第302話 偽りの父

聡が入院。将はシートから飛び上がらんばかりに驚いた。

まさか流産。

「それで、容態は!……子供は」

あわてて訊き返してしまった将は

「……って、鷹枝くん、アキラ先生の妊娠知ってたの?」

というみな子に問いにハッとした。

聡のお腹の子供の父親が将であることは誰にも秘密。

康三との約束をかろうじて思い出す。

『今度はことがことだ。芸能活動のときのようになしくずし、というのは絶対にないからな』

と康三は念を押したのだ。

「い、いや。具合が悪そうだから……まさかと思ったんだけど」

将は自らの直前のセリフを、まったくのあてずっぽうに仕立てるのに骨を折った。

プロの俳優らしくない棒読みになりそうになるのを、大げさに驚くことと

「ウソだろ?マジで妊娠?」

と言い訳がましく付け加えることで誤魔化す。

「婚約している人との間に赤ちゃんが出来たんだって。鷹枝くん、アキラ先生が婚約してるって、知ってた?」

――ああ。

将はタクシーの天井に向かって大きくため息をついた。

――そういうことにしたのか……。

聡らしくない策略だが、将はそれがお腹の子の父親が将であることを隠すためだということがすぐにわかった。

「いや……、あ、うん」

将は知っていたことにするべきか、知らなかったことにすべきか悩んだあげく、

「なんとなく、知ってたけど。外国にいってる人だとか言ってたかな」

と博史のことを頭に思い浮かべて、偽の婚約者に仕立てる。

「そう……知ってたんだ。アキラ先生、鷹枝くんに話してたんだ」

聡のお腹の子は、将の子ではない。

海外赴任中の婚約者の子供だということにする……たしかにこうすれば、将が疑われることもないし、

相手は海外赴任中だから周りに見えなくても不自然ではない。

「うん……」

将は自分のことを、みな子にどういう設定と説明するべきか悩みつつ、携帯をあてた頭ごと頷く。

「アキラ先生、婚約者がいるのに……鷹枝くんと付き合ってたんだ」

「あ、いや」

みな子の口調にショックと、かすかな怒りが見えて将はあせった。

「お、俺が、強引にアキラに迫ったんだ。婚約者がいるのに」

「でも……サイテー」

携帯を通してでも、みな子の聡に対する軽蔑が見えるようだ。

「いや、だからアキラは悪くないんだ」

将の弁解は、遠くのみな子にはまるっきり届かないようだ。

「鷹枝くんが可哀想」

「いや、違うんだ」

将はみな子にすべてを話してしまいたくなる衝動を抑えるのに苦労した。

「とにかくアキラは、俺があんまりしつこいから、ときどき付き合ってくれてただけなん……」

「鷹枝くん」

みな子は、将の弁解の途中で、凛とした声で割って入った。

思わず将は黙る。

「まだ、先生のことが好きなの?」

「好き……だけど」

みな子の質問に、考えもしないで……自然に答えが出てしまった。

本当は『もう諦めた』などと答えたほうが安全だとわかっているのに。

聡に対しての想いは……ウソをつけない。

しばらく、携帯を持ったままの将に、冷え込み始めた大地を走る車のエンジン音と振動だけが響いた。

「わかった」

みな子は静かにそれだけ言うと、電話を切った。

将は携帯を持った手を膝におろすと、再びため息をついて外を見た。

丘に沿って、何かの儀式が行われるように一列に並ぶポプラ並木。その上に爪のような月が鋭く輝いていた。

ただ、聡の容態が心配だった。

 
 

みな子は、携帯をベッドに投げつけた。

携帯はベッドの上でバウンドすると、床の上に滑り落ちた。

携帯の代わりに自分の体をベッドに投げ出したみな子は、枕につっぷした。

――信じられない。

みな子は目を固くつむる。

その瞼の裏には、あのバレンタインデーの前日のようすがいやがおうにも蘇る。

あのとき、改札を通った聡は、頬を輝かせて将に駆け寄っていった。

嬉しそうに抱き合っていた二人。

それをまのあたりにして嫉妬に泣いたみな子だったが、狂おしいほどの感情が冷めてしまうと、そこには二人への憧れが残った。

年こそ離れているけれど、背が高くて大人っぽい将と、細身だけど桃のような可憐さを持つ聡はお似合いだった。

あんな風に、誰かと愛し合いたい。

そんな想いは、猫を見にいったときに聞いた

『本当に好きだから、今は離れてる』

という将の純粋な気持ちを耳にしてますます募った。

みんなに秘密だからこそ燃え上がる恋。そんな二人だからみな子は、身をひいたのだ。協力だってしたのだ……。

なのに。

みな子は爪を立てると枕を握り締めた。

こともあろうに聡は……将と婚約者の二股を掛けていたのだ……。

きちんとした婚約者がいながら……のうのうと、淑やかな教師の顔をして、年下の生徒と遊んでいたのだ。

そんな聡なのに、将はまだ懲りずに好きだという。

――憎い。

みな子の心の中に真っ黒な憎悪が沁みこんでいく。

――先生が憎い。

みな子は胸の中で激しく増殖していく憎悪をなすすべもなくもてあましながら、横たわっていた。

 
 

「アキラ先生」

看護士の山口は、いったん細く開けたドアから顔をのぞかせるようにおどけると、

次の瞬間には主任としての職務を遂行すべく、きびきびと入ってきた。

見知った顔に、聡は化粧気のない顔をほころばせると、起き上がった。

「あ、起きなくてもいいのに。……だいぶ顔色はよくなったようね」

「心配かけて、ごめんなさい」

昨日、ひどいつわりのため再び職員室で倒れた聡は、この病院に運び込まれたのだ。

「いいのよ。あたしたちはこれが仕事ですもん」

そういいながら山口は、デジタル体温計を聡にわたす。

山口が働いている総合病院の内科に聡は入院していた。本来は産婦人科に入院すべきなのだろうが、あいているベッドがなかったのだ。

内科のほうも空きベッドがなく、聡は個室を使っている。

「気分のほうはどう?」

「だいぶよくなったわ」

「でも、びっくりしたわ。アキラ先生に婚約者がいたなんて……しかも赤ちゃんができたなんて」

山口はいたずらっぽいまなざしを聡に送った。

聡は何も言えずに、さも渡された体温計を腋の下に挟むためを装うべく、俯いた。

「てっきり、あの鷹枝くんと付き合ってるのかと思い込んでたわ。……ま、よく考えてみれば、教師と教え子でそんなことはありえないんだけど」

山口のほうは、まるっきり悪気はないらしい。その証拠に次の点滴の準備によどみがない。

「でも、妊娠初期は用心しなくちゃ。彼氏は日本に帰って来れないの?」

「忙しいから……」

ウソをつく聡の胃は、また焼けつくように痛む。

「そう。ご両親も萩じゃ来れないしねえ。……まあ、ここではのんびり気楽に過ごしてね。それが一番の薬なんだから。夕食はまたゼリーしか食べられなさそう?」

「ごめんなさい……」

「あたしに謝らないの。いちおうお粥と、スープも用意するから、食べるように努力してね。いつまでも点滴に頼れるわけじゃないんだから」

そういいながら、山口は聡を横たわらせると点滴の針を腕に刺した。

透明な管に、紅い血が少しだけ逆流するのが見えて……やがて点滴液が落ちるのと共にその紅さは見えなくなった。

「じゃ、帰りがけに寄るわ。今日は日勤だから」

山口は踵を返す歩調までもテキパキと去っていった。

 

聡は、しばらく点滴の液がぽとぽとと管へと落ちる様子を見つめていたが、やがて視線を天井にうつす。

おとつい。

聡は点滴をしていないほうの手で下腹をそっとなでた。

腹はわずかに脈打っているものの、あいかわらず平らなままだ。

だけど、ここにはもう3ヶ月にかかろうというお腹の赤ちゃんが育っている。

……この子の父親を、『海外赴任中の婚約者』にしようというたくらみを持って来た、冷たい目の男のことを聡は思い出していた。

その冷たい目は、どこかで見たことがあるような気がしたが、聡は思い出せなかった。

男は、おとついの夕方、勤めが終わって校門を出ようとする聡をベンツで待ち伏せていた。

『鷹枝康三の秘書の毛利といいます。少しだけお話をさせていただいてよろしいでしょうか』

仕立てのよいスーツを着て、あくまでも物腰も柔らかく、礼儀正しかった。

だが、拒否はあくまでも許さないという毅然さを、眼鏡の奥の瞳に光らせながら、毛利は聡を車内に招いた。

毛利は、聡を一流レストランの個室に連れて行った。

もう夕食が出てもおかしくない時間だったが、運ばれてきたのはハーブティだった。

『お体とお腹のお子様に触らないようなブレンドを特別オーダーいたしました。安心してお召し上がりください』

威圧感は揺るがさないまま、毛利に勧められて聡はそのお茶を口にした。

しかしそのお茶は、威圧的な雰囲気の中でもそれは素晴らしく旨く、聡は久しぶりに

『美味しい』

という言葉を口にした。毛利は油断した聡に切り込んできた。

『今日、あなたさまをお呼びだてしたのは、他でもありません……』

……お腹の子供の父が将であることは、鷹枝家の指示があるまで隠しとおすこと。

それは聡にも異存はなかった。

最初からそうするつもりだったから。

頷いた聡に、毛利はさらに

『そうはいっても、父親もなくしてお腹が大きくなるのは、世間が納得しないでしょう』

と身を乗り出してきた。その口調といい、むしろこちらのほうが本題に見えたほどだ。

『それで、です。……聡さんには、以前婚約者がいらっしゃったでしょう』

聡はどうして、将の父親の秘書が、聡の以前の婚約者を知っているのか、といぶかった。

だが、そんな謎を自らあかすはずもなく、毛利は続けた。

『お腹の子供の父親は、そのときが来るまでは、海外赴任中の婚約者だということにしていただけませんか』

そういうと、毛利はすかさず分厚い封筒をテーブルの上に出すと、厚地の光沢のあるテーブルクロスの上を、聡のほうへゆっくりと滑らせた。

『100万入っています。足りなかったら、まだお支払いします』

聡は封筒を一瞥すると、その見開いた大きな瞳を毛利の眼鏡のあたりに向けた。

『どうして……』

『出産費用と、秘密の守秘への報酬です』

毛利はあくまでも事務的だった。

『そんな……』

戸惑う聡に、毛利はさらに付け加える。

『足りないようだったら、さらにお支払いいたします。ただし』

毛利の目が……小刀で削ったような細い目が鋭く光る。

『秘密が、こちらの指示より早く世間に漏れてしまった場合は、お腹の子もろとも安全を保障しかねます』