第225話 隠しごと

マンションに帰りついたのは、5時前だった。

日が長い時期だから、夕陽には程遠い陽射しが差し込んで、閉め切った部屋はむっとしていた。

大悟は留守のようだ。

ダイニングテーブルの上に
『気温が高いので、夕食は冷蔵庫に入れています。電子レンジで温めてお召し上がりください』
と家政婦のメモがあった。

将は窓を開けて外の空気を中に入れつつ、バルコニーから外を見渡した。

こんなに早く帰るのは久しぶりな気がする。

去年の今ごろはどうしていただろう、と空に思いを馳せたとたん、夕陽の海が脳裏に暖色に染まった水平線を描いた。

学校にも行かずに、晴れれば毎日夕陽の海に通っていた去年。

唐突に……将は、海を見たくなった。海だって自分を待っているだろう、と思った。

だけど。あいにく、ミニは新しいマンションに置いてきてしまっている。

将は舌打ちした。

――明日にするか。

幸い明日もオフだ。学校は聡の英語までだけにして、あとはさぼって海に行ってもいい。と、将はバルコニーに寄りかかって空を眺めながら再びあの頃を回想する。

聡は、まだ弁当屋のお姉さんだった。

白いうわっぱりに、オデコ丸出しの姿は、もう思い出すのに苦労するようだ。

将の中の聡は、地味な色のスーツに身を固めた教師姿か、ラフなジーンズ、もしくは何度も見たわけじゃないのに、裸ですらすぐに思い出せる。

心に映し出した聡の姿から、将は今日、学校の廊下で無視したことを急に思い出した。

本当は、あのとき……聡にさりげなく話し掛けて、土産を渡すつもりだった。

ポケットに突っ込んだ手は、ローズオイルの瓶を握り締めていた。

だけど、自分に集まる視線に、将は思い直したのだ。

視線に臆したわけではないけれど。

将は部屋に入ると、ソファに身を投げ出しながら携帯を開いた。

この時間はまだ勤務中だろう、職務にいそしむ聡を思い浮かべながらメールを打つ。

本当は、こんな風にメールを打つのも控えるべきなのかもしれない。

だけど、さっき無視したことについて将は言い訳したかった。

そしてあらためて、自分の決意を形にしておきたかったのだ。

 
 

ちょうど聡にメールを送信したところで、玄関ドアの鍵がガチャガチャと音を立てた。

大悟が帰ってきたらしい。

姿より先に、ヤニを濃縮したような不快な匂いがソファに寝そべる将を起き上がらせた。

大悟に何か一言いおうとした将は目を見張った。

3週間、いやそれ以上ぶりに顔を見る大悟はあきらかに痩せた。……やつれた、といったほうが正しいかもしれない。

しかし大悟は、将を見つけると、痩せた顔の中でいっそう目立つ目を細めた。

「おかえり」

今帰ってきた人間から『おかえり』と言われる奇妙さを将は感じたが、すぐに、気づいた。

モロッコから帰ってきた将に向けられているのだ、と。

「ただいま。……パチンコ?」

それは大悟の匂いからすぐに見当がついた。

「ああ。今日は、3万勝った」

大悟は楽しげにコンビニのビニール袋をカウンターの上に置いた。

「そう……。よかったじゃん。昨日は遅かったの?」

将はソファから動けないまま、目は大悟の姿に張り付いていた。それほどまでに酷い痩せ方だった。

大悟はそんな将に気づかないまま、カウンターの中身を冷蔵庫に移す。

「いや、1時ぐらいかなあ。お前、もう寝てたから起こさなかった」

将が『お前ちゃんとメシ食ってんの?』と喉まで出かかったとき、大悟が

「そこに、見本誌置いてるよ」

とソファの前のテーブルを指差した。

将と大悟がバイトでヤラセモデルをしたファッション誌である。

素直に雑誌を開いた将は、1Pで掲載されている自分の姿に面食らった。

それで、学校での下級生の様子に合点がいった。

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185cmの長身で、”E”の最新モデルXXXをどうどうと履きこなしているSHOくん。

『シャツはオークションで落札したばかりの古着です』と笑顔だ。

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と、たぶん美智子が考えたのだろう、適当なキャプションがついている。

へえ、あれ古着だったんだ、と将は雑誌の中の自分が着ているシャツをまじまじと見た。

スタイリストが用意したものだから将がそれを知るはずもない。

ちなみにモロッコで行われた”E”のテレビCMは7月オンエアだという。

地中海沿岸は過ごしやすかったが、サハラ砂漠といったらジーンズなど履いている場合じゃなかった。

しかし、履いていないともっと暑いということにすぐに気づく。

体温より高温の空気。ここでは、衣服はその暑熱から体を守るためのものなのだ。

「汗出さないで!」

と監督に指示されたのが、今考えてもおかしい。

出さないぞ、と思ったって出てくるんだからしょうがない、とそのときは思った。

だが、カメラがまわり始めると、本当に汗は出なくなったのだ……。

あれは、本当に不思議だった。緊張感のマジックだろうか。

 
 

大悟に続いて、将がシャワーを浴びて出てくると、ダイニングテーブルの上には大悟が冷蔵庫から出して並べたのか夕食が用意してあった。

大悟は、当然のように缶ビールを冷蔵庫から出して、

「飲むだろ?」

とタオルで頭を拭いている将に差し出した。

「ああ。サンキュ。……あれ、お前、それどうしたの」

大悟の左腕の肘関節の内側にある、紫色の斑点。

褐色が薄れた腕の内側で、それはひどく目立った。

大悟はビクッとしたのを悟られまいと、ビールをカウンターに置くと、将に背を向けて食事の準備を続ける。

「なんか、いつのまにか。どっかでぶつけたのかも」

と苦しい言い訳で誤魔化す。肘の内側をぶつける可能性は低いが仕方ない。

「ふーん」

それでも将はたいして疑いもしないようだった。

トースターで温めていた揚げ出し豆腐を、大悟は器に移し変えると、大根おろしをかけ、小鍋で温めたダシをかけた。

「お前、凝ってるなあ。そのまま食ったっていいのに」

そういう将は大悟の腕のことなどまるで気にしていないようで、大悟はほっとする。

 
 

家政婦さんが外国帰りの将を気遣ってなのか、今日はカツオのタタキに揚げだし豆腐など、と純和風のメニューだ。

彼女が家で自分で漬けたのか、きゅうりのぬか漬けも付いている。

将は、若いくせにこういうものがわりと好きだ。

ヒージーの家で覚えたからだろうか。

ヒージーは、自分が丹精こめて世話をしたきゅうりやなすを、ハルさんに頼んでぬか漬けにしていた。

それを毎晩嬉しそうに晩酌のつまみにしていたようすを将は思い出した。

そういえば、ヒージーにも連絡をとらないと、と将はきゅうりをパクつきながら思った。

「これ、旨いよな」

大悟も気に入ったらしい。

それにしても……テーブルいっぱいの料理の前にいる大悟はいっそう痩せて見える。

将は思わず訊いた。

「お前、ちゃんとメシ食ってる?」

「食ってんじゃン」

牛肉とごぼうの時雨煮でご飯をほおばりながら、大悟はおどけた。

今、こうして食べてるよ、という意味。

そんな風に返されると、将は何も指摘できなくなる。

「なら、いいけど……」

とだけ言って、将はビールと一緒に何かを飲み込む。

大悟に何か言いたいことがあるのに、言えない。

明るい様子なのに、今日の大悟には、どことなく見えない壁があるようだ。

将は、ことごとく、はじき返される。

「……そういえば、西嶋さんの弟さんのところに行った?」

つまり新しい保護者のことを将は話題にしてみた。

「行ったよ」

大悟は箸でカツオをつまみながら、短く答えた。

「どうだった?」

将はビールの缶を口にあてながら、大悟の様子を伺った。

「いい人だったよ。養子にならないかって誘われた」

そう答えながらも、大悟は今度は、揚げだし豆腐を崩す。

将にはその口調が、少し明快すぎるように思えた。

「で、どうすんの?」

「うーん」

そういう声も奇妙に明るい。

大悟は口をもぐもぐと動かしながら、箸と同じ方向に視線をやりながらしばし考えているようだった。

「前向きに、考えようかな……って、思ってる」

それでも、たいして時間を置かずに、大悟は答えを提示すると缶ビールを手にした。

「そっか」

将は、思わず箸を止めて、ビールが流れ込む大悟の喉のあたりを見つめた。

まさか、大悟がそういうとは思わなかったから。

三宅に聞いて将も知っていた、大悟が養子になる話。

いい話だとはわかっていたのだが……将の知っている大悟は、親に見捨てられながらも、飄々とたくましく、自由に生きていた少年だ。

いわば野生動物のように生きてきた青年が、今さら、保護者の庇護にすがるとは考えにくかったから。

だけど。

大悟は、一気に疲れたのかもしれない……瑞樹を失ったことで。

将は、このところの大悟の身の上をあらためて思い返す。

それに……これは将の都合だが、このオフの3日間のあと、将はしばらくここを離れて、事務所近くのマンションを拠点にすることになる。

ここで一人っきりで暮らすよりも、西嶋の弟の養子になるほうが、大悟のためになるだろう。

「そっかー……」

将は、もう一度噛み締めるようにそう漏らすと、

「よかったな」

と大悟の顔をあらためて見つめた。

だけど……その痩せこけた顔は、将の心に依然として何か割り切れないものを残した。

それがわからないままに、将は、大悟に乞われてモロッコの話をはじめるよりほかなかった。

しかし、将は気づいていなかったけれど……大悟は、将と瞳を一度もあわせなかった。

将に対して、重大な隠し事があったから。

大悟が将から隠す、腕の紫色の斑点。

それは『薬』を注射した際に、失敗して出来た内出血だった。

……その頃大悟は、すでに吸引と注射で、日に3度はあの薬に頼っていたのだ。