第306話 意外な救い(4)

忙しくて家庭を顧みることもままならない夫に代わって、純代は将の面倒を見ることになった。

つまり新婚まもないのに、連れ子の世話に忙殺されるという状況になったのだ。

「将は、明るくて素直で、人を気遣うことができる子供でした。勉強も運動もできて、わたくしは参観日などで学校に行くたびに誇らしかったものです……」

夫と居るより、将といる時間のほうが長いような新婚生活。

だが、それを語る純代は当時を懐かしむべく、陽だまりにいるような穏やかな笑顔を浮かべていた。

それでも政治家一家に生まれ、内閣閣僚である父の忙しさを目にしている純代だが、自分の夫となるとやはり少し寂しい。

まだ20代の若い純代だ。自分のやり方でいいのか途方に暮れることもあった。

かといって実家に頼りすぎるのは、純代の自尊心が許さなかった。手を抜くのも嫌だった。

そんな純代を精神的に支えたのは巌である。

継母と継子の間をとりもつべく、巌はたびたび将と純代の元を訪れた。

手作りの野菜を届けるという名目もあったが、将に会いたかったのだろう。

その巌は、ことあるごとに、

『純代さんはよくやっている。うちには過ぎた、いい嫁だ』

と絶賛した。

「大おじいさまの褒め言葉が、あの頃のわたくしにはどんなに救いだったかしれません」。

純代は巌に励まされて、政治家の妻業というプライベートまで侵食してくる仕事と子育てとに健闘した。

まもなく実子の孝太が生まれて、ますます忙しくなったが、今度は将が孝太の世話を積極的に手伝ってくれた。

赤ん坊のうちはいいが、歩き始めた幼児は片時も目が離せない。

そんな孝太の、聞き分けのないやんちゃぶりにも将は辛抱強く付き合ったのだ。

腹を痛めた孝太は本能でいとおしかったが、純代は理性で将と平等に扱うように心がけた。

夫は相変わらず忙しかったが、鷹枝家は順風満帆に見えた。

 

そんな親子の蜜月を壊したのが、あの爆破事件だった。

「あれは1時すぎでした。犯人は夫の在宅時を狙ったんだと思いますが、幸い夫は帰っておらず、わたくしは先に休んでおりました」

ベッドに入った純代だが、どういうわけか、なかなか寝付かれず、手洗いに立ったそのときだった。

純代は入ったばかりのトイレの個室の中で、激しい衝撃を感じた。

地震かと思った。

あわてて飛び出した純代は、自分が戻るべき方向が、非常灯に照らされた瓦礫の山になっていることに仰天した。

いや、それ以外の方向も変わり果てた姿に崩れており、そこは住みなれた我が家ではなかった。

――逃げなくては。

だが純代はネグリジェ姿だった。こんな姿を非常時といえど一般にさらすわけにはいかない。

純代は今にも崩れそうな自宅の中でややマシだったバスルームとその脱衣所から素早くガウンを見つけるとそれを上に着た。

暗がりの中、手探りで髪も整え、口紅だけをぐいと引く。

なんとか恥にならないところまで、素早く自分を整えた矢先。孝太の泣き声が聞こえて、純代はハッと我に返った。

――孝太、将!

こんなときに身支度にかまけていた自分に激しい自己嫌悪を感じると同時に純代は夫婦の寝室の対面にあった子供部屋に向かった。

すでに火が出ているようだった。

元々廊下だった場所に積み重なった瓦礫の隙間から明るい炎が透けて見える。

廊下から子供部屋にたどりつくのが無理だということを瞬時で悟ると、純代は無我夢中で、リビングから庭に脱出し、外側から子供部屋に向かった。

乾燥した冬である。明るく燃えだした火があたりを照らし始めていた。

子供部屋には、爆風で吹き飛んだらしいガラス窓から容易に中に入ることができた。

窓に近い半分ほどの天井が奇跡的に崩れず、孝太はそこで泣いていた。

純代は孝太を抱き上げると、将を探した。将は足元にいた。

運が悪いことに、将は中学受験の勉強をしていたのか、将は2階から潰れてきた天井と柱に下半身を取られた状態でうつ伏せになっていた。

たいした怪我はしていないらしく、脱出しようと必死でもがいているが、何かが引っ掛かっているのか足が抜けないらしい。

純代は見あげる将と目があった。

『助けて……助けて、お母さん』

将は目で縋った。

純代は、将の上に積み重なる柱や瓦礫をどけなくてはと思った。だが、柱はどうみても純代一人の力で持ち上げられそうもない。

そして、火のまわりは早い。ちょうど風向きが変わって、火勢がカッと強まった。

まるで純代を照らし出すかのように。

瓦礫に一斉に火が移る。……ついに将を押さえつけている柱に火が燃え移った。

――もうダメだ。

なすすべがない、と判断した純代は、将に背を向けると一目散に駆け出した。

『お兄ちゃああん!ヤダヤダ!お兄ちゃんも助けてよお……』

叫ぶ孝太は、純代の良心の責めでもあった。

――仕方がない。仕方がないのよ。

孝太に、そして将に心で弁解しながら、純代は無我夢中で走った。気がつくと純代は消防隊員に抱えられるようにして安全な場所に居た。

『お父さん、お兄ちゃんが、お兄ちゃんが』

呆然と突っ立っていた純代は、孝太の泣き声で夫がそこにいることを知った。

『あなた……』

『純代。将は……。将はどうした』

康三はあわてて帰ってきたらしい。髪の毛が乱れて、すすで黒く汚れた顔の中で白目が際立つほど目を見開いている。

純代は何と言ったらいいかわからず黙った。

『将は……まさか、中にいるんじゃないだろうな』

こんな康三を、純代は初めて見た。ふだんは鋭い印象の目を丸く見開いて、瞬きもせず、純代に詰め寄ってくる。

恐ろしかったが、黙ってやりすごすのは卑しい者がすることだ、というプライドが、かろうじて事実を口にさせた。

『まだ……中にいます。助けられませんでした』

『バカヤロー!』

康三は間髪入れずに叫んだ。

上流に育った純代はこんな罵倒を受けるのは初めてだが、何せ非常時である。

罵倒より、今の状況事態がそもそも衝撃的な中で、その乱暴な言葉についてのショックは小さいものの、純代の心に響いた。

『申し訳ありません、あなた』

純代は目を固くつむって頭を下げた。

『それで、将は、まだ中にいるんだな』

康三の目の中には燃え上がる家だけが映り、純代の謝罪など眼中にないようだった。

次の瞬間、康三は家に向かって駆け出した。

だが、すぐに消防隊員に止められる。

『離せ!息子がまだ中にいるんだ!離せ!』

激する康三を止めるのに、消防隊員や警官数人が必要なほどだった。

『落ち着いてください!今救出に向かいましたから』

体を押さえつけながらの必死の説得にも、康三は

『将!……将』

なおも息子の名前を繰り返し叫んでいた。いつしかその目からは涙が流れていた。

ふだん感情をあまり見せない夫が泣いている。

普段、あまり実の息子への愛情をあらわにしない夫を、純代は少し冷たいと感じていた。

もっと息子を可愛がるべきだ、と忙しい夫を理解しながらも、純代は常日頃から思っていたのだ。

だが。夫はやはり、息子を愛していたのだ。自分を犠牲にしてもかまわないほどに。

純代は、自らも涙を流しつつ将の救出を祈りながら……もし将が助かったら、自分と将の今後はどうなるんだろうという予感に震えていた。

……そしてその予感は的中し、将は自分を見捨てた純代を許すことなく、非行に走ったのである。

 
 

「私は、もう将とはダメだと思っておりました。所詮継母と継子は、一度こじれたら通い合うことなどない、と……。ですけど、大おじいさまが最期に言い残したことが心に刺さりました」

修復のしようがない亀裂に誰よりも心を痛めていたのは巌だった。

巌は何かと、荒れた将をなごませようと努力し、かつ荒れ切ってしまわないように最期の砦となって将の良心を守っていたのだ。その巌が亡くなって。

「わたくしは、もう一度、将の信頼を取り戻すべく努力してみようと思ったのです」

純代はすがるような瞳で、ベッドの上の聡を見つめた。

「将が、学校に行くようになり、そして家にも戻ってきたのは……いいえ。

そんな形式的なことではなく、人間の心を取り戻し始めたのは、先生のおかげだと感謝しています。

そりゃ……学校の先生とお付き合いするようになったのは決して褒められたことではないですけれど……。ですけどね。聡さん」

純代は、『先生』ではなく、聡の名前を呼んだ。

聡は……将は、もともと将だったのだ、自分のおかげなどではない、と異論を唱えたい気もしたが、それが本題でないことはわかっていたのでその先に語られるべきことを待った。

「わたくしは、産みの親なら絶対に見捨てない場面で、将を見捨ててしまいました。だから……私は……今度は、世間の皆が……たとえ夫が反対することでも、私だけはとにかく将の味方をしようと思ったのです」

純代の瞳には強い決意があった。純代は椅子から立ち上がると続ける。

「先生、いえあきらさん。たった一人でお腹の中の子供を大きくするのは並大抵のことではないと思いますけれど、わたくしがついています。わたくしができるだけのことをしますから、どうか将のためにも頑張ってください。お願いします」

今度は純代が深く頭を下げた。

「そんな、鷹枝さん……」

つまり、自分たちを認めるというのだろうか。

思いがけない純代の言葉は、聡をとまどわせた。

純代は聡の手を取った。

「大おじいさまも認めた、何よりも将自身が選んだ相手です。たとえ、将が東大がダメでも……何年かかっても私が認めさせます」

聡は大磯での、巌の遺言を思い出した。

将を頼む、と懇願した巌。

この、早すぎた妊娠を……生きていたとしたら巌は許してくれるのだろうか。