第179話 義母

「俺、芸能プロダクションにスカウトされてるんだ」

聡は驚いたが、将の上に乗せた上半身は動かさなかった。

「将が?」

聡の問いに将はうなづいて

「美智子さんの雑誌に出たのを、プロダクションの社長が見てて、それで」

と言いながら、自分の上に乗った聡の背中を無意識になでた。

「で、どうするの?」

聡もほとんど無意識に訊き返す。

無意識ながら……そこには、将がいなくなる危機感を感じ取っていた。

「まずは、バイト程度って考えてるんだけど……アキラはどう思う?」

「学校は……?」

芸能活動といえば、社会人と同様だから、学校に行けなくなることも当然あるだろう。

「うち、ポイント制だから、何とかなると思う。……それよりアキラはどう?反対?」

聡は、将の胸の上に自分の頬を押し当てた。

将の鼓動が聞こえる。ゆっくりとしている。

何の危機感もなく、将にとっては単に『バイトに誘われたがどうしよう』程度の質問らしいことが、拍動からわかった。

聡は首だけ将のほうに向けた。

枕に頭を預けた将は、二重顎の変な顔になっている。

それを見て思わず聡は微笑みそうになるが、笑いを引っ込めた。

将のそんな顔を知るのは聡だけだ。

そして考える。将は……たぶん芸能界に向いているだろう、と。

弁当屋にいたときから、『このコだったらモデルもできるだろう』と思っていたし、負けん気が強い性格も競争社会に向いているだろう。

だけど、将が芸能界に入るということは、二人の仲の終焉を意味するのではないだろうか。

聡の胸のうちが、触れ合った皮膚から伝わったように

「恋愛禁止ってわけじゃないって社長は言ってた。一般人相手だったらスキャンダルにもならないって。……てか、スキャンダルになるほど売れるわけ、ねーけど。バイト感覚だし」

将はそういって、自分の上にいる聡を抱きしめた。

「そうね……」

そう答えつつ、聡は予感していた。

将は、芸能活動を始めるやいなや、たぶん売れっ子になる。

将の話だと、芸能プロダクションの社長自ら、将に会いに来たらしい。

つまり、目利きから見ても将は輝いているのだ。

そして恐れる。自分の届かないところに行ってしまう、と。

もし、将がスターになったら。担任と恋愛していたことが世間にバレたら……聡は身震いした。

一瞬震えた聡を感じた将は

「アキラ……反対?」

と枕から頭を起こして、聡の顔をのぞきこんだ。

聡は黙って将の顔を見つめた。暗がりだけど、目が慣れたのか、その顔立ちははっきりとわかる。

スターになる、というのは将にとっては素晴らしい成功を意味する。

それに、普通ではできない、貴重な経験を積むこともできる。

それは……、将にとって幸せなことではないのか。

聡は即座に首を振った。

そして微笑みをつくる。

「将がやりたいんだったら、いいと思うよ」

しかし、その顔を続けられなくて、聡は将の胸に頬を押し付けて、

「がんばってみたら。応援してる……」

と呟いた。

将の未来を邪魔する権利はない。

より将が人生で成功するために、聡はいつか、身を引くことになるのかもしれない。

将に密着している、うつ伏せた乳房から伝わる快感は、さっきのように甘い期待ではなく、せつなさを聡にもたらした。

将は、そんな聡の背中を撫でながら、それは聡の本心ではないことはわかっていた。

だけど、将がどんな方向に進めば、聡を幸せにできるのか。

その答えは依然わからないままに、将は聡の顎をあげて、唇を重ねた。

 
 

日曜。高級住宅街にある、鷹枝家では久しぶりに休日を取れた康三がソファで寛いでいた。

つい今しがたまで、食後のコーヒーを片手に新聞を読んでいたのだが、妻の……将には義母にあたる純代の報告に、思わず渋面をつくっていた。

先週、芸能プロダクション・ダイヤモンド・ダストから、将を芸能界に入れたいという勧誘を受けたことを、純代は康三に相談したのだ。

わざわざ将の家を訪ねて橋本社長は言った。

「社会経験だと思っていただければ」。

そのプロダクションについて、裏世界とのつながりや、何かたくらみがないことについては、すでに毛利が調査済みだ、とも純代は付け加えた。

「お前は、どう思うんだ?」

康三は純代に訊いてみた。

純代は、いったん目を伏せたが、まっすぐに康三を見て

「させてみるのもいいんではないでしょうか」

と答えた。

「ちゃんとしたところみたいですし……」

と付け加える。

純代の本心は、将を通り越えて、実の息子の孝太のことを考えていた。

鷹枝の後継ぎは、依然、将である。

しかし、純代は親心として、孝太に跡を継がせてやりたい、と考えていた。

純代は将が憎いわけではない。

鷹枝の後継ぎとして、今も大切な息子だというのはいつも自分に言い聞かせている。

康三のもとに後添えとして嫁してきた純代は、とても誇り高い人間である。

自らも戦後の混乱期に総理大臣を輩出した名家の出だった。

先妻の子である将をしっかりと育てることは自らの義務であると思っていたし、実の子の孝太と分け隔てなく育てることが、世間の規範としてあるべき家の嫁として当然の務めだと自覚している。

あの爆破事件さえなければ、純代は、先妻の子である将を分け隔てなく立派に育て上げた後妻として世間から尊敬されるはずだった。

あのとき……純代は単に恐かったのだ。

柱にはさまって動けない将を助けなくては、と思っているのに。

命の危険を感じた純代の本能は、自分の子だけを連れてまっさきに逃げ出してしまった。

しかし安全なところまで来て、ハッとした。

これがもし、自分の腹を痛めた子だったら。置いてきただろうか……。

案の定、あれ以来、道を踏み外した将に、純代は何度も向き合おうとしたが、将は二度と純代を信頼することはなかった。

そして非行に走り、殺人まで犯してしまった。

純代は……できればだが、将自身が後継ぎを辞退すればいい、と思っていた。

康三が、優秀な元同僚の妻との間に出来た将に、今も期待をかけているのはわかっている。

だが、もう将は手遅れだと純代は思う。

それよりは、名家の血をも継いだ孝太のほうが、後継ぎに相応しいと思うのは純代の贔屓目だけではあるまい。

将が他の道を見つけるなら、なお結構なことだと思ったのだ。

 

「そうか」

康三はジノリのコーヒーカップに残ったブルーマウンテンを飲み干した。

純代の考えは見抜いている。

将が、このまま立ち直らないなら、純代の願いどおりにしてやるのも悪くないと思う。

ただ、孝太は……政治家として人の上に立つには、優しすぎる。

康三は、巌に言われるまでもなく、自分の息子の素養を冷静に判断していた。

ソファに寄り掛かる。

疲れがそのまま、ずっしりと天から降りてきたかのように、康三の体はソファの背もたれに沈んだ。

――芸能界か。

康三は目を閉じた。

大泉総理の長男が、俳優として活躍しているのを目に浮かべる。

最初は若さばかりが目立った彼だが、近頃風格がついてきた、と政治家仲間の中でももっぱら評判だ。

悪くはないのかもしれない、と康三は考える。

芸能界に入れてしまえば、将はプロダクションと衆目の監視を常に受けることになる。

そのほうが、いつぞやの殺人事件のような問題を起こしにくくなるには違いない……。

しかし。

総理の息子は、一応一流大学を卒業している。

将はといえば……。康三は考えると頭を抱えた。

担任教師と相性がいいのか、どうにか3流高校を卒業はできそうだが、総理の息子のような大学にはとうてい進めないに違いない。

それにもし、再度問題を起こせば……それは隠し切れないほどの大問題になる。

そしてそれは、総裁選を来年に控えた康三の足を引っ張ることになるだろう。

「ふむ……」

康三はソファに寄りかかった背中を引き剥がすように起こした。

そして息を深く吐くと、おごそかに純代に伝える。

「いいだろう。ただし、身元については一切公表するな。それが条件だ」