第230話 日曜日のデート(1)

日曜日。

みな子は、いつもの駅前に立っていた。

いつもと違うのは、私服であること。

そして全身が震えそうなほど、ときめいていること。

あの鷹枝将と待ち合わせをしている自分が信じられない。

猫の行方の続報について訊いた時、将は

「みな子、猫好きなんだ」

とみな子の顔を見上げた。

「う、うん。好きなほう……だけど」

別に飼うほどではないけれど、可愛い野良猫がいれば、つい構ってしまう。

「じゃさ、一緒にあの猫に会いに行かない?」

時ではなく、全身の血流が停止した。……ような気がした。

だから、脳が働きを止めてしまったように、みな子は、将が何を言っているのか、よくわからないのだろう。

たしかに『一緒に会いに行かない?』と聞こえたことを認識するのに2、3秒掛かった。

「行こうよ。あの猫、俺の知り合いのところにいるらしいんだ」

その間、将はもう一度、繰り返す。

将はあきらかにみな子を誘っているのだ。それがわかったとたん、みな子の心臓は早鐘のように打ち始めた。

「でで、でも、忙しいんじゃないの?」

「そーだね。えっとぉ」

将は携帯を取り出した。

どうやらスケジュールをメモしてあるらしい。

「今度の土曜日が雨じゃなかったら、日曜日はオフになるから……日曜日だったらあいてるよ」

今週の土曜日は、川原でエンディングテーマの撮影があるのだが、梅雨ということもあり、予備日として日曜日が設定されているのだ。

したがって土曜日にうまく撮影ができれば、日曜日はオフになるというわけだ。

みな子は、土曜日が晴れてくれることを祈った。

日頃の行いがよかったのか、神様がみな子の恋を応援してくれているのか、土曜日は晴れた。

将からはみな子の携帯にショートメッセージで連絡があった。

『今、無事撮影中。だから、明日1時に駅前ね』

それを受け取って、みな子は嬉しい反面、激しく悩み始めた。

男子と初めて、2人きりのデート、らしきもの。

相手は、ファッション誌にも出ている鷹枝将だ。

何を着ていけばいいのか。

みな子は手持ちの服はどれも、あの将には幼すぎる気がして、急遽貯金をおろして買い物に出掛けたのだ。

それが、今みな子が身につけている服だ。

といっても、結局ミニスカートにキャミ&ブラウスという、極めて高校生らしいスタイルになってしまった。

新調したのはサンダルとバッグだ。

2つともキャミと色を揃えてある上に、試着して足が一番きれいに見えるものを選んだのだ。

みな子はそのサンダルを履いて、30分も前に駅についてしまった。

やたらに喉が渇く。みな子はペットボトルのお茶を買って飲んだ。

ボトルの口に口紅がつく。せっかくつけた口紅が落ちてしまったのではと気が気ではない。

まだ、待ち合わせの1時まで7分もある、トイレで付け直そう、と思ったみな子の後ろでクラクションが鳴った。

まさか自分のことだと思わないから、無視する背中にしつこく鳴らされる。

――うるさいな。

と睨みつけようとしたみな子は、そこに、ミニの運転席の窓から顔を出して

「みな子ー!」

と呼ぶ鷹枝将を見つけたのだった。

まさか車を運転してくるとは思わなかったから、みな子は目を真ん丸くして駆け寄った。

「鷹枝くん!めっ免許持ってるの?」

「早く、乗って。後ろつかえてる」

「う、うん」

みな子は慣れない手つきで助手席のドアをあけた。

それを……今、バスで駅に着いた聡が偶然見ていた。

 
 

まさか聡が見ていたとは気付かないまま、将は車を発進させた。

「シートベルト、してもらえる?」

そういわれるまでみな子はどうしていいかわからなかった。

何せ、男の人と二人きりで車に、しかも助手席に乗るなんて初めてなのだ。

「ご、ごめん」

そういいながらあわててシートベルトを引っ張ってくる。

シートに深い位置で拘束されると、ミニスカートの太ももが予想外に丸出しになってみな子はあせった。

あわてて、バッグをスカートのかわりに腿に乗せる。

もっとも、将はみな子の太ももなどに見向きもしていないようだ。器用にハンドルをまわしながら

「俺さ、待ち合わせ時間の前に、集合しちゃうの好きなんだよね」

などと上機嫌だ。

「今日、眼鏡じゃないんだね」

「え。あ?……うん。使い捨てレンズにしてみたんだ」

これも昨日買ったものだ。

「似合う、っていったら変だけど、似合うよ」

「……ありがと」

みな子は助手席のシートの上で身を硬くしていた。

薄いサングラスをかけた将は、いつも以上に……みな子の想像を遥かに越えて大人っぽかった。

ほとんど大人の男だ。

危険な気配さえする……大人の男と、車という密室で二人。

いつもの将の声がなかったら、逃げ出したくなったかもしれない。

みな子はいつもの将の声に安心したくて、積極的に質問を投げる。

「免許、いつ、取ったの?」

「4月。お誕生日と同時に取得しました。ホラ」

将は得意そうに、片手ハンドルの空いたほうの手で免許をみな子に渡した。

 

二人が、あの猫がいるという家についたのは3時近くだった。

昼を食べていない将が『デ○ーズ』に寄ろうと提案したからだ。

将の向かいに座ったみな子は、付き合いでパスタを頼んだのだが、パスタをフォークに巻くのに苦労した。

いつもやってることなのに、なぜかうまくいかないのだ。

どうしても……巻いたパスタは大口をあけなくてはいけないサイズになってしまう。

将の前でこんな大口はあけられない。と、みな子はいったん巻いたパスタをほどいて巻きなおす。

やっとほどよい量になったかと思うと、だらんと垂れ下がる。

――パスタをすするのはみっともない。

みな子はパスタが垂れないように、かつ大口をあけないでいいサイズに巻き上がるように、パスタをほどいては、適量になるように繰り返し巻きなおさなくてはならなかった。

――パスタなんか頼むんじゃなかった。

ひそかに後悔するみな子の前で、将は頓着もしないでハンバーグを気持ちよく平らげていた。

 
 

「ああ!猫ちゃん!」

みな子は、その家に入るなり、まっ白な猫を見つけて手を伸ばした。

猫はびっくりして一瞬身構えた。緑がかった目を丸くすると、ぴょーん、と棚の上に乗った。

小さなオフィスビルのように見える建物の、外階段を登って3階にある家。

看板に『西嶋光学工業』とあった。

そう。ここは大悟の保護者である、西嶋隆弘の家なのだ。

2年前、獣医のもとで回復しつつあった猫をどうするか、将は『三宅のおじちゃん』こと弁護士の三宅に相談したのだ。

三宅は無類の猫好きとして将もよく知っていた。

それで猫はいったん三宅が引き取ったのだが、その後すぐに、西嶋の家にもらわれてきたのだという。

「シロ、というんですよ」

節子がカラフルなストローを差したジュースを持ってきながら猫の名前を教えてくれた。

大悟と同居している将とその友達、かつシロの恩人の訪問ということで、歓迎されている。

「シロ、シロ、おいで」

みな子は、棚の上にあがった猫に声をかけた。

「ほっとけば、降りてきますよ。人間大好きですから」

隆弘も笑った。

「前に飼ってた子が亡くなりましてね。それで、三宅さんに『まだ子猫だから』と頂いたんです」

将もジュースが置かれたダイニングに腰を下ろした。

三宅の友人にあたるこの西嶋隆弘も猫が好きらしい。

しかし本人は猫というよりも柴犬、といった感じの穏やかな容貌だ。

ひとしきり、シロのことで談笑したあとで、

「大悟くんのことで、訊きたいことがあるんですが……」

と、西嶋が切り出してきた。

意外な質問に、将は目をあげて西嶋の顔を見た。

穏やかな表情は、真剣な表情にいつのまにか変わっている。

もう、将がM区の、事務所近くのマンションに生活拠点を移して2週間以上になる。

てっきり大悟は西嶋の世話になっていると、将は思い込んでいた。

今日だって、大悟にはメールで『今日、猫見にいくから』と伝えたはずだ。

「大悟、こっちにいるんじゃないんですか」

将は訊き返した。

西嶋によると、大悟はあいかわらず将と二人で暮らしていると言っているらしい。

「そうですか。鷹枝くんは、お仕事の都合でM区に移られたんですね。……ということは大悟くんは鷹枝くんのマンションで一人で暮らしているんですね」

将の話を訊いた西嶋は、腕組みをしてうーん、と考え込んだ。

「それで……かな」

節子が低い声で隆弘に、確認するように問い掛ける。

「大悟、どうかしたんですか?」

将は西嶋夫妻の様子に、大悟の異変を感じて思わず疑惑を声にした。

「先月末に、今月分のお小遣いを取りに来たんだけど、たった1ヶ月なのにびっくりするくらい痩せちゃってね」

1拍の沈黙があったあとで、節子のほうから話し始めた。

大悟は、この西嶋夫妻から月に一度小遣いをもらうことになっているらしい。

「それに、昨日……」

「昨日?」

「急に来て、お金が足りなくなった、貸してくれって……」

将は黙って節子の話を聞きながら、またパチンコだろうか、と考えた。

でも、それにしてはなぜ痩せるのだろうか。あの痩せ方は、将が見ても異常だった。

「それが、20万って言うんだよ」

節子は、昨日を思い出したのか、眉根を寄せて、あげた右の掌をパタンと振り下ろした。

「貸したんですか?」

節子は首を横に振った。かわりに隆弘が口を開く。

「何に使うのか、って訊いても黙ってるんだよ。だから、使い道をきちんと納得させてくれるなら、貸すんじゃなくて、あげる、と言い渡したんだが……」

大悟は、いちおう『わかりました』と素直に帰っていったらしい。

将の中で、何か嫌なラインがつながりそうだった。