第161話 アネモネ

カーテンの隙間から、もう高くなった陽射しが差し込んでいる。

目を覚ました大悟は、隣で寝ている瑞樹の顔を見ていた。

青白いような色白に、とび色がかった髪。

……もともとの瑞樹の髪の色は生まれつきこんな明るい色なのだ。ショートカットは首を長く見せている。

こうして目を閉じているとハーフの少女のようにさえ見える。

ハケンを入れなかった日曜日。ひさしぶりに大悟と瑞樹は寝坊を楽しんでいた。

ちなみに、このマンションの部屋の主である将は、昨日から聡の部屋に泊まっている。

視線を感じたのか、瑞樹はゆっくりと目を開けた。

「ん……大悟?」

寝起きのせいかうるんだ瞳で大悟を見る。

「おはよう。瑞樹」

「……おはよう」

瑞樹は自分から大悟に腕をからめてきて、軽く口づけをした。

しかし、大悟は、それを返すこともなく、瑞樹の顔をただ優しく見つめた。

「もう起きる……?」

瑞樹は上目遣いで大悟に訊く。低血圧で貧血気味の瑞樹は朝が弱い。もう少しこうやって寝転がっていたいのだ。

大悟は、優しい目で瑞樹を見つめたまま首を横に振り

「もう少しこのままでいよう」

と瑞樹を抱き寄せた。

瑞樹は嬉しげに大悟のTシャツの胸のあたりに顔をうずめた。

「なあ……。瑞樹」大悟はポツりと呟やくように瑞樹を呼ぶ。

「ん?」

瑞樹は目を閉じて、大悟の胸に顔をよせたままだ。

そんな瑞樹の髪を大悟は撫でながら小さな声で、でもはっきりと言った。

「東京を離れないか」

瑞樹は思わず体を起こした。大きな瞳を見開いて大悟を見る。

「どうして……?」

その問いには答えずに、大悟は

「嫌?」

と訊きながら、瑞樹を見つめる。

瑞樹は自分を見つめる大悟の瞳の深い色をしばらく見つめ返したが、俯いた。

「私のためだよね。私が……クスリをなかなかやめられないから……」

瑞樹はつぶやくとまた大悟の横に自分の身を横たえた。

「東京を出て、どこに行くの?」

大悟は自分の傍らに横たわる瑞樹の肩を撫でながら、

「滋賀に……カップルで住み込みできる自動車部品工場があるんだ」

瑞樹はそっと目を閉じると

「滋賀か……琵琶湖のあるところだよね」

と呟いた。

「将と……離れたくないか」

大悟は思い切って言ってみた。

瑞樹は閉じていた目を開くと、大悟をまっすぐに見た。

「どうして……そんなこと、いうの?」

しばらく、大悟をじっと見つめたあと、瑞樹は震える声でつぶやく。そして

「将なんか……どうでもいい」

大悟にしがみついた。

だけど、大悟の胸に顔を押し付けるようにしていたのは、その表情を見られないためである。

瑞樹は動揺していた。

しかし、そろそろひきずり続けた将への想いを清算する頃だとも、自覚していた。

将への想いへの苦しさをまぎらわすために、瑞樹はクスリを使っていた部分もあるからだ……。

自分とよく似た境涯を持ち、自分を思ってくれる大悟と2人きりで、いっそ遠いところで、新しい人生をやりなおすのはチャンスかもしれない……。

しっかりとしがみついたまま、沈黙する瑞樹の髪から背中を大悟は優しく撫でていた。

それに答えるように、瑞樹は大悟の胸の中で

「滋賀でやりなおしたい……」

とつぶやいた。

 
 

卒業式が終わると、1学年分生徒が少なくなった校舎ながら、元通りの日々が始まった。

聡にとってはほぼ1ヶ月ぶりの教壇は、生徒からの歓迎をもって迎えられた。

映画や洋楽を使った英語の授業に、放課後の自主補習、金曜日の社会見学も復活することになった。

さらにこれらは、来年度から全校に取り入れようということに決まった。

特に聡がありがたかったのは、社会見学に学校の協力が得られるようになったことだ。

いままで見学先は聡の単独努力で見つけて交渉し、少ない学級予算の中から謝礼などを支払っていたから。

聡は、教える生徒がいることに、喜びを感じ、以前よりも教師という仕事に前向きに取り組もうと気分を新たにしていた。

将は……教壇の上でいきいきとしている聡を、最初、複雑な気分で眺めていた。

聡が、自分自身以上に将のことを思っていることはわかっている。

将の未来を誰よりも案じていることも。

だけど、17歳の将には『いま』聡と愛し合うことも、大事なことだった……。

 
 

そんな3月中旬に差し掛かったある放課後。

珍しく放課後の補習に将の姿が見えなかった。

――珍しい。

聡は少し寂しく思いながら、他の生徒に個別指導を行っていた。

いつもなら、最後まで残るのはザラ、聡が業務を終えて職員室から出てくるのを待っていることさえあった。

「ちょっと、ヤバいわよ」

聡が囁くと、ことさら大きな声で

「俺センセーの大ファンだしー。センセーと帰れてうれしーなー」

と他の教師に聞こえるように言う。そして声をひそめて

「あからさまにしたほうが、バレないって」

と聡にウインクする。

「んもう……」

呆れながらも、結局、二人で何度か、夕食まで共にすることもしばしばだった。

 
 

将は、とある寺に来ていた。鷹枝家代々の墓がある菩提寺である。

もうすぐ彼岸を迎えるこの頃、日はだいぶ長くなった。

放課後のこの時間も、寺の瓦や墓石に温かい色をした日光が差している。

だが、夕方に近づくにつれ、まだ春とは思えない冷たい風が時折、将に吹き付ける。

将はこの季節には少し早い、アネモネの花束を大事そうに抱えていた。

……今日、3月12日は、若くしてガンで亡くなった、将の母・環の命日なのだ。

毎年、心でそれを一瞬反芻するだけに留めていたのだが、今年は亡くなってちょうど10年になる。

なぜか、将は母の墓に語り掛けたい気がしていた。

そんな気持ちにさせたのは、まぎれもなく聡の存在である。

――大事なひとができたんだ。

将は母の墓前にそんな報告がしたかったのかもしれない。

将がひときわ鮮明に覚えている思い出。

それは、パリの幼稚園に、フランス人に混じって通っていた頃。

クラスに好きな女の子がいた。濃い栗色の髪に青い瞳を持った可愛いコだった。

たしか名前はロマーヌだっただろうか。

おませな彼女は、黒い髪の将に「あたしの髪とおそろいね。あんたカッコいいわ」と近づいてきたのだ。

小さかった二人は、あっというまに『ろま』『ショー』と呼び合う小さな恋人同士になった。

彼女は、両親が離婚していて父親に引き取られていた。

その父親も仕事の都合で外国に行くことが多く、ロマは15区に住む祖母の家に預けられていたのだ。

そんなロマが、将に「ママンに会いたい」と言い出した。

将は、ロマの願いを叶えるべく、「会いに行こう!」と手に手をとって歩き出した。

だが、ロマのママンの家は小さな二人には遠すぎた。

結局、暗くなってもたどりつけず、さりとて家にも帰り着けず。二人は路頭に迷ってしまった。

泣き出すロマ。将も泣きたかったが耐えた。そこへ警察がやってきて二人は無事保護された。

警察にかけつけた環は将をいきなりひっぱたいた。

『将!遅くまでどこに行ってたの!心配したのよ!』

そう怒鳴った。将は叩かれた頬が痛くて思わず涙ぐんだ。

次の瞬間、環は将を抱きしめて『無事でよかった』と泣きじゃくった……。

 
 

ちなみに墓参りには白い菊、という常識くらい、将とて知っている。

だがアネモネは将の母が好きな花だった。

パリに住んでいた頃、母はいつも街角の花屋でそれを買ってきて、食卓の上に飾っていた。

日本に帰ってきてからは、父の選挙で忙しかったのと、花が高価だったので飾られる頻度はぐっと減ったが、将は特徴あるその花をよく覚えていた。

死の3日前も……7歳だった将が病床見舞いに持っていったそれを、たいそう喜んでいた。

あのときも、こんなふうな午後の遅い時間だったと思う。

病院の白いカーテン、そして白い壁がほんのり橙色がかっていたのを覚えている。

看護婦によって活けられたアネモネは午後の光の中で……病院には場違いなほどに……赤や紫の鮮やかな花弁を輝かせていた。

「将、ありがとう。とってもキレイね」

それが、起き上がった母と言葉を交わせた最後だった……。

思い出すと、今でも涙が出そうになる。だから将はなるべく何も考えないようにして歩を進める。

この寺でひときわ大きな墓石の前で将は立ち止まった。そこには鷹枝家代々の墓、と掘り込んである。

花束を捧げようとした、将はあるものに気付いて、手を止めた。

墓の前には……すでにアネモネが活けてあったのだ。

ちょうど今燃え尽きた線香からは、名残の煙がまだ立ち昇っている。

将は体ごと今来た道を振り返った。しかし誰もいない。

母がアネモネを好きだったことを、将以外で知っているのは、他にはただ一人……父の康三だけだ。

まさか。母の死に際して涙を一滴も流さなかった父が……。

アネモネの花束を抱えた将に、ひときわ強い風が吹き付けた。