第168話 赤い霧(2)

「昨夜、JR○山駅で、若い女性が新幹線に飛び込むという事故がありまして……。それはどうも状況から島さんのお連れの方らしいのです」

大悟の連れといったら瑞樹しか考えられない。

『俺がついてないと、アイツは』大悟はそういって瑞樹を迎えに行ったはずだ。

なのに新幹線に飛び込んだ。瑞樹が……。

「みず……、その女性は……?」

「即死されました」

将は絶句した。頭がまっ白になり、何の言葉も浮かばない。

瑞樹が……もう、この世にいない。

「それで、今、女性の身元を調べているんですが……」

大悟のショックが激しく、事情を聞ける状態ではないので、身元を一刻も早く確認するために電話したのだ、と鉄道警察隊の宮原は説明した。

そして将から、瑞樹のフルネームと、荒江高校の2年であるという情報を聞き出すと、手短ながら丁重に礼を言い電話を切ろうとした。

将はあわてて、自分が大悟の同居人であることを告げ、大悟が入院している病院を聞き出した。

 
 

「どうしたの?」

いつのまにか将のすぐ後ろに聡がいた。心配そうに眉が寄っている。

断片的な会話からもただならぬ事態が発生したことがわかるらしい。

「アキラ……!」

将は、思わず聡を抱きしめた。

聡は、どうしたの、という言葉を飲み込む。

抱きしめる寸前の将の表情から、また抱きしめている腕の力から、とんでもなくショックな出来事が将を襲ったということだけがわかっているから……。

しかし、ひとしきり聡を抱きしめると、将は力を緩めて、聡に向かい合った。

「アキラ、俺、今日学校休む。……大悟を迎えに行かなくちゃ」

「大悟くんに何かあったの?」

将の悲愴に歪んだ目は聡の瞳を見つめていたが、やがてさらに哀しげに目を伏せると

「瑞樹が……事故にあったらしい」

と短く伝えた。

「え!」

聡はその黒目がちの目を大きく見開いた。

「それで……ケガしたの?」

将は目を伏せると、首を振った。

「……新幹線に飛び込んだらしい」

さらに告げられた、あまりに惨い事実に聡はただ呟く。

「ウソ……そんな……どうして」

聡は将がさっき電話しながら頭に浮かんだ疑問を、そのまま吐き出している。

朝に似合わない、どんよりとした沈黙が二人の前に横たわる。それは将のほうから破るしかなかった。

「大悟、ショックで入院してるらしい。俺、すぐに迎えに行ってくる。それと、たぶん大悟の代わりに警察にいろいろ訊かれると思う。だから……」

「あたしも付いていかなくていい?あたし、いちおう葉山さんの担任だし……」

「いや、いい。学校へはあとで警察から連絡があるはず。……それにアキラ、今日社会見学だろ。人気漫画家にアポが取れたって、言ってたじゃん。それは中止できないでしょ」

将の言うとおり、今日は社会見学がある金曜日だ。

忙しい人気漫画家の仕事場を見学することを許可されて、楽しみにしている生徒も多いのだ。

「そ、そうだけど……」

「必要だったら、警察から学校に出頭要請の連絡があるよ。たぶん。だから聡は、とりあえず学校へ行ったほうがいい」

将は冷静に見えた。実際、判断は冷静だったのだが、聡はその心中を察した。

瑞樹は、親友の大悟の恋人なだけでなく、将とも長いこと一緒に暮らしていたこともあり、関係は深い。

将は瑞樹の死をどう受け止めているのか。

「将は……大丈夫?」

聡は将を見つめた。

「今は、俺より、大悟が心配だ。急ごう」

心配そうに覗き込む聡をよそに、将は立ち上がるとスウェットを脱いだ。幸い着替えは聡の家にまだある。

将は、瑞樹の死をまだ実感していなかった。

というより大悟の心配にすり替えて、自分を冷静に保っていたのである。

瑞樹の……死を直視するのを将自身、恐れていた。

上半身裸になった将に後ろからふわりと柔らかいものが巻きついた。

聡が後ろから将を抱きしめたのだ。

「将、車で行っちゃだめだからね……」

将の背中に囁くように聡は言った。

将を案じていることを、今はそんな言葉でしか表現できない。

偽造免許が警察にバレることの他に、不安な精神状態での運転を……聡は将もショックを受けていることを心配していたのだ。

将はいったん自分に巻きついた聡の腕をそっとほどいて向き直ると

「そんなドジは踏まないよ」

と微笑みをつくった。聡にはそれは痛ましい笑顔に見えた。

 
 

今日もよく晴れて、新幹線の窓からは春らしい少しかすんだ青空が見えていた。

復旧した新幹線に乗って、将は○山入りした。

――この駅で、瑞樹が……。

ホームに降り立った将は、そう思うと息苦しくなった。

だが、JRと鉄道警察隊の尽力のせいか、惨劇の痕跡はあとかたもなくなっていた。

降り立った人々は、何も知らないのか、それとも知らないふりをしているのか、ホームから足早に去っていく。

将は、改札を出ると鉄道警察隊を訪れた。

大悟を迎えに行く前に、まず、鉄道警察隊に顔を出してくれ、と言われていた。

わかることを話さなくてはならなかった。

東京でラッシュアワーにひっかかったせいか、思ったより時間がかかり、10時になるところだった。

 
 

ようやく将が『面会謝絶』と掲げてある病室のドアをあけたとき、大悟はベッドの上に半身を起こして静かに窓の外を見ていた。

春の光は、もうすぐ正午になることを告げながら、殺風景な病室にも爽やかに差し込んでいた。

このときには、血の付いた服は着替えさせられて、顔もきれいに拭ってあった。

「大悟……」

将は大悟の名前を呼んだぎり、何と声をかけていいか困って沈黙した。

ここに入る前に、看護士から

『いままで錯乱状態だったんです。くれぐれも興奮させないように。事故のことは一切口にしないで下さい』

と釘を刺されている。

「……将、どうしたんだ」

振り返った大悟は静かに問うた。錯乱していたというのが、まるでウソのような落ち着いた目の色だ。

「どうしたって……。お前がここに入院したっていうから……」

将はしどろもどろになりそうになるのを、何とか抑える。

「学校は?」

「休んだ」

将はそこで言葉がつまってしまった。何も見つからない。何を訊いても、大悟を傷つけそうで。

「大丈夫か……?」

間抜けな問いだと将は自分でも思った。だけどこれ以外に言葉のかけようがない。

大悟はゆっくりと頷いた。

「一緒に、帰れ……そうか?」

将の問いかけに、大悟は目をあげた。

「瑞樹は、最後までお前の名前を呼んでいたぞ」

将は思わず目を見開いて大悟を見た。大悟は静かに微笑んでさえいるように見えた。

「それはいいとして……瑞樹が、いなくなっちまった」

大悟は将を見つめて言った。将は息を飲んだ。ごくっ、という音が病室中に響くかと思われた。

「瑞樹が、いないんだ……」

将を射る大悟の目。その光はだんだん強さを増してきた。訴えかけるような目になってきた。

「大悟……、瑞樹は……」

将は大悟の目を正視できなくて、目をそらしてしまった。

「知ってるさ、それぐらい!」

急に大悟が大声を出したので、将はビクッと肩をふるわせて、一歩後ろに下がった。

「だけど……、死に顔ぐらい……、見せてくれたっていいじゃないか!最後に瑞樹に会わせてくれたって……いいじゃないか!」

大悟はベッドから立ち上がると、将につかみかからんばかりに詰め寄ってくる。

「誰かが……瑞樹を、隠しちまった」

「お、落ち着け、大悟」

将はそれしか言えない。

「将、お前からも頼んでくれ。瑞樹に、最後に一目、一目だけ、瑞樹に会いたいだけなんだ。頼む、将!頼むよ……」

「だ、大悟……」

見開かれた大悟の目を将は正視できずに、俯いた。

それを、狂気とか錯乱とか呼びたくない。大悟は……正気なのだ。

愛するひとが目の前から消えたら、こうなるのが正しいのだ。

消える。

そう。瑞樹は消えてしまったのだ。

さっき、鉄道警察隊で訊いたあまりにも惨い状況。

『瑞樹は……どうなったんですか。会えないんですか』

将の問いに、鉄道警察隊の宮原は、まだ将が高校生だ、ということもあって、遺体の状況については言葉を濁した。

ただ、『会えない』と言った。

しかし、そのあと、こんな風な説明があった。

状況から瑞樹だということは、ほぼ間違いないが、科学的に検証をする必要がある、と。

『どうやって』と食い下がる将に、宮原は、DNA鑑定という言葉を出した。

そのとき将は、新幹線の窓に映っていた、遠ざかっていく関東平野の風景を思い出した。

窓近くに目をやると、黒く後ろへ飛んでいくような電柱。

リズミカルに繰り返しびゅんびゅんと飛び退っていく電柱は、時速200キロ以上のものに乗っている証明でもある。

そして、思い出す。

何気なく見過ごしている、夏の風景を。

いつものように、ミニを走らせる将。都心を離れていく高速道路。

東名だったか中央だったか忘れたが、道路の両側を緑の山々が囲むようになると車が若干少なくなり走りやすくなる。

そこまで来ると、将はミニのアクセルを踏み込んで一気に加速する。

苦しげなエンジン音ながらメーターは120を越えている。

車が少なくなると……それに反比例するように虫が多くなる。小さな羽虫から、大きなトンボや蝶。

次々と、まるで将の車をめがけるように飛んでくる。

将はそれをいちいち、かわすわけもなく……虫たちはフロントガラスに次々と衝突し、瞬時に粉々になって吹き飛んでいった。

ガラスにたいした痕跡も残さずに、蒸発していくような虫。

時速200キロの新幹線は、瑞樹の体を、フロントガラスにあたった虫のように粉々にしてしまったに違いない。

 
 

将の目から涙が流れた。

「頼む、将!頼む、瑞樹に、会わせてくれ……」

大悟はしきりに訴える。将の肩を掴んで、揺らす。

「頼む!頼む……!」

将は肩をつかまれたまま目を閉じて歯を食いしばった。

しばらくして、ようやく騒ぎを聞きつけた看護士が駆けつけた。

「落ち着いてください、島さん」

「大丈夫ですから」

大悟は看護士を振り払おうとして叫んだ。

「俺は正気だ!瑞樹に会わせてくれ、頼む!……将、お前からも言ってくれ!」

叫ぶ大悟の声を聞きながら、将は、突っ立っているしかなかった。

その目からは涙がとめどもなく流れては、リノリウムの床に落ちて行った。