第84話 呉越同舟(1)

母の後ろから出てきたスーツ姿の博史は、柔らかい視線で聡を出迎えて、すぐに少し鋭い目付きに変わった。

聡の後ろにいた将を睨みつけているのだ。

聡は、振り返らなくても将も、博史を睨み返しているのがわかった。

「……どうして?」

聡は靴も脱がないで、博史にここにいる理由を問い掛けた。博史は将から聡に視線を移すと

「やだなあ。挨拶に来たんだよ。……聡、結婚のこと、ご両親に全然話してなかったんだね」

博史の口調は柔らかいものの、暗に聡を責めている。聡は言葉につまった。

「こんなところで立ち話もなんだから、コタツへどうぞ。……聡は夕食の支度を手伝って。こんな時間までどこに行ってたの」

母の言葉が助け舟になり、聡は

「ごめん」

と母に謝りながら、将を振り返る。聡の後姿を見つめていた将と一瞬目が合う。

聡は目でうなづくと、家にあがり、台所へ向かった。

後に続いて靴をぬぐ将を、博史は見下ろしていたが、踵を返した。

 
 

長方形の堀ごたつの短辺に、帰宅してまもないらしい聡の父・大二郎、長辺の片方に井口と大悟、もう片方に大二郎の教え子で昨年の卒業生だという男女が3人座っていた。

大二郎の傍らの席があいているのは、博史が座っていたのだろう。

どうやら大二郎とビールを酌み交わしていたらしい。コップ2つととビール瓶が大二郎の近くにあった。

将の三歩先を歩く博史は当然のように空いている聡の父のすぐ近くにおさまった。

残りはもう片方の短辺、つまり聡の父と遠く離れた対面しか座る場所がない。

将は、欄間に頭をぶつけないように、身をかがめて注意深く居間に入った。

大悟と井口が「将、」と何か言いたげに振り返った。

将は聡の父と博史の間のこたつの角まで、畳のへりを踏まないように歩いていくと正座した。

「鷹枝将、といいます。古城先生にはお世話になっております」

と丁重に頭を下げた。大二郎は赤ら顔で、微笑むと

「……君は礼儀正しいねえ。今時の若いモンにしては珍しい。それにいい男だねえ」

と上機嫌で将の態度と容姿を褒めた。

そういう大二郎のほうも、まるで刑事ものに出てくる俳優のような渋い熟年である。

50代半ばだろうに、その頭はきれいな銀髪に染まっている。将を気に入ったのか

「こっちに座んなさい」

と隣の席を勧めた。教え子に詰めろと促す。博史が笑顔のまま、瞳だけで将を睨みつける。

「いえ、せっかくですけど、僕、先生を手伝ってきてもいいですか? 台所大変そうだったから」

と将は博史を一瞬睨み返しながら固辞した。

「おお、おお。手伝ってこい」

大二郎はますます相好を崩した。将はもう一度軽く頭を下げると立ち上がり際に博史をちらりと見た。

向こうも一瞬将を睨んだようで、目が合った。大二郎のポイントを稼いだ将が面白くないのだ。

「じゃ僕も手伝いましょうか……」

博史は立ち上がるポーズを見せた。が、

「博史君はいいよ。聡の結婚相手なんだから」

と引き止められる。

――結婚相手。だって?

将は背中でその言葉を聞いてしまい振り返る。

またも博史と目が合う。こんどは得意そうな顔をしている。将のほうが面白くない顔をする番だ。

「博史君、今日はどこに泊まるんだね」

「ハイ。ビジネスホテルにでも、と思っているんですが」

「まだ予約してないんだったら、うちに泊まりなさい。今日は聡の教え子たちも泊まるが、もう1部屋空いてるから」

「お言葉に甘えてよろしいでしょうか」

「かまわんよ」

大二郎の教え子も高校生とあり、如才なく言葉を交わしていた井口と大悟だったが、

二人とも博史と大二郎のやりとりを耳をダンボのようにして訊いていた。

「なあ。こういうの『呉越同居』っていうんだよな」

と井口がボソッと大悟に耳打ちする。

「違うって。呉越同『舟』(ごえつどうしゅう)だってば」

大悟が訂正する。

「どっちでもいいけど、あいつ結婚相手なんて認められてるよ。将どうすんだァ?」

「さあ。なるようにしかならんでしょ……、おいあれ」

大悟は話の途中で、突然テレビを指差した。一座が皆、自然にテレビに注目した。

テレビの画面には、将の父である鷹枝康三官房長官が映っていた。

新春の午後、テレビでは硬派のバラエティをやっているようで、そこにゲストとして康三が出演していたのだ。

若手ながら次期総理の一番候補とされ、国民の人気も高い康三は、最近、硬軟問わずテレビ出演が多い。

今日も、日本の今後について、タレントから繰り出される幼稚園生レベルのような質問にわかりやすく笑顔で答えている。

「将のオヤジじゃん」

井口がもらした言葉に、大二郎が反応する。

「鷹枝って……、さっきのイケメンくんは、まさか、官房長官の息子さん?」

「そうでぇす」

大悟と井口は口を揃えてうなづいた。

「はー、どうりでねえ……。きちんとしてると思ったよ。明治維新から続く政治家のうちの坊ちゃんじゃ」

大二郎は感心してテレビの康三を見つめる。大悟と井口は顔を見合わせて

『きちんとしてる、だってよ。あの将がヨ』

とこっそり笑いあった。

博史は、将の父の笑顔が映っている画面を冷ややかな横目で見つめていた。

 
 

「聡。博史さんって、アメリカにいたときから付き合ってたって人でしょ。指輪まで頂いて、どうして黙ってたの?」

台所。聡の母の幸代は流しの横で大根の皮を剥きながら聡に問うた。

「お母さん……あたし」

聡は流しの後ろのダイニングテーブルに立って、ニンジンを手に取ったまま一瞬言いよどんだ。

「向こうのお母様の具合もよくないんだから、早く進めてあげないと」

「その話なんだけど……」

聡が言いかけたとき、将が台所ののれんをくぐって身をこごめるようにして入ってきた。

「しょ……鷹枝くん?」

思わず名前で呼びそうになるのを聡はかろうじて抑えた。

「あの、自分手伝います」

「あら、男の子なのに感心ね。ちょうど猫の手も借りたかったところよ」

幸代は、振り返ると笑顔で長身の将を見上げた。

「じゃあ、このゴボウを洗って、笹がきにしてちょうだい」

遠慮なく言いつける。

「笹がきって……」

「聡、教えなさい」

聡は将を流しへと促すと、タワシを持って「こうやって」と教える。

将は熱心に教えを請うふりをして、聡にくっつく寸前、吐息がかかるほど、まで近寄る。

「洗ったら、ここにまな板があるから半分ぐらいに切って」

聡は指示すると、将のそばをつい、と離れて、元の位置に戻る。

幸代は将に

「料理に興味があるの?」とか

「聡は教室ではどんな感じなの?」などとしきりに質問している。

将は感じのよい青年を演じ切っているというか、おそらくこっちのほうこそ将の地なんだろう。

だが、おかげで聡は『博史と結婚する気はない』という大事なことを幸代に言いそびれてしまった。

「センセイ、切りましたー」

「じゃ、こんどはね……」

ボウルを取り出して、水を張ると、エンピツを削る要領でゴボウを削る、と教える。

しかしロクに包丁を握ったこともないどころか、エンピツも削ったことがないような将にそれは難易度が少し高かった。

「違うってば。そうじゃない。てか包丁の握り方がぜんぜん違うし」

「えー、どうすんだよー」

「こう」といいながら将の手を持って包丁を握らせる。

いつのまにか体が触れるほど接近している。

教えるのに夢中な聡は気付いてないが、聡の甘い香りと体温を感じて将は幸せな気分になった。

おかげで、切り方はうわの空で、聡にまた「違う!」と怒られる。

「だから、こうだってばー。ちゃんと家庭科出席してんのぉ?」

再び、くっつくようにして教えているときに、のれんをかき上げて博史が現れて、二人はハッとした。

博史は聡にくっついている将を一瞬睨みつけたが、幸代が振り返ったのを見ると

「ビールもう1本いいですか?」

と爽やかな笑顔をつくった。

「ああ、聡、冷蔵庫からビールを出してあげて」

と幸代に指示された聡は、将から離れるとのれんの横にある冷蔵庫からビールを出した。

博史はそんな聡を見つめて囁いた。

「聡」

「なぁに?」

囁かれたにしては大きすぎる声で聡は答えた。将にあらぬ疑いをかけられたくない。

「聡、明日、何時の飛行機?」

「4時30分だったと思うけど……」

「同じ便だ。じゃあ一緒に帰れるね」

「……ハイ、ビール」

明るく大きな声で、ビールの栓を抜いて渡す。

まだ何か言おうとしていた博史はそれで何も言えなくなり退散した。

聡がため息をつくと、幸代が

「早いうちに、上京して、向こうのご両親ともお会いしておかないとね」

と振り返った。

将が悪戦苦闘するゴボウから顔をあげてこちらを見ている。

「お母さん、あの……」

聡は核心に触れようとしたが、まだ博史が近くにいるかもしれない、と思い一瞬とまどった。

博史にはきちんと自分から別れを告げるべきだろう。

でも両親には、自分の心変わりを先に話しておかないと取り返しのつかないことになる。

だけど、今日泊まっていくという博史は明日までべったりと一緒にいるに違いない。

両親だけに打ち明けるチャンスがあるだろうか。

考えたあげく、妙案が思いついた。

「お母さん、今日なんだけど、人数が多いから、みんなで温泉にでもいかん?うちお風呂狭いしー」

「ああ、いいねえ。秋月くんちにでもいくね?」

それはマズイ。秋月のところの温泉は男女の風呂が壁一枚でしか隔てられていない。

話し声などは筒抜けになる可能性がある。

「もっと広いところにしようよ。露天があったりとか」

聡は男女別になる温泉で、とりあえず母にだけでもうちあけておこうと思ったのだ。

「じゃあ、○○屋敷さんにでも行こうか。あそこは露天風呂もあるし」

話は決まった。