第145話 屋上

「松岡が屋上に、屋上にのぼってる!」

「えっ!」

井口の取り乱した様子は、ただ単に『のぼっている』だけではないことは明確だった。

みな子も兵藤も井口が行くほうへ走った。将もステッキをつきながら視聴覚室を出た。

近くの靴箱から、上履きのまま外へ踊り出る。

屋上にのぼった、ということは。将たちは、当然、最悪の行動を想像していた。それほど、松岡は傷ついたのだろうか。

「やめろー」と上に向かって叫んでいたカイトが、将たちに気付いた。

外には……おそらく、校舎の外にある学食に、昼食を食べに行こうとして見つけたのだろう、十数人の生徒が上を見上げている。

その騒ぎが伝わったのか、校舎から、また学食から次々に生徒たちが出てきて上を見上げる。

将らも上を見上げた。

正午近くの太陽は、ちょうど将のいるあたりからは、松岡のすぐ後ろで輝いているように見えた。

肝心の松岡は逆光で見えにくい。将は手をかざして、目を細めた。

松岡は……屋上、正確に言うと屋上よりさらに高いところにいた。

3階建ての校舎の屋上の一番端に水道タンクがある。

どうやって登ったのか、松岡はその上にしゃがんで下を眺めていた。逆光で、表情までは見えない。

下では感じないが、上では風が結構強いらしい。

松岡の、そう長くはない髪の毛でも、風に煽られて形を変えている。

タンクに手すりはない。松岡がもし飛び降りる気なら、何も阻むものはないのだ。

「いつから、あそこに?」

将は井口に訊いた。

「わかんない。俺らも今気付いた。だけど3時間目、松岡のやつ、保健室に行くとかいってて」

井口は早口で答えた。

「危ないぞー!」

と叫んで止めようとする上級生もいたが、たいていの生徒は、上にいる松岡を好奇心で見あげているようだった。

騒ぎにやっと気付いた教員が一人、二人出てきて屋上を見上げた。

「井口っ!カイト!」

「おう」

将と井口、そしてカイトは、屋上へ続く階段へかけ登った。

将はまだ走れないので半ギプスの足をひきずるように一歩一歩登る。

こんなときに半ギプスの足はもどかしい……将は、井口とカイトを先に行かせながら、

「井口、鍵持ってる?」

と下から訊いた。

「持ってる」と叫びながら井口は階段を駆け上った。

ふだん、屋上へ通じる鉄のドアは鍵が掛かっている。

だが、将ら不良は、こっそりと鍵を盗んで、合鍵をつくっていた。

そして気の進まない授業のときなど、しばしば屋上に登っては、タバコを吸うなどして暇をつぶしていたのだ。

将はやったことはないが、ここできわどい逢引をする者もいるらしい。

できるだけ将は急いだが、やっと屋上のドアのところにたどりついたときに、

下から

「キャー」「わー」

という悲鳴がいっせいに波のように起こった。

――まさか、やってしまったのか。

屋上に出た将に、思いのほか冷たい突風が『ゴッ』っと吹き付ける。

タンクはドアの後ろのあたりにある。振り返った将は、ほっとした。

松岡はまだタンクの上に立っていたからだ。

どうやらしゃがんでいたのが、立ち上がったために、悲鳴が起こったらしい。

「やめろ!松岡」

井口がタンクの上に向かって叫んでいる。彼は実はあまり高いところが得意ではない。これ以上は登れないだろう。

カイトが、タンクに固定された鉄梯子を登っているところだった。

「く……くるな」

鉄梯子を登りつめて同じ高さにやってきたカイトに、松岡が震え声で制止する。

将も、ステッキを捨てて、鉄梯子を両手で引き寄せるようにして、ギプスではないほうの片足だけで一段一段登る。

ギプス足で、タンクの上に登ってきた将を見て、松岡は驚き、唾を飲み込むのがわかった。

もう、朝のように、泣いてはいないようだった。

しかし、紙のように青ざめた顔に、光が失せた目がやたらギョロッとし、異様な様子だった。

下にはかなりの生徒、そして教員も遅まきながら全員外に出てきたようだ。

ざわめきと、ひときわ通る多美先生の声で

「バカな真似はやめるんだ!」

という叫びが聞こえる。

「松岡、そんなところから落ちても、死なないのはわかってるよな」

将は、松岡に語りかけた。

タンクの上は風がいっそう強い。将の髪も風に踊っているのが自分でもわかる。

松岡は肩をふるわせたまま、それでも少しずつタンクの縁へとじりじり移動する。

「……せいぜい、4階建ての高さだ。怪我をするだけで死なない」

将は、ギプス足をひきずりながらじりじりと少しずつ松岡とのあいだの距離を縮めた。

風の冷たさが目にしみて、将は思わず目を細める。

カイトは、将と違う方向から松岡に同じようにアプローチしている。

「……でも打ち所が悪かったら、最悪、一生動けない体で生きないといけないかもしれないんだぞ」

松岡はうつむいて目をギュッとつむった。

細身の松岡など、そのまま吹き飛んでしまいそうな風が吹き付けてくる。

「あんなヤクザ、いやヤクザ以下のやつの言うことなんか、真に受けるなよ」

とカイトが一生懸命言う。むしろカイトのほうが泣きそうな顔をしていた。

「そうだよ……」

と将がカイトのセリフに同意しようとしたそのとき。

「飛び降りたきゃ、飛び降りればいい」

という声が背後からした。

京極だ。

京極はいつのまにか、屋上にのぼってきていて、タンクを横から見上げていた。

「死にたい奴はとっとと死んだらいい。クラスのお荷物がつらかったら、死ぬのは今のうちだぞ」

と追い討ちをかける。

将は息をするのを忘れるほど激しい憤りを感じた。出来る限りの鋭い視線で、京極を上から睨みつける。

京極は、その固めたパンチパーマもろとも、吹き付ける風にも不動だった。

松岡が、閉じていた目をあけて、そのまま眉ごとゆがめた。歯を強く噛み締めているのが見える。

京極の声は、決して大きな声ではなかった。屋上にいる者だけに聞きとれる程度のボリューム。

下から見たら、京極がタンクの上にいる松岡を説得しているように見えているはずだ。

松岡は、下をちらりと覗きこんで、うつむいた。

将は、そんな松岡を見て、飛び降りられないんだ、と少しほっとした。

時間をかければ、きっと止めさせることができる。

と希望を持った。

ヤクザ教師も、踏みとどまらせるために敢えてひどい言葉を投げたんだろう、と将は少しだけ京極を見直した。

だが、2秒後。

「どうした!まだ飛ばないのかァ!」

と再び京極の怒号が飛んだ。

「思い切って死ぬ勇気もないのか、このヘタレがヨォ」

と、小馬鹿にした調子で続ける。

松岡は、ゆっくりと目を見開くと、初めて、キッと京極を睨んだ。

次の瞬間。

そのまま、身を空中に躍らせた……。

「あっ!」

カイトの声を境に音が止まったように、何も聞こえなくなった。

将は、文字通り息を飲み……声がでない。

……まるでそれはスローモーションを見ているようだった。

松岡は、タンクを蹴り出して、前方の空中に飛び立ち……

その細くて華奢な体はそのままふわっと飛んでいきそうに見えたが、

やがて重力に引きずり込まれるように将とカイトの視界から消えた。