な将を天に召してしまうんだろうか。

このまま……この世とあの世に永遠に別れてしまうのだろうか。

――嫌だ。

この世で逢えないにしても。

将には生きてほしい。生きて……人生を、やるべき使命を……まっとうしてほしい。

そのために聡は身を引いたのだから。

聡は心の中でひれ伏すと祈った。

――将。お願い。目を覚まして。

――神様。いるんだったら、将をどうかお救いください。どうか目を覚まさせてください。

もしも、将の目が覚めるのだったら、どんなことでもする。

自分の命を投げ出してもいい……。

 

翌日。

将を思って一睡もできなかった聡の体に異変が起きた。

再び出血を見たのだ。