第282話 夏の終り(7)

懐中電灯が、濡れた路面を丸く、降りしきる雨を白い縞に照らしているほかは塗りつぶしたような暗闇。

雨音と、雨に濡れた樹木からかぐわしく立つ芳香だけが歩く二人を包んでいる。

さっき降り始めた雨はいっこうに止む気配はない。

ときおり勢いを弱めたと思うと、断続的にどしゃぶりになったりする。

歩けど歩けど両側の原生林も切れ間がなく、舗装こそされているものの、道も曲がりくねっていて、もはや方向もよくわからない。

当てになるはずの星も雨雲に隠されている。

「将、寒くない?」

将のパーカーを着た聡は振り返った。

車を出るときに将が着せてくれたものだが、すでにずぶ濡れのパーカーは用をなしていない。

「大丈夫」

服のまま頭から水をかぶったようになった将は、雨音にかき消えそうな返事とともに聡の手を少し強く握り返した。

こうやって手をつないでいないと、お互いさえも見失いそうな暗闇と雨音。

二人が雨の中、手を取り合って山道を下り始めて、もう30分以上になるだろうか。

 
 

あれから。

どしゃぶりだった雨が少し弱まったのを音で聴き取った聡は、口づけの余韻でぼうっとなっている将にナビをつけさせた。

バッテリーが残り少ないのは承知の上だ。

二人が乗る車が表示されているのはあいかわらず地図にも表示されていない道らしい。

虚しい空白の上に車の印が表示されている。

それでも聡は表示された地図を拡大したり縮小したりして何かを確認しているようだった。

「これさ。直線距離だと、国道まで3キロぐらいだよね」

聡は明るい声を出した。

ナビの画面から放たれた白い明かりに浮かんだ聡の横顔を将は振り返った。

「……てことは、少し歩けば携帯の電波が入るかも」

聡はさらに具体的な希望を口にした。それに対して将は、しばらく黙り込んだのち

「……だけどさ。いまいる道が国道につながってるかどうかわかんないよ」

悲観的なことを口にした。

口づけと抱擁は噴き出す後悔と罪悪感をなだめてくれたけれど、それでも将はいまだ、心を覆う暗い雨雲から脱出できないでいる。

「こんな風にカーブしてるかもしれないし。行き止まりかもしれないし……」

将はナビの画面を指差して、車のあたりでUターンのようなカーブを描いた。

なにせ、今いる道路が表示されていないのだ。それがどこに接続しているのかは、あいかわらずわからない。

ただ、確実に通過してきた国道、県道と、たどりつきたい国道の間の空白に車は表示されていた。

そのたどりつきたい国道までが、直線で3キロぐらいに見えたのだ。

「でも」

聡は即座に言い返す。

「ここにいたってしょうがないでしょ。車がなおるわけじゃないし。携帯の電波がなかったらJAFだって呼べないじゃない。……ほかの車だって全然通らないし」

聡はそういうと、体を将のほうに向けて宣言した。

「将、歩こう」

将はだまりこんで俯いた。

「直線距離で3キロだったら、どんなにぐるぐるカーブしてたって、10キロにはならないはずだよ。……てことは2時間歩けば、国道に出るよ。そしたら電波だって通じるだろうし」

聡はぐるぐる、というところをリズミカルに発音した。

そうすることによって二人がクリアすべき試練をできるだけ軽く明るくしようとするかのようだった。

実際、ナビの光に横から照らされた聡は、やる気まんまんに見えた。

そんな聡のしっかりとした様子を見ると、やっぱり聡は年上なんだ、と思う……つまり相対的に将は頼りない自分が情けなくなる。

「雨、どうすんの。傘ないよ」

ナビで多少明るくなったせいか、フロントガラスに雨粒が次々とくっついて、雫となって落ちていくのが見える。

それにつられて、さらに否定的なことを言ってしまう自分が将は情けない。

「いいじゃん、夏だし、ちょっとぐらい。水遊びしたと思えば」

聡は笑いながら将の腕を軽く叩いた。

「懐中電灯もあるんでしょ」

「それはあるけど……」

昨日、SAで日よけシートを探したときに懐中電灯を使ったのを聡は見ているのだ。

「じゃあ、行こう!今7時。きっと9時にはJAFに連絡できるよ。……よーし、まずは車を動かすぞー」

聡は力強く声をあげると、意を決したようにドアを開けて外に出た。

とたん、開けたドアから一瞬雨音が強く響いた。フロントガラスに映るよりそれは激しく思えた。

「将、ギア、ニュートラルにして。サイドブレーキも解除して」

聡は雨に打たれながら、運転席の窓の外から叫ぶように言った。

将はしぶしぶギアをローからニュートラルに変えた。サイドはもともと引いていない。

今、車は1.5車線のほぼ真ん中にいる。

このままだと万が一、対向車や後続車がやって来たら通行を妨げてしまうだろうから、聡はこれを端に寄せようとしているのだ。

「どうせ誰も通らないよ、こんなところ」

面倒臭い将は反論してみた。このまま放置してもいいだろう、ということだ。

「でもさ、朝になったらわかんないし」

つまり時間的に、最悪明日まで放置しておく可能性まで考えているらしい。聡はそういって車の後ろにまわった。

「……ライトは小さくして。バッテリーないんでしょ……。将はハンドル切って」

叫ぶように指示する聡の頭に肩に雨が刺さるのが見える。そのまま聡は車体を押し始めた。

バックミラーに、赤い光りに浮かび上がる聡が映った。

雨で髪がみるみる濡れていくのがわかる。

「よいしょ、よいしょ」

声をかけながら聡は体重をかけるべく、体を車に押し付けた。

しかし車はまったく動かない。

サンダルと素足の接点が雨ですべって力を込めにくいというのと、道は前への下り坂のはずだが、たいして傾斜していないらしい。

サイドを引かなくてもいい時点で将にはそれがわかっている。

「くう~っ」

それでも聡は踏ん張った。

将は、運転席に座ったまま、バックミラーで聡のようすを窺っていた。

――女一人の力で、車が動くはずがない。バカだな……。

とさえ思う自分を、次の瞬間に嫌悪する。

大好きな聡が頑張ろうとしているのに、こんなことを思うなんて。将はますます沈み込む。

それに自分が降りれば、少しは軽くなる。

わかっているのに、なぜか将は動けなかった。

このままここで聡と二人でいてもいい。面倒なことをしてまで、助けを呼ぶ必要はない。

と将の心は刹那に走っていたのだ。

それでも聡は、一向にあきらめないらしい。

将はこんどはミラー越しでなく、振り返って聡を見た。

ガラス越しに見える聡はずぶ濡れで、顔をコミカルなほどにくちゃくちゃにして頑張っている。

車が、ごくわずかに動く気配があった。

将が振り返ったのがわかったのか、聡は力を込めながら微笑んだ。

聞こえないけれど『もうちょっと』と呟いたのがわかった。

それを見て、ふいに将の心は温かくなった。

「アキラ」

ついに将は呼びかけると、車を降りた。

降りたとたん、頭や肩に雨が突き刺さってくる。標高が高いせいか、それは思ったより冷たかった。

「……俺が押すよ。アキラは、前でハンドル切って」

テイルランプの赤い光に照らされて聡は嬉しそうに頷いた。

雨で濡れそぼった肌や髪が赤く輝いている。

山に降る雨は、将の体に冷たく染み込むようだったが、心は温かかった。

それでも聡はドアを開けた状態で、運転席のフロントガラスの枠に手をかける。

一緒に押して動き始めたらハンドルを少しずつ切ろうというわけだ。

「……いしょッ」

将と聡が力をあわせたと同時に車はたやすく動きだした。