第249話 死闘(1)

 
「わァーーッ!」

大悟は恐ろしい叫び声と共に急に起き上がった。

その叫び声は隣でうとうとしていた将も瞬時で覚醒させた。

「大丈夫か」

「将……。ごめん。いつもの……悪夢」

謝る大悟は息が荒い。脂汗をかいているようだ。

「いいよ。……もう起きるか?また寝てもいいけど」

将は携帯を開けて時間を見た。もう7時すぎだった。

「いや、一度起きたら、眠れないから」

大悟がそういうので、将は立ち上がると遮光カーテンをあけて、夜のままの部屋を朝に変える。

だが、窓の外は昨夜よりいっそう激しい嵐だった。ひどい雨のあまり、まっ白に見える。

うなる風に乗ってバルコニーに叩きつける雨は、そのしぶきを窓まで跳ね上げた。

将は、極力覚醒作用を避けてわざとコーヒーではなく紅茶を淹れた。

「食欲、ないだろうけど、食べろよ」

将は冷凍しておいたパンを焼いて、インスタントスープと共に大悟の前に置いた。

大悟は、大人しくテーブルにつくと、食べ始めた。

「今、どんな感じ……?」

「まだ……平気」

将は、うなづきながら大悟の顔をのぞきこんだ。大悟は本当に痩せた。

「1日……何回ぐらいやってる?」

「4~5回」

将はパンを噛んだ顔をしかめた。かなりの依存である。

「おま……何で」

「何で、なんだろうな」

大悟は、伏せた目を窓の外にやった。

それが、落ち着いた大悟と会話を出来た最後かもしれなかった。

まもなく。

朝食が終わってソファに腰掛けた大悟は、テレビをみながら、小刻みに踵を上げ下げしていた……貧乏ゆすり。

あきらかに落ち着かない様子だ。

朝8時に、武藤から電話が入って、台風のせいで今日の仕事はキャンセルになる旨が伝えられた。

将はほっとした。

今の大悟を一人にしてはいけない。そう思ったからだ。

電話を切ると、大悟は激しく爪を噛んでいた。

「大悟、大丈夫か」

「あ、ああ」

声を掛けたときだけ、おさまる。

だが1分もしないうちにまた復活する。

そのうち、息が荒くなってきた。

それを本人も自覚しているように、息をとめて……しばらく我慢すると、深く息を吸ったり吐いたりを繰り返す。

その吸う息、吐く息自体が震え始めた。

外の風はいよいよ激しくなってきた、サッシの窓がときどき鈍い音を立ててたわむようだ。

しかし、外の台風より、大悟の中の嵐のほうがずっと激しいのだろう。

大悟は、歯を食いしばって必死で耐えていた。

将は、気晴らしをさせるべきなのか、とゲームをしないか、と誘った。だが

「できる状況じゃない」

と断られた。

9時の時報と共に、台風情報が始まった。

あと2時間ほどで房総半島に上陸するコースだ、と伝えたとき。

大悟は大きく息をつくと、震える声ながら冷静な調子で言った。

「ダメだ。将。もう限界だ……」

大悟は本当に苦しそうだった。肩で息をして、こめかみには脂汗が浮かんでいる。

「少しだけ……少しだけ、やっていいだろ」

「大悟」

将は立ち上がった。

「頼む。将。少しだけ。注射じゃなくて吸引にするから……」

「薬はまだ、あるのか」

大悟は苦しい息の下でうなづいた。

「やれよ」

将は言い放った。

「やればいいさ」

将は苦しむ大悟を睥睨しながらさらに続けた。

本当は、将は大悟が残りの薬を取り出したとたん、それを全部奪って処分するつもりだったのだ。

「将、お前、なんてことを言うんだ。俺……本当にやっちゃうよ?」

と泣きそうな顔で訴えた。そして

「お前、友達失格だな、将」

とも付け加える。本当に苦しそうだ。

「友達なら……俺を縛り付けてでも……我慢させろよ」

「大悟……」

「え?……そうだろ、将」

結局、この時点では大悟は持ちこたえた。

ふうふうと苦しい息の下から、大悟は、将の用意した入眠剤を欲しがった。

「眠らせてくれ……頼む。狂ってしまいそうだ」

大悟は、頭を抱えてその苦しみを訴えた。

すでに声はときおり裏返っていて、その異常な苦しみは将からも想像できた。

将は、入眠剤を定量渡した。

「だめだ!こんなんじゃ効かない。倍だ、倍くれ!」

大悟は、錠剤を見るなり大声で叫んだ。大悟から聞いたこともないような大声。

目は四白眼になるほど見開いている。コミカルなほどの……恐ろしい形相。

将は、凍りついた。

……恐ろしい戦いはまだ前哨戦にすぎなかった。

 
 

 
「将、やっぱり効かない。やっぱりアレしかない」

と大悟は立ち上がった。

入眠剤を飲んでからまだ10分も経たないときだった。

「だめだ」

将は大悟の体を抱えるようにしてソファに座らせた。

大悟は、将に向き直ると

「頼む。ちょっとだけでいいんだ!このままだと狂っちまう」

と叫んだ。涙さえ浮かんでいた。

将は首を振った。

……せっかく入眠剤を倍量も飲ませたのに、興奮させたら元も子もない。

将は薬を横取りする作戦を、眠っている間に処分することにしたのだ。

「落ち着け。大悟」

「俺は落ち着いている。冷静だッ!」

これほど逆の状態もないだろうに、大悟は『冷静だ』と叫び、ものすごい力で押さえつける将をはねのけようとする。

これが、元の大悟だったら、将は簡単に飛ばされていただろう。

ここまで痩せた大悟だから将は体重をかけて、なんとか押さえつけている。

「考えてくれ。将。……瑞樹がいってた、ダイエットだって、いきなり絶食するのはいけないって。だから、アレだって少しずつ減らしたほうがいいんだ」

わけのわからない理屈までこねて懇願する大悟。

「頼む。こんなふうに俺を押さえつけるな……、友達だろ」

大悟は、さっきと真反対の懇願をしながら、友情の確認をしようとする。

「将……」

やっと入眠剤が効いてくれたらしい。ようやく大悟は肩で息をしながらも目を閉じた。

静かになると、外の暴風雨の音が激しいものだということがわかる。

将は、大悟を押さえつけていた手をそっと離した。

そのとたん、大悟はカッと目をあけると、バネ仕掛けのように起き上がった。

「大悟!」

大悟は、室内であることを考慮せずに全速力で走って自室に向かった。

「こらっ!待てよ」

将が追いついたときは、大悟は自室でものすごい勢いで昨日着ていた服をあさっていた。

「やめろよ!」

将は大悟の襟を後ろから引っ張った。

しかし大悟はそんな将に肘鉄をくらわせた。将ははずみで転がり壁に背中から激突した。

起き上がった将は、大悟が透明な袋に包まれた白い粉を取り出したのを見た。

「やめろッ!」

将は、横からその薬を引っ張った。

繋がったセロファンの小袋のうち3つが千切られて将の手に奪われた。

大悟の手元には1つだけが残った。

しかし大悟は、将の手の3つを奪い返そうとして、将に掴みかかってきた。

「返せよ!俺のだぞ!返せ」

その眼は狂気に満ちていた。

「ダメだ!」

すると、大悟は少しもひるまずに、将の顔を拳で思い切り殴った。

将はもう一度床に転がったが、反射的に上体を起こした。

殴られた衝撃で頭がクラクラする。顎を生暖かいものが流れるのがわかる。

唇が切れて血が流れているのだろう。

将はそれでも、3つつながったセロファンを後ろ手で、ドアの向こうの廊下に放り投げると立ち上がった。

「それもよこすんだ」

将は唇の血をぐいっとぬぐうと、大悟の手の中にある1つを取ろうとした。

しかし、それは大悟の握り締めた拳の中だ。

「廃人になりたいのか!」

「うるせー!」

「よこすんだ!大悟ッ!」

将は大悟に飛び掛かると、万年床の上に押し倒した。

馬乗りになると体重をかけて大悟を布団の上に押し付ける。

大悟はすごい力でそれをはねのけようとする。

将は両手に力を込めて大悟の首のあたりを布団に押し付けた。

「うっ、ウガッ」

大悟は、苦しげに顔をゆがめながら、あいている左手で、首を締めんばかりの将の腕を掴んだ。

セロファンを握ったままの右手も、必死で将を殴ろうと振り回す。

将は大悟の首を布団に押し付けながら死んでしまうのでは、と気が気でなかった。

だが、力を緩めたとたんに大悟は反撃するだろう。

将は大悟が振り回す右手の拳があたらないように、必死で上体を逸らしつつも動きを見ていた。

……ついに将の左手が大悟の拳をとらえた。

将は、その手をこじあけようとしたが、左手だけでは無理だとわかると、

手の甲に親指を力の限り親指をめりこませはじめた。

「大悟……早く薬を離せ。手の甲が折れるぞ」

「ううっ……」

それでも大悟はなお、苦痛を我慢しようとした。大悟の手の甲の骨が折れる寸前。

崩れた大悟の拳からセロファンがわずかにはみ出したのを将は見つけた。

将は右手を大悟の首から離すと、そのわずかなセロファンの切れ端に右手の爪を立てた。

「クゥッ……」

大悟は自由になった上体を起こし、拳を握りなおして、それを守ろうとした。

セロファンの袋が強い2つの力に引き攣れて……ついに裂けた。

白い粉が、散乱した。

「ゴホッ」

顔の前で粉が散乱した将は思わず吸い込んでしまい、咳き込んだ。

ごく少量の薬は、ほとんど目に見えないほど散乱してしまった。

「俺の、俺の、くすり!」

大悟は悲痛に叫ぶと、馬乗りになったまま咳き込む将をようやく自分から跳ね除けた。

そして、将が廊下に投げた残りを取ろうと、素早くフローリングの上をいざった。

それを見た将は立ち上がると、大悟がそのセロファンの包みに手が届く寸前に、それを蹴った。

蹴られた薬はフローリングの上を勢いよくリビングのほうへ滑っていった。

それを取り上げた将の肩に背後から大悟がしがみつく。

「よこせ!俺のだ」

振り返ると大悟の頬を平手で力いっぱい叩いた。

派手な音がして、大悟の体はリビングになぎ倒された。

将はキッチンに立つと、水を出した。

3つつながった薬のセロファンの袋の端に爪を立てると、ビッと勢いよく裂いた。

薬は、多少散乱しながらも、水に溶けてあっという間に下水へと流れてしまった。

「バカヤロー……、なんてこと、なんてことをするんだあ……」

大悟は薬が跡形もなくなくなったのを見ると、頭を抱えて足をじたばたさせた。

将は息を荒くしながら、流した水を止めることもなく、そんな大悟のようすを見守るしかなかった。

もはや外を襲う激しい暴風雨も他人事でしかない。