第212話 何もない部屋で(2)

「わ!」

「何、どうしたの」

突然大声をあげた将に、バスルームの扉を開けた武藤は振り返った。

「いえ……」

その隙に将は、武藤越しにバスルームをのぞいた。

――いない!

聡の姿はバスルームになかった。バスタブのなかにもいない。

――確かに、ここに連れてきたはずなのに……。

「何、口をあけてんの」

呆けて思わず口をあけたままの将を、武藤がクスっと笑った。

「シャワーカーテンも買い物リストに入れなくちゃ、ね」

武藤は独り言をつぶやくと、バスルームの扉を閉めて、洗面所で手を洗った。

そしてハンカチで手をぬぐいながら、腕時計を見て

「やだ。もう11時30分じゃない」

と声をたてる。

「……帰らなくちゃ。ところで、将、あなた車の免許持ってるの?下に停めたミニはあなたのなの?」

「うん」

将は返事をしつつ、悟られないように目を部屋中に泳がせていた。

聡はどこに消えてしまったのか。

ある一点に気づいて、将は声をたてそうになる。

バルコニーに並ぶ、二人の靴!

幸い、ガラス窓は明るいリビングを反射して、外を見えなくしている。

将の立っているところからも、靴は見えなかったが……あそこには確かに、靴が2つ並んでいるはずなのだ。

「仕方ないわね。……でも今日はもう遅いから、私が送っていくわ。下の駐車場はこの部屋専用のだからアナタの車を置きっぱなしにしても差し支えないし」

「い、いいよ、そんな。自分で帰るよ」

とんでもない、と将は思った。この部屋のどこかにいる聡を置いて帰るわけにはいかない。

「バカいいなさんな。事故でも起こしたらどうするの」

武藤の口調が強くなる。武藤はとうに……ここに踏み込んできた時点で、将が隠しているものに気づいていた。

おそらく、女だろう。

ここで逢引でもしていたのに違いない。

乱れてボサボサになった将の髪はたぶんそのためだろう。

そう広くない1LDKだ。

女のほうはバスルームあたりに隠したのだろう、と武藤はバスルームに行ってみたのだ。

そこにいないとなると。

武藤は、部屋を見渡しながら、リビングを反射している窓、そしてクロゼットで視線を止めた。

……だが、そこを開けることはしなかった。

女を……たぶん聡を、見つけ出してどうするのだ、と思い直したからだ。

その代わり、明日のリスクを減らすために、逢引は中断させたほうがいい。

「大丈夫だから」

強くなる武藤の口調に対し、将の口調は懇願するようになっている。

「ダメ。さあ、帰るわよ」

将は思わず、武藤を睨みつけた。しかし武藤はひるまない。本気なのだ。

「さあ」

――この場は、従うしかない。

将はチッと舌うちした。

……将は毅然とした女性に弱い。

これが男性だったり、女性でもヒステリックにわめきちらしたりするのだったら、強引に自分を通すこともできるのだが。

それにしても聡はどこに行ってしまったのだろう。

もう11時30分、と武藤は言っていた。まだ電車はあるものの、

――1人で帰れるだろうか。

と心配になる反面、

――聡は大人だ。なんとかするだろう。そしてあとで、もう一度、聡の家で続きをする、というのもアリだろう。

という楽観もなくはない。

いずれにせよ、メールでフォローをしなくてはならないだろう。

将はため息をつくと武藤について玄関に向かいながら、リビングの照明を消した。

「将、靴は?」

武藤が玄関で将の靴がないことに気づく。

将は慌てて、バルコニーに靴を取りに行った。

そこにはまだ、将の28センチのバッシュと一緒に、聡の23.5センチのミュールが夜風に冷たくなって並んでいた。

――本当に、どこに行ったんだろう。

玄関以外から、外に出られるはずもないのだ。

将は後ろ髪引かれる気持ちで、何もない部屋を後にした。

 
 

部屋から二人が出て行って……聡は、クロゼットからようやく出ることが出来た。

リビングは再び青い街の光だけの薄暗がりになっている。

そんな中、まだ残る胸の鼓動がやけに響く気がした。

――よかった……見つからなくて。

バスルームに隠された聡だが、洗面所を使う、と言われたらマズイと考えた。

そして将が武藤を迎えに玄関に出た一瞬に、バスルームからクロゼットに移動したのだ。

聡はずっと……クロゼットの2mmほどの隙間からリビングをうかがっていた。

その間も、胸を飛び出して聡の体を震わせそうなほどの、激しい鼓動に翻弄されていた。

そして、リビングを見渡す武藤の視線が、一瞬こちらを向いて固定したとき……聡はもうこのまま心臓麻痺で死んでしまうかと思った。

――恐かった。

聡は胸を押さえて、四角くフローリングに映る淡い光の中に膝まづいた。

しばらく、そのまま動けない。呼吸さえも、自由にできない。

硬直したような体、そして時間の中で一つ、わかったことがある。

――バレるのが……こんなに恐いなんて。

紙一重で二人の関係があからさまになる局面に遭遇して、聡は自分がいかにそれを恐れているかを再確認することになった。

部屋は動揺する聡に反して、静まり返っていた。自分の息遣いさえ聞こえそうなほどに。

窓には、夜のビル群。さっき、二人で眺めたときと同じように煌いている。

なのに、一人で暗い部屋で膝をつく聡には、冷たくこちらを拒絶しているように感じた。

そこへ突如。

メール着信音が響きわたって、聡の神経は再び緊張する。……将だ。

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アキラごめん。

武藤のババアが強引で、断れなかった。

悪いけど地下鉄で帰ってもらっていい?

鍵は開けっ放しでいい

あとで、部屋に行くから、続きをしよう

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将も慌てていたのがわかる文面だ。

きっと、後部座席に落ち着くなり送ったのだろう。

聡はそれを見て大きくため息をついた。

そんな聡が、はっきりとわかってしまったことがある。

それは、将がこうやって芸能界に入っていくということは……もともと、担任教師と教え子の関係はタブーであるけれど……

二人の恋は、さらに重い秘密になっていく、ということなのだ。

将は、果たしてそれをわかっているのだろうか。

いや、そこまで気づいていないはずだ。

もしも、気づいていたら。将は芸能界に入らなかっただろう。

しかし……聡はここ何日かの将のメールや短い電話を思い出す。

『収録、一発でOKだった』

『目力がある、って言われた』

『奄美ユリに褒められた』

と控えめながら嬉しげに報告する将。

将は、たしかに、その才能の1つを生かせる場所を見つけつつあるのだ。

それを邪魔する資格は、聡にはない。

いや……将自身の成長と幸せを願うなら……本当に愛しているなら……邪魔は出来ないはずだ。

聡は、将への想いの行く末が、急速に閉ざされていくのを感じながら、銀色めいた薄闇の中に落ちている自分の影を見た。