第239話 進路

本格的な夏空には程遠いながらも、今日は1日晴れて、気温もあがった。

そんな暑い中の野外ロケは、とても体力を消耗する。将は疲れてマンションに戻ってきた。

案の定武藤からは

「もう夏休みなんだから、寮に戻れば」

と言われた。だが、将は

「期末試験が悪かったので、できるだけ補習に出ろ、と言われている」

と適当に誤魔化した。そんな将を武藤はバックミラーをちらりと見た。

郵便受けをあけた将は、荒江高校の封筒が入っているのに気付いた。

エレベーターの中で封の中をのぞく。

そこには通知表と、CD、それと何かプリントが入っているらしい。

……聡だ。聡が届けにきたのだ、ということがわかって将は、思わず何でもない封筒が嬉しくなる。

「おかえりー」

冷房の入った部屋で大悟はテレビを見ていた。

「体は、大丈夫?」

この数日、まるで挨拶のようになった質問を投げてみる。

「うん」

この答えも変わらない。

まさか、薬を足に打ち続けているとは将は知らない。

食事を済ませてきた将は、軽くシャワーを浴びると、寝室で封筒をあけてみた。

通知表に表示された1学期の成績は、思ったとおりあまりいいとはいえない。

なんとか期末テストは受けたのだが、勉強をしていないせいか、本当にソコソコである。

他校の通知表と比べて違うのは、期末段階のポイント数が表示されていることだが、こちらは、欠席が多いにもかかわらずそれほど減っているわけでもない。

たぶん、特別に配慮されているのだろう。

入っていたCDをセットして、もう1つのプリントを見る。

CDからは軽快な洋楽が流れてきた。みな子からもらったプリントやノートのコピーにあった、英語の授業に使われた曲だろう。

プリントは、夏休み中の大学進学希望者用の補習の概要とスケジュール表だった。

お盆前まで、ほぼ平日は毎日行われるらしい。

補習というよりも、自習&個人指導……つまり聡が2年のときから放課後に行っている形式らしい。

かつての放課後の補習の光景が将の脳裏をよぎっていく。

聡と二人きりだった補習。9月の暮れ行く教室……壁に映ったオレンジ色の陽光まで将は思い出すことができる。

しばらく思い出に酔った将は、ふと聡がこのプリントを同封した意味を考える。

聡は、将に大学に進学したほうがいい、と暗に言っているのだろうか。

 
 

連休も関係なく将は、毎日仕事だった。

新しく入ったCMに、雑誌のインタビュー。そして『ばくせん』の撮り。

天気のほうは、毎日午後になると決まって夕立が降ったが、それ以外はおおむね晴れて、梅雨明けに近いことを感じさせた。

その忙しいまま、3泊4日の伊豆ロケに突入した。

伊豆といっても半島内陸の、山の中で撮影は行われているので、ギャラリーはそれほどいない。

不良生徒たちが寺に合宿にやってくるという設定である。

ロケ現場の寺を見て、将はなんとなく、聡が副校長を務めていた、あの山梨の学校を思い出した。

すでに仲良しの生徒役同士なので、本当に合宿のようなものだ。

ただ、四之宮だけは、泊まるのは1泊だけ、と彼の登場シーンだけ『ため撮り』が行われた。

アイドルグループに所属する彼の忙しさは他の比ではないらしい。

四之宮がらみの撮りが終わって、スケジュールがゆったりするかと思えばそうでもない。

どうやら、台風が接近しているらしく、3日目後半から天候が悪化しそうなので早く撮り終えたいらしい。

だが、3日目を迎えた将の頭の上には、そんな片鱗もないような青空が広がっていた。

今日の空は、特に逞しいばかりの夏空だった。濃い青色の空に、咽るような草の匂い。

強い陽射し、濃い木陰。

蝉の声も東京と違ってさまざまな声が重なる。

今日は特に暑いらしい。予想最高気温は、この夏最高ということだった。

暑いときの撮影は大変だ。こまめにドーランを塗りなおさないといけない。

衣装も、すぐに汗まみれになってしまうので、何着か同じものが用意されていて、そのつど着替えないといけない。

ただ、予報どおり昼すぎからだんだん曇が多くなってきた。

そして、夕方にはどんよりと曇ってしまった。

厚い雲の切れ目から夕陽が差して、空が気持ち悪いショッキングピンクに染まるのを将は見た。

幸い、3泊4日といっても4日目は予備的なスケジュールだったので、3日目の夕方までには、伊豆でやっておくべき撮影は、ほぼ終了していた。

 

翌朝は、朝から雨が降っていた。

まだ関東から遠いように見える台風だが、それに刺激されて梅雨前線が活発化しているらしい。

そしてゆっくりとしたスピードながら、関東を直撃するコースをとっているという。

将たちロケ隊は、早々に伊豆を後にすることにした。

局で解散したときには昼すぎだった。雨なのは東京も変わらなかった。

「困るわねえ。台風が直撃すると。明日から仕事が詰まってるのに」

伊豆ロケにも同行した武藤はタクシーで将を送り届けながら呟いた。

「台風が直撃したら、仕事って休みになるの?」

「直撃の度合いにもよるわよね。交通が麻痺したら、スタッフがスタジオにこれなくなるし」

「ふーん」

将は、ちょっとだけ台風が直撃すればいいのに、と思って窓につく水滴に目をやった。

雨粒の張り付き方は弱弱しく、まだ、そんなにひどい台風になりそうでもない。

このところ暑いのと、仕事づくめなのとで疲れていた将は休みたかったのだ。

「ところで、将」

武藤は明るい声を出した。

「秋の連ドラのオファーが、もういくつか来てるのよ」

『E』のCMに、『ばくせん2』。これらが放送されるたびに将の人気はうなぎ登りにあがった。

早くも『イケメン俳優』として名前があがるようになっている。

事務所のHPも、番組公式HPもアクセス数でつねに3位以内をキープしている。

「……ふーん」

「ふーん、って嬉しくないの?」

武藤が隣の将を振り返った。

将は窓から自分の膝に視線を移した。

そして、思い切ったように顔をあげると武藤のほうをまっすぐに見た。

「……武藤さん。俺、大学いっちゃダメ?」

「えっ……?」

「大学に進学したいんだ。できれば」

武藤があまりにもびっくりした顔だったので、将は最後に『できれば』と付け加えた。

 
 

夏の昼下がりだというのに、マンションの部屋は暗かった。

太陽が照っているわけでもないのに、じっとりと暑い。将は即座に冷房をいれた。

大悟は、この雨の中、出掛けているらしい。

将は、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、迷わず飲んだ。

この伊豆ロケの間中、暑かったのにビールは飲めなかった――まだ、未成年だからである。

3日ぶりのビールは喉に爽快な通り道を描いた。

イッキのみすると、将はソファに体を投げ出した。

――大学進学か。

大学進学を熱望しているわけではないのに、なぜか将は言ってしまった。

ここのところの仕事漬けに少しまいっているのかもしれない、と自分でも思った。

成果は出ているのも、人気が出てきたのも、わかるけど、毎日毎日仕事。

『新人のうちは仕方がない』と武藤は言った。

だけど、新人でもない四之宮はどうだ。

将以上に忙しくしている。

自分で芸能界入りを希望したわけではない将は、あまりの自分の時間のなさに少し辟易していたのだ。

それに……こんなことがあった。

 

あのCDのこと以来、将は四之宮ともポツポツと話をするようになっていた。

もともとあまりしゃべらない性質らしい四之宮だが、話してみると、実はおっとりとした性格だということがわかった。

2つ年上で芸歴は10年に及ぶが、それを自慢したりも、先輩風も吹かせたりもしない。

それでも芸歴10年だけあって、局でも有名人がよく声をかけてくる。

昔の共演者だったりするらしいが、将と一緒にいるときは、ちゃんと紹介してくれる。

そのときも、四之宮と将は控え室で、なんとなく話をしていた。

四之宮は疲れているのか、テーブルの上に頬杖をついていた。

と、控え室に四之宮のマネージャーが入ってきた。

「敦也、△さんが来てる」

「えぇ?」

四之宮は珍しく心底嫌そうな顔をした。細く整えた眉が激しく歪んだ。演技以外でこういう顔をするのはとても珍しい。

「ええって……、いちおう挨拶しとかなきゃ。早く」

「……めんどくせ」

四之宮は、小さく吐き捨てるように言いながらも立ち上がった。

「俺は? 行かなくていいかな」

将は訊いてみた。こんなときいつも四之宮は自分の知り合いに気軽に将を紹介してくれたのだ。

「いいよ。別に」

四之宮は横目を一瞬、将に投げただけで、足早に控え室を出て行った。

そして10分後には戻ってきた。戻ってきた四之宮は、机に突っ伏すようにして、一層脱力していた。

「どうしたんすか」

「疲れた」

「△さんて誰ですか」

「うちの、事務所の、先輩」

「へえ」

「でもさ」

四之宮は机に頬をつけたまま、将を手招きした。内緒話の仕草。

将は四之宮の口元に耳を寄せた。四之宮は声を出さずに吐息だけで

「落ち目」

と言った。

「昔は、ベストテンっていうのかな、に出るぐらい売れてたらしいんだけど。今は単なるおやじ」

四之宮は聞こえるか聞こえないかの小声で続けた。

「それでもいちおー先輩だし。昔は俺たちより売れてたらしいからー、ソンケーしてるフリしないといけない」

四之宮はさも面倒くさそうに言った。