第188話 春の嵐(2)

金曜の夜、聡は気持ちが昂ぶってなかなか眠れなかった。

大悟と別れて一人になるなり、ついに明日、将に抱かれることで頭がいっぱいになっていた。

夜道を歩く足取りもふわふわして落ち着かない感じがする。

たった今、将に抱きしめられたように……体中が覚えている将の感触が肌に花開くように一気に蘇る。

夜道を歩く聡は、そんな自分が急に恥かしくなって、突然駆け出す。

次の瞬間、そんな奇異な自分を誰かに見られているのではないかとあたりを見回す。

……そんなばかげたことを繰り返してやっと家に帰ってきた。

帰るなり、明日の支度をする。何を着ていこうか。

一張羅は、水曜日に着てしまったので今回は違う服にしたい。

シティホテルだから、あんまりカジュアルな格好もよくないだろう。

だけど……どうせ脱がされるための服。聡は一人顔を赤らめる。

下着は今日、新品を3セットも買ってきてしまった。

いずれも、凝った刺繍がほどこされているものだ。

こうして服を揃えるのに1時間以上もかかり、そして肌に磨きをかけるべく、ゆっくりと風呂に入る。

バスタブにはラベンダーの香りの入浴剤を入れる。

明日、どうせ朝シャワーを浴びるけれど、肌からほのかに香ってくれたらいいな、と夢見る。

こうして自分の裸をみていると、いよいよ明日が現実になるのを感じずにはいられない。

思わず聡は目を閉じる。

再び将の愛撫が肌に蘇る。

一人、浴槽でそんなことを想像する自分は、やはり淫乱なんだろうか。

よく眠れるようにとぬるめの風呂にしたのに、それほど効果はなかったようだ。

部屋を暗くして横たわっていても、ずっと胸がときめいている。

男との泊まりだったら、聡はすでに何度か経験している。

とくに博史とは、もうそれがあたりまえのようにさえなっていた。

こんな風にときめくのは、高2のとき、当時の恋人だった東と親に内緒で、初めて二人きりで旅行に出たとき以来だ。

あのときの前夜も……、こんな風に眠れなかった。

聡は記憶がもたらす甘酸っぱい感覚がしみて瞼をぎゅっとつむった。

懐かしさと淫らさがまじった記憶は、それを発した脳から一気につま先に駆け抜けて、思わず聡はつま先をきゅっと折り曲げた。

何度も寝返りを打って……聡がようやく眠りについたのはもう明け方近くだった。

だから、朝7時30分にドアのチャイムが鳴ったときも、ぐっすりと眠っていた。

 

ピンポーン。

ピンポーン。

ドンドンドン。

ピンポーン。

 

そこでようやく聡は重い瞼を開ける。

粘りついたようにまた降りようとする瞼を無理やりこじあけて、聡は重い体を起こす。

「アキラ」

ドアの外からの聞きなれた声に、聡は急激に覚醒した。

「将」

あわててドアに駆け寄る。

意識は覚醒したが、体はまだ起き切っていないらしく、ローテーブルに脛をしこたまぶつける。

「……いったーい」

と足をひきずりながらドアを開ける。

次の瞬間いきなり。将の姿を確かめる前に、聡はきつく抱きしめられた。

「将、どうしたの」

将の胸の中でつぶやく。

将の匂いと共に、雨の匂いが部屋に入り込んでくる。将自身も少し雨に濡れて湿っていた。

そこでようやく……激しい雨音に聡は気付いた。

「アキラ……急に逢いたくなったんだ」

将は聡の髪に顔をうずめたまま、喘ぐように囁いた。

開いたままのドアから聞こえる激しい雨の音で聴き取りづらい。遠くで雷さえも唸るように響いてくる。

「へんなの……。今日、午後迎えに来てくれるんでしょ」

聡は将の顔を見上げようとした。

今日将は、まず自動車試験場で免許を受け取ってから、午後、車で部屋まで聡を迎えに来ることになっていた。

「アキラ……」

将は聡の肩を掴んで、いとおしいその顔を確かめた。

聡が見た、将の顔はひどくせつなげだった。

突然、天が裂けるような轟音が真上で鳴った。

「うわっ!」

聡は色気もない声で、将にしがみついた。次の瞬間

「びっくりしたぁ。近かったね、雷」

と舌を出して将の顔を見上げた。寝起きの乱れた髪に、素顔の頬がピンク色だ。

それを見て、将は少し安心する。

昨日、将は大悟の態度が気になって眠れなかった。

もちろん、長年の親友だから大悟のことは信用したい。

昨日の言葉は、酒の酔いがもたらした単なる気の迷いだと思いたかった。

でもやはり心配でまんじりともせずに夜を過ごした将は、朝が来るなり聡を訪ねたのだ。

ちなみに大悟はすでにリビングから引き上げているようだった。

半分になったスピリタスとグラスがキッチンカウンターの上に置いてあった。

「アキラ」

将は聡の素顔の頬に両手を添えてしばし見つめた。

黒糖色のビー玉のような2つの瞳に将が映っている。

掌から伝わる温かさと柔らかさに我を忘れる。

「将……?なんかあったの?」

濡れた路面をタイヤが踏みしだいていく冷たい音で、将は現実に戻る。

「……昨日、大悟とメシ食った?」

「うん……?」

聡は質問の意図がわからずに、黒目がちの目をキョトンとさせている。

続いて将は『何もされなかったか?』と訊いてしまいそうになったが踏みとどまる。

それは大悟への信頼を自ら捨てることになる。そこまで疑いたくなかった。

それに聡に、大悟に対しての無駄な警戒心を起こさせることになるのもよくないと思ったのだ。

将はまだ大悟を信じるほうを選択した。

それに聡のこの表情をみれば、大悟が何もしなかったのは明快だ。

聡の件についてホッとした将は、今度は別の部分で胸騒ぎがした。

『俺は……、もうダメだ』

といっていた大悟。

将の知っている大悟は、何があっても弱音など吐いたことはない。

金がなくても盗みでどうにか凌ぎ、取立て屋になぐられようともこっそり金を隠しておく、そんなしぶといまでの大悟の強さを、いつも将は尊敬していたのだ。

……瑞樹のことがまだ癒えていないのだ。

瑞樹を守りつつも、瑞樹を守ること自体が大悟の拠り所になっていた。それを失って……。

そして、昨日、大悟の口元にあった、殴られたような痣。

どうして、あんなに嫌っていた愛知の親戚のところに急に行くことになったのか。

おそらく、そこで大悟に『もうダメだ』言わしむる決定的なことがあったに違いないことは、将でも容易に想像できた。

「……将?」

急にだまりこんで、下方の虚空に視線が固まった将に、不審に思った聡が声をかける。

聡の声に将はハッとした。そして

「ごめん、朝早く。あとで来るから。もう1回寝ろよ」

と立ち去ろうとした。そんな将に聡は

「せっかくだし、コーヒー飲んでく?」

と引き止めたが、将は

「ううん、いい。試験場にいかなくちゃ遅刻しちゃう」

と微笑んだ。

激しい雨を降らせている空が暗いので、今が何時なのか聡はわからなかったが、その微笑を見て聡も安心した。

こんな雨の中、わざわざ試験場に行く前に聡を訪ねる将に、気がかりなことでもあるんだろうか、と少し心配していたのだ。

「将。忘れ物」

聡は呼び止めた。

強くなった雨音は4階の廊下まで響いてくる。

暗い空のどこかで雷が鈍くとどろいているのも聞こえている。

そんな天気に似合わず、聡は晴れやかな笑顔で、尖らせた自分の唇を指した。

昨夜からの将の不安な気持ちは一瞬吹き飛んだ。雨音に似合わない温かいもので心が満ちていく。

将は聡を再び抱き寄せると、そっと唇を重ねた。

それは、今日の期待がなせる技なのか、心配事が晴れたせいなのか、いつもより一段甘く感じた。

時が一瞬止まる。

甘い口づけに、時の感覚が、麻痺する。

濡れたアスファルトの上を車が走っていく音で、ようやく二人は麻痺から覚醒し、唇を離した。

ディープなキスはお互い自粛している。

あとでの楽しみにと、思う気持ちまで一緒だった。

「じゃ、免許とれたら、連絡するよ」

「うん。わかった。がんばってね」

聡は頬をいっそう染めて微笑んだ。

パジャマ姿のまま、廊下で小さく手を振る聡を、階段を降りるまで何度も振り返った。

 
 

時計はまだ7時30分だったので、聡は将が言うとおり、もう一度ベッドに戻った。

ぐっすり眠っていたところを起こされたせいか、今度はあっさりと眠りの中に落ちていくことができた。

朝の眠りは若干浅く、雨音と遠くで響く雷の音を夢の中でも聞いていた気がする……。

 

……ピンポーン

チャイムの音に聡は飛び起きた。何の疑問もはさまずに、将だと思った。

――連絡するっていってなかったけ?

聡はカーディガンをはおる。今度は意識も体も同時に覚醒したせいかスムーズに動く。

さっきローテーブルにぶつけた脛は案の定痣になっていた。

将だと思い込んだ聡はモニターを確認せずに、ドアを開けた。

雨の匂いと共に視界に飛び込んできたのは、大悟だった。