第115話 久しぶりの登校

 
月曜日の朝がやってきた。

あわただしさを予想した聡は、いつもより30分も早く起きた。朝の支度が二人重なった場合の待ち時間のロスを考えたからだ。

洗面所とトイレが一緒になった狭いバスルームは、二人で暮らすのにはとても不便だ。

しかし、幸いといっていいのか、将はいつまでも寝ていた。

 
 

 
さすがに、ゆうべは土曜の夜のようなことはしていない。

ただ、将があまりにも乞うので、聡は将と手をつないでベッドで横になった。

将が寝付くまで、と思っていたのだが、将の手の温かい感触に、聡のほうが先に眠ってしまったかもしれなかった。

気がついたときは夜中の3時だった。静かな夜に、すうすうと将の安らかな寝息が響いていた。

聡は幸せのあまり、真っ暗にはならない東京の夜に浮かぶ、将の横顔の輪郭をずっと眺めていた……。

 
 

 
昨日のブランチよりもかなり簡単に朝食をつくると、聡は将を起こした。

「将、今日学校でしょ、もう起きなくていいの?」

「ん……、もう少し……」

といって、あおむけになった顔に布団を自分でかぶせた。

「もう7時30分になるよ、あたしはもうすぐ出ちゃうよ」

8時40分の始業には8時20分にはここを出る必要がある。職員の聡はさらに30分早い出勤だ。

「うん……。タクシーで行くからいい」

かぶった布団の中からくぐもった声が聞こえる。

「んま!あきれた」

「だって、足がさあ……」

将は布団から顔をだした。ほんとうに眠そうな半開きの目だ。

たしかに、松葉杖でバスに乗るのはつらそうだ。贅沢だが仕方がないかもしれない。

「将、じゃあ、しばらくタクシー通学すんの?」

「うん」

「あっそ」

さすがボンボンだ。まあお金は心配ないのだろう。

「あたしさ、今日、補習のあと職員会議あるから、将より遅いはずなんだよね。悪いけど、将、今日はお弁当屋さんで何か買ってきておいて。私は野菜弁で」

「んーー、わかった」

将は布団の中で伸びをすると

「もう、出かけるの?」

とやっと目を見開いて聡を見た。髪はいつもよりさらにボサボサで、寝起きでうるんだ目は赤ん坊のようだ。

「うん。今日はいろいろやることがあるから早めに出る」

「忘れ物」

「え?」

将は、布団に入ったまま、自分の唇を指差した。

「えー、もう口紅つけちゃったよ」

「いいから」

聡は、将の唇に、素早くキスした。素早く……のつもりだったが、将が布団の中から腕を伸ばしてきて聡の体を抱き寄せたので、本格的に唇を交わすことになった。

――将でも髭のびるんだ。

将の頬にふだんは、髭の気配を感じることはなかったが、今朝はわずかにざらつく感じがあった。

このキスで5分オーバー。

聡はあわてて、もう一度口紅を塗りなおすと

「じゃ、鍵ここ置いとくから」

とあわただしく出勤していった。

将は、そんな聡を微笑んで見送ると、大きくあくびをした。

「すっかり、目が覚めちゃったよ~」

と上半身を起こした。ローテーブルの上には、

『トースターで温めて!』というメモと共にハムチーズのトーストが置いてあった。

 
 

 
二人の同棲はもちろん秘密である。

教師と生徒で、登下校に時間差があるから、『同伴登校』でバレるということはまずない。

クラスでは井口だけに、将が聡の家に転がり込んでいることを話している。

他のユウタやカイトなどには話していない。彼らから女子に伝わる可能性があるからである。噂好きの女子に漏れると、学校中に広まり、それは教師たちにも知れることとなるだろう。

将のマンションを貸している瑞樹にも、将の居場所自体は教えていない。

もう、何もしないとは思うが、やはり聡の家にいることが彼女に知れると、何かと弱みになると危ぶんだからである。

しかし、そんな心配は無用だった。瑞樹自体が先週からずっと学校を休んだままなのだ。

将が久しぶりに登校しての月曜のHRが終わると、井口らが将の席に集まってきた。

3学期になり、席替えをして、将の席は教卓のまん前ではなくなってしまった。が、闇取引をして、なんとか前から2番目のはじっこの席を確保した。

それでも、聡から少し遠いのが不満だが、窓側なので条件はまずまずだ。

ちなみに、井口はこの月曜から髪が黒くなっていて、将を始め、クラスメートの皆を驚かせた。ピアスも減っている。

「どーしたのよ、いったい。普通の高校生みたいじゃん」

と将が茶化しながら訊くと

「いやー、バイトでさあ」

と井口は黒髪の頭をかきながら、照れて答えた。

ダンスのレッスンを本格的に始めた井口は、そのレッスン料金のためのバイトを始めたのだ。

「何してんの?」

「……パン屋」

「パン屋ぁ? らしくねー!」

将はひゃひゃひゃと笑ったが、井口は『うるせぇ』と顔を赤くして下をむいた。

なんでも、パン屋のバイトは朝4時から7時までだから、夕方はレッスンに費やせるのだという。家の近所なのも都合がいいらしい。

「なーる……」

将はなんだか急に井口が大人になった気がした。

「がんばれよ。こんどパン買いにいくからサ」

将は励ましながらも、自分のやりたいことを見つけて邁進する井口が、とてもうらやましかった。

 
 

 
夕方、将は、学校帰りにタクシーで弁当屋に寄った。

大学生のふりをしている弁当屋に制服で寄るのは暴挙だが、冬だということもあり、ダッフルにマフラーをつけているから、たぶんわかるまい、と将は強気でいった。

「あら、山田さん、足はどうしたの」

カウンターにいたおかみさんは、すぐに将の腋にはさんだ松葉杖に気付いたものの、その裾が制服であるということには、案の定気付かないらしい。

「ハァ。スキーで転びまして……」

「おやおや、まあまあ……。気をつけないと」

おかみさんは、悲痛な声を出した。

「今日は野菜弁当と、カルシウム弁当、それとフライ盛り合わせをください」

と将は注文した。おかみさんは奥にいるご主人に向かって注文を繰り返した。

「で、アキラちゃんと会ってるの?」

将は思いがけないところで聡の名前を聞いて、思わず頬がゆるんでしまった。

「え、ええ……毎日」

「ニヤニヤして気持ち悪いねえ、なんだい?」

おかみさんはご飯を詰めながら訊き返して来た。

弁当屋に暴露しても問題はないだろう、と将はつい口走ってしまった。

「あの、オレとアキラ、一緒に棲んでるんです」

「ええーっ!」

おかみさんは、しゃもじを取り落としそうになるほど驚いたらしい。さらに、主人も菜箸をもったまま、カウンターに駆け寄ってきた。

深い皺の中、眼窩から飛び出しそうなほどに目をむいている。

「な、何! 聡とお前がっ?」

殴るような勢いで詰め寄ってきた。白髪交じりの眉が激しく上下する。

「は、ハイ……」

将は思わずたじたじとなった。

「こうなったら、セキニンは、ちゃんと取るんだろうな!」

「は? セキニンですか?」

「ケッコンだよ!結婚。嫁入り前の娘だろ、聡は! いずれ結婚するんだろうな!」

結婚。聡と結婚する。夫婦になる……家族になる。

弁当屋の主人にすごい剣幕で詰め寄られながら、将の頭には急激に、フワフワとこの甘く厳粛な単語が舞い始めた。

 
 

 
聡は補習後、事務仕事に拘束されていた。

日いちにちと夕闇の訪れは遅くなってきているが、もうあたりは紫色の闇に物の輪郭がぼんやりとしている時間だ。

修学旅行や風邪引きでたまった分がようやく片付いて、平常どおりになってきている。ホッとしているのは、それがなんとか終わりが見えてきたというのともう1つ。

教室で将に対して、なんとか平常どおりに接することができた……ということ。

一緒に暮らしている恋人同士が、教室では教師と生徒という関係を演じなくてはならない。それを無事演じきることができた、ということに聡はひとまず安堵していた。

ちなみに、修学旅行中、聡と将が二人きりで避難小屋で一夜を過ごしたことは、同行教師らに緘口令が敷かれていた。

そのことについて表向きは、将が単独行動をして怪我をしているのを聡は見つけただけ、ということになっている。

よけいなことが校長や教頭、他の教員に知られて、聡が困った立場に置かれないように、という多美先生の配慮なのだ……。

と、そのとき携帯が鳴った。

表示を見ても、番号に覚えはない。しかし、04で始まる市外局番に不安があった……。