第102話 雪山の一夜(1)

「アキラ、大丈夫か」

激しい雪と風の中で、ひとしきり抱き合うと、将はグローブのまま聡のむきだしの頬を両手で包んだ。それはリンゴのように真っ赤になっている。

聡はそのまま、将を見つめるとこっくりと頷いた。

「眉毛が凍って真っ白だぞ」

将はやさしく、聡の眉毛や瞼を撫でた。張り付いていた氷が薄い破片となってサラサラと落ちていく。そうする将のニット帽から出た髪や眉毛にも次々に白い雪が張り付いていく。

さかんに吐き出される白い息は、あっという間に、将の睫や眉毛に白く結晶してしまった。

将は、聡のネックウォーマーを目のすぐ下までずり上げた。

「すぐそこが避難小屋だからな、このスキー板使っていい?」

将は聡のスキー板を手に取った。

「何に使うの?」
「こうやって、」

将はスキー板を雪に斜めにしっかりと突き刺した。

「目印にしないと、方向がわからなくなる」

吹雪に前髪をなびかせて、将は白い歯を見せて笑った。

見ると聡の手を取って将が歩く方向には、横殴りの雪とまっ白なガスの中、かすかに、将のスキー板が斜めに突き刺さっているのが見えた。

将は、聡のところまで来るのに、元来た方向に向けてスキー板やストックを突き刺して、自分を見失わないように工夫してきたのだ。

何せ視界ゼロ、といっていいほどの状況である。

「板の数は多いほうがいい」

将は聡の手を取って、見えていた板のところまで歩いた。それはわずか2m足らずの距離だった。そこで将は目を凝らした。次の板を探しているのだ。しかし見つからない。少し離れているのだろう。

将は聡の手を握ると、

「絶対に足をそこから動かさないで。万が一のためにスキー板を刺しておけ。いいな」

と聡に言い聞かせ、自分は聡の手を握ったまま、大きく一歩踏み出した。聡の体も大きくそっちへ引っ張られる。将はそこでしばらく目を凝らした。

目印の板はなかったらしい。将は聡の手を握ったまま、横にもう一歩進んでまた目を凝らす。

「あったぞ……あっちだ」

将は聡の手をとってさらに進んだ。それを何度か繰り返して、ようやく避難小屋に着いた。聡がうずくまっていたところから避難小屋まではたったの10mあまりだった。

コンクリート製の避難小屋は、思ったよりずっと狭く、暗い内部には壁に沿ってベンチが作りつけられているだけの簡素な作りだった。いちおう明かりとりの窓はあるが、この雪であまり役割を果たしていないようだった。

凍り付いて開かなくなるといけない、と将が開け放しておいたという出入り口のドアからは、雪が吹き込んで中にまで雪が積もっていた。

そんな場所でも、雪と風の吹きさらしの外に比べると、天国と地獄ほどの差があった。

聡は凍って縮こまっていた肺が、溶けたかのように息を吐き出した。暗がりに吐く息が白く立ち上るのを見て、逆に暖かさを感じるほどだ。いままでは吐く息の白さもわからないほどだったのだ。

将は、ドアのところに凍りついた雪をガシガシとスコップで削って、ドアを閉めようとしている。

「誰も、いないの?」
「うん。俺一人だった。……すっげー心細かった」

将は、寒さでやや赤くなった鼻をすすると、少し照れたように笑った。

「……将」

聡はスコップを使う将に後ろからしがみついた。

「あたし、本当に死ぬかと思った……将が来てくれてよかった」

将は、背中でドアを押さえるようにすると、聡を受け止めて、もう一度抱きしめる。

抱きしめられた聡は自分から、将の頭に腕を伸ばして、彼の唇に自ら押し付けるように自分のそれを重ねた。それは冷えびえとした空気の中、本当に温かかった。

お互いの熱い命をむさぼるように、柔らかな唇を重ねる。

外では雪と風がビュービューと音を立てて、それがときどき将が背中で押さえるドアをがたがたと揺らす。急速に避難小屋の中は暗くなってきた。

「アキラ……、アキラは俺を迎えに来たんだろ?」

将は唇を離すと囁くように言った。

「……そう。あれ……何で知ってるの?」
「メール見た」

「メールって、携帯電源切ってたよね」
「切ってないよ」

と答えて将は、考える。

「……あー、でも寒いからバカになってたかも」

そういえばさっき、聡の携帯も使い物にならなかった。

「暖めたら使えるかな、アキラ携帯出して」
「将の携帯は?」

「リフトの上でメールチェックしてたら落としちゃった」
「うっそー!」

聡は一瞬絶句したが、なんだか笑いがこみ上げてきた。暗がりの中、二人、顔を見合わせて笑う。

聡の携帯はウェアの中で暫く温めると生き返った。表示を見ると16時30分になろうとしていた。

とりあえず多美先生に連絡を入れる。

「古城です。鷹枝くん、見つけました。……今一緒に山頂の避難小屋にいます。……ええ山頂。ええ、そうなんです。無事ですけど……、視界が悪くて降りられないんです……」

最初はっきりとしていた聡の声だが、どんどん沈んでいくのがわかる。

「……わかりました」

携帯を切った聡に、将は即座に問い掛けた。

「何だって?」
「強風で頂上のリフトもゴンドラも止まってるんだって」

聡はため息をついて携帯を下ろした。

「いちおう救助を頼んでみるっていってたけど、たぶん風と雪がおさまるまで無理だと思う……」
「それっていつまで?」
「さあ……」

将は『貸して』と聡の携帯を奪った。

「ちょっと、連絡手段これだけなんだから、電池大事にしないと」

と聡は言ったが、将は聡の携帯で気象情報をチェックしているようだった。

「ガーン」

将はベンチの後ろの壁に寄りかかると、聡に投げるように携帯を返した。

「前線の通過で明日未明まで、ところにより風雪の強い状態が続く、だって〜」

聡も携帯の画面を見た。

こんな山の上はまさに『ところにより』の『ところ』に該当するのだろう。最悪、ここで夜明かしをしなくてはならない。

外にいるよりはマシだが、暗くなるにつれて、ここもしんしんと冷え込んできている。さっきは温かく感じた、吐息の白さだが、暗がりに立ち上るそれはいかにもさむざむとしていた。

「将、寒くない?」
「大丈夫。アキラは?」

本当は少し……というよりかなり寒い。だけど、まだ我慢できる、という意味で

「大丈夫」と聡は答えた。

だが、この我慢がいつまで続くかは……明日朝まで持つかどうかはまるで自信がなかった。たぶん将も同じような状態なのだろう。

あいかわらず、風でドアがガタガタと音をたてている。

陽はとっぷり暮れたようだ。もうお互いの顔も判別できないほど暗くなってしまった。

「お腹、すかない?」

隣にいる将の存在を確かめようと、聡は訊いた。

「大丈夫だよ」

将は聡を安心させるべく、肩を抱き寄せた。こうすると触れ合う面積が増えて、少しは温かい。

「まっくら」

黙ると寂しいので、聡はぽつりと呟いて頭を将のほうに傾けた。

「うん。まっくら」

将は答えながら、聡の頭に自分の頭をもたれかけた。

真っ暗で寒さは徐々に厳しくなってきているのに、将のぬくもりを肩に感じる聡は、あまり怖くなかった。それより将と二人きりの時間がいとおしく、嬉しくさえ感じる。

「アキラさあ」

将が口を開いた。

「なあに?」
「今朝、なんだか怒ってなかった?」

「……そうだったっけ」
「うん。なんか俺のこと無視してた」

そういわれて聡は、昨日から今朝にかけてのことを思い出した。

瑞樹が妊娠したこと、そしてお腹の子は将の子、と聡に告白したこと。

とりあえず生命の危機を脱して、安心したせいか、消えかけていた不安と疑問が、再び燻り始めた。聡はそれを悟られたくなくて、問いに答えずに、新たなる問いで返した。

「それより、将、どうして講習の途中で抜け出したりしたの?」

将は答える前に聡の肩を抱く手に力を込めた。

「だから、それだよ」
「何よ」

「アキラが俺のことを無視するから、腹いせに」
「んもぉ~。心配させてー」

聡はウェアに包まれた将の腿を軽く叩いた。

「俺だって、スッゴイ心配したよ、アキラの変な態度。……でも、抜け出したらきっとアキラが探しに来るとおもったんだ」

将はポケットに突っ込んでいた手を出して、腿を叩く聡の手を握った。

「アキラ……」

将は聡の肩をぐい、と引き寄せた。

「またキスしたくなった」

と囁きながら、暗闇の中、まるで見えるように聡の唇に自分の唇を重ねる。深く舌を挿し入れようとしたとき、聡が顔を逸らし、唇が離れた。

「……どうしたの」

将は聡の肩を抱き寄せて訊いた。ベンチに並んで腰掛けたままだから、体をひねるようにしてようやく抱きしめている。

聡は将に身を預けたまま、息を潜めている。

ドアを叩く風の音が少しだけ激しくなった。

「アキラ、俺、何かいけないことした?」

朝と同じく、優しく安定した将の声。聡は息苦しくなった。何もかも訊いてしまいたい。

――瑞樹のお腹の子は……?

一番最悪な答えを想像して、将の腕の中で、聡は身震いした。

「アキラ、寒い?」

将が気を遣ってくる。聡は即座に首を振った。

「アキラ、なんでも言えよ」

将は聡の頭を、ニット帽ごしに撫でながら、

「ね」

と耳元で囁く。暗闇の中、吐息はよけいに耳を敏感にしびれさせて、聡は将にしがみついた。

ずいぶん時間がたって、聡はようやく口を開いた。

ベンチに横に並んだまま抱き合うのは体がねじれて少々つらい体勢だが、二人ともそのままでいた。

風はあいかわらずひどいらしい。ときどきドアのすきまから風に混じって雪が入ってくるらしい。

「将……」
「……なに」

あいかわらず優しい声は暗闇さえも柔らかいものにする。

「将……、もし……、もしね。私がいなくなったらどうする」
「探す」

将の答えは、即答といっていいほど反射的だった。

「どこを」
「そうだね……世界の果てから新聞の陰まで」将の答えには笑いが含まれている。

「新聞の陰? 何それ?」

突拍子もない答えに、聡は将の胸に埋めていた顔を起こして、暗闇の将の顔があるあたりを見ようとした。だが、もちろん真っ暗で何も見えない。さっきは不透明なまっ白だったが、今度は真っ黒。

だけどどこかで透けているのではないだろうか、と間近な将の声に期待してしまう。

「歌でさ。あったじゃん。『そんなところにいるわけないのに』とかいって探すやつ」

ああ。『中華料理』の人か、と聡はそのミュージシャンがわかった。

「あと漫画で、彼女が小さくなってしまう病気になるってやつ、あったろ。俺、アキラが小さくなっても、すぐに見つけ出してやるよ」

将は、微笑んでいるようだ。声だけで漆黒の闇に将の笑顔が見えるようだ。

「もう……」

といいながら、聡はこんな状況なのに、あったかい毛布にくるまるような、ほのぼのとした幸せを感じた。

「じゃあね。……私が死んだら?」
「後を追う」

「……」

聡は、せつなくなって、もう一度、将の胸に顔を埋めた。

さっき吹雪の中で思った、雪に埋もれて死んだ自分にすがる将のイマジネーション。

将は輝くような白い雪の上に、真っ赤な血を流して、聡と共に斃れるのだろうか。

「死んじゃだめ」

聡は小さく呟いた。すると将は

「アキラがいない人生なんて、生きる意味ない」

と言い切ると、聡を抱く腕の力をいっそう強めた。

「じゃあ……私が将を裏切ったら?」

将の腕の力に締め付けられそうになりながら、押し付けられた胸の中で喘ぐように、聡は最後の問いを口にした。

顔が見えない漆黒。凍るほどの寒さ。ある意味、危険な問いなのに、将は

「俺のアキラがそんなことするはずがない」

ときっぱりと言い切った。

聡は将の胸の中で、目を見開いた。そのまま顔をあげる。暗闇の中で、将がまっすぐに自分を見つめている。それがわかった。

「将……!」

聡は将に強くしがみついた。

「ごめんね……、ごめん」

聡は、瑞樹のことで、将のことを疑った自分を詫びたのだが、将は聡のこの言葉に当惑したようだ。

「アキラ、俺を裏切ったの?……まさか博史と?」

腕を抱く力が少し弱まった。心細そうな声。

「あ、違う、そうじゃなくて……あのね」

聡は、そのまま将の胸から顔を話すと、また隣に同じ向きで座りなおした。寒い中、長いこと、体をひねって抱き合っていたので、少しあちこちがこわばっている。

「あのね……、葉山瑞樹さんが妊娠してるんだって」

将はだまって訊いているようだ。闇に隠れて将の表情はわからないが、もう確認することもないだろう。

聡は将を信じている。

「……3ヶ月だって。葉山さんは、将の子だって言ったんだけど……私は嘘だと思ってる」

将は黙っている。