第113話 聖女

 
忘れてしまったが、いい夢を見ていた。

そこへ、コーヒーの香りが混じった。

どこからコーヒーの香りが漂ってくるのか。それを考え始めたとたん、ぱちん、とはじけるように将は眠りから覚醒した。

横たわったまま天井を見上げる。

――ああ、そうだ、やっと退院してきたんだ。ここはアキラの部屋だ。

――アキラ? そうだ、オレ、ゆうべ……。

その、感覚が将の体に鮮やかに蘇る。

将は、体を起こして、キッチンのほうを見て、次に、自分の体を確認する。寝巻きは着ている。

あれは、夢、だったんだろうか……。と将は半信半疑になった。

「起きた?」

聡はちょうどコーヒーをいれながらこっちを振り向いたところで、目が合う。

将の脳裏に、ゆうべの生々しい記憶が鮮やかに蘇った。絶対に夢じゃない。

しかし、聡のほうは、なんにもなかったように、

「おはよ。ちょうどコーヒーが入ったよ」

と将に声をかけてくる。頬が輝いているような、とびきりの笑顔だ。

そしてそれは、まるでゆうべの淫らなことが、将一人の夢だったかのように思わせるほどの爽やかさだった。

「あ、うん」

動転した将は松葉杖なしで歩こうとして、

「いててて」とベッドに再び座り込んだ。

「大丈夫?」

聡が駆け寄ってくる。

「大丈夫……」

と答えながら、将は聡の口元を見てしまった。ゆうべの……将のやましさの原因になっている場所。

それはたぶん、すっぴんだと思うが、健康的なバラ色だった。弁当屋にいるときの聡の唇がよくこんな色だった。

「着替える?それともしばらくそのままでいる?」

そういう聡は、もう着替えていた。今日は髪を束ねて、ロングスカートを穿いている。

「しばらく、そのまま……」

将はぼうっとしていた。

まだ信じられない。聡があんなことをするなんて。しかも自らすすんで。

もちろん、将は、それまで相手にした大勢の女からそれをされたことがあった。

たいていの男がそれを好きなように、将もそれが嫌いではない。

だけど、まだ寝てもいない聡が、いきなり、あんなことを……。

聡は

「もう、遅いから、ブランチにするね」

などといいながら、将に背中を向けて目玉焼きだかを焼いているようだ。

将は、聡のことをもちろん処女だとは思っていない。

だけど、将のなかの彼女の位置付けは、聖女に近いものがあったのだ。

穢れた自分自身に対して、聡は手を差し伸べてくれる聖母のように優しく、かつ冒し難い存在でもあった。

体も大きく力も強い将だから、聡を無理やり抱くことぐらい、どうってことない。

何度となくあったチャンスにも、それを敢えてせずに、聡の体を抱きしめるだけにとどめていたのは、そんな聡に対する崇拝のような感情、というのも大きい。

手の中でそっと守るべきものでありながら、同時に崇拝するべきもの……隠れキリシタンが持っていたというクロスやマリア観音のような存在に近いかもしれない。

だけど、ゆうべの聡は違った。

そして、聡によるそれは、とても、よかった。

とろりとした温かい液体に包まれるような……将のことを慈しむような愛撫。

だから、将は、始まってまもなく、耐えられずに放出してしまったのだ。聡の……口の中に。将はあわてて謝った。

しかし、聡はそんなことは気にならないように、優しく微笑んで将を抱きしめたのだ。

それは……再び聖女に戻った聡だった。

本当に、聡がそんなことをするとは思わなかった。

将にとってそれは、とても嬉しいことのはずだったのに、そして発散になったはずなのに、なぜか心にもやもやしたものが残った。

「ハイ。ブランチできたよ~」

聡は目玉焼きとサラダとスープをローテーブルいっぱいに置いた。

目玉焼きは黄桃缶のような濃い黄色、おまけに、つやつやとした半熟で、とても旨そうだった。

「ふうん。将も目玉焼きは塩コショーなんだね」

「……うん。パンのときは、ね」

将が使い終わった、粒コショウと岩塩が入った容器を聡は受け取って、ガリガリと自分のそれにかけている。

しかし将は、砕かれて降りかかる塩コショウを見るふりをしながら、聡を盗み見てしまう。

なぜか、今朝の聡はすごくきれいになっているように見える。

しかし、将がさっきから、いや昨日の真っ最中から、急に気になっているのは、聡の過去だった。

何人にそれをしてやったのだろう。そして、いつ覚えたのか。

「スープ美味しくなかった?」

聡が首をかしげている。なんだかそんな仕草も異様に可愛く見えてしまう。将はどうやら、ブスっとしてスープを飲んでいたようなのだ。

「あ、いや、うまいよ。すっごく」

「ふふ。そうでしょ。実は昨日のぉ……」

将は昨日という言葉にドキッとする。

「将が剥いた大根とか人参の皮を入れたんだよ」

将はほっとした。ひどく……疲れが残っている気がした。

 
 

 
朝食のあとも、一緒の部屋にいるのに、将はロクに話もしないで、ずっと聡の姿を目で追っていた。

聡は食器を洗ったり、洗濯をしたり、掃除をしたりと忙しく家事をこなしていた。

「手伝うよ」

将は声をかけたのだが

「その足じゃ、何もできないでしょ」

といなされてしまった。

だから将は、悶々と聡の過去について思う暇をつぶすことができずにいる。

「今日のさ、夕食だけど」

聡が洗濯を干しながら将に提案した。

「餃子にする?それだったら一緒に包めるでしょ」

しかし将は聡の方を向いたままぼーっとしていた。

「将?」

聡が洗濯を干す手をとめて将を見る。

「……」

「将、どうしたの?」

視界の中の聡がこっちを向いて将の意識はようやく戻った。

「え、あ、ああ、何?」

あわてて取り繕う。

「今日、餃子一緒に包まないかって聞いたの」

「ああ、うん、……うん、包む」

「じゃあ、これ終わったら買い物いってくるね」

「うん……」

いつもの将だったら、俺も行く、というところだが……。

聡もまた、ひんやりと固く湿った、青い空のような香りがするタオルを干しながら昨夜を思い出していた。

将の態度が朝からぎこちないのは、そのせいだろう。よっぽどびっくりしたのか。

聡自身も自分にびっくりしているぐらいだから。

まだ、最後の一線を越えたわけではないが、17歳の教え子相手であれば、もう完全な犯罪ゾーン。いや、そもそも、正月に上半身裸で抱き合ったのも、ヤバイエリアだった。

でもそのときは、聡は、まだ受身だった、といえる。

しかし、昨夜は……聡は自分から将自身を剥き出しにして、口にしてしまったわけで、その積極的な行動は17歳の少年に対しては立派な『淫行』という名の犯罪だった。

だけど、不思議に聡は後悔していなかった。

将が、果てたとき……世間に対して重大な秘密を持ってしまったのに、そして聡自身が慰められたわけではないのに、口をゆすぎながら、なぜか爽快感が聡を包んだ。

しきりに謝る将を抱きしめて、彼が眠りにつくまで、寄り添った。

将の寝息を聞きながら、抑圧されたものが、解放されたような、快活な気分になっていた……。