第324話 秘密の年越し(1)

歴史をやっていた将は、顔をあげた。

カーテンの隙間から白い明かりがもれている。

遮光カーテンを開ける。窓の前に立つ、朝の光を浴びて濡れたように光る庭木が大晦日の朝を告げていた。

今朝はついに徹夜をしてしまったらしい。充実感に将は伸びをした。

25日からずっと仮眠しか取っていない将だ。

眠さと疲れは限界のはずだが、まだ力がみなぎっているようだ。

それも、そのはず。

大晦日の今日は、マンションのほうで、聡と二人で『合宿』することになっているのだ。

 
 

それを将が提案したとき聡は

『大丈夫なの?』

と案の定心配した。

膨らみ始めたお腹のせいで、実家の萩にも帰れず、たった一人で正月を迎える聡。

将はそんな彼女が不憫で……それを思いついたのだ。

正月は家族と迎えるもの。だから、将来家族になる将と聡が一緒にすごすのは当然だ、と将は考えた。

ちなみに元旦の初詣企画も、二人きりでの初詣が叶わないから、クラスメートを巻き込んでみんなで、という形にしたのだ。

聡と結婚し、二人の子供が生まれる年の始まりだ。

将は、聡のためなら、聡を幸せにするなら、どんなことでもやろうと決意を新たにしていたのだ。

『親には予備校のカウントダウン講義ってウソいうし。あるんよ、本当にそういうの』

そういって将は電話口で笑ってみる。

なんでも予備校では、大晦日から元旦にかけてオールナイトで講義をして、受験生の士気を高めようというイベントがあるらしい。

予備校の講師も大変ね、という聡の同情は同業者としての感想らしい。

『俺は、アキラと二人でカウントダウン講義』

甘えた口調になる将に、聡は

『でも、将。記者とかに見張られているんじゃないの?もうすぐドラマ始まるんでしょ』

なおも慎重だ。

『うん。だから』

将は、”二人きりのカウントダウン講義”の会場として前に将が住んでいたマンションを提案した。

『もう3ヶ月もあっちのマンションには帰ってないから、絶対ノーチェックのはず。俺自身は誰かにおっかけられてるはずだから、アキラ、先に入って鍵かけといて。帰りも俺が先に出てアキラが後に出れば絶対にバレない。……だから、ね?いいじゃん?』

時間差攻撃を訴えて甘える将に、聡はやっと折れてくれた。

 
 

午後3時すぎ。将は出掛けるべく着替えて部屋を出た。

「じゃ、行ってくるから。帰りは明日の夕方だから」

お手伝いさんと一緒に台所にいる純代に声をかける。どうやらおせち料理づくりも大詰めを迎えているらしい。

巌がいたころは、一族は皆、大磯に集合していたが、まだ喪中にあたる今年は慎ましく各家庭で、ということらしい。

それでも本家にあたるここに来客が多いことはわかっている。

だからおせち料理も、大量に、かつバラエティ豊かに用意しなくてはならない。

お手伝いさん一人と、親戚の若いお嫁さんの援軍がありながらなお、純代は忙しそうだった。

ちなみに『カウントダウン講習』のことは前もって言ってある。

「あ、将。待って」

呼び止められて将はギクッとする。

「何?」

無視すれば逆に怪しまれる……と将は嫌々ながら立ち止まる。

割烹着姿の純代は、いそいそと3段重ねの重箱に風呂敷をかけ、それを持ってきた。

「これを持っていきなさい」

「えー?」

予備校の講習に弁当なんか、と将がさらなるウソを口にする前に

「全部、無農薬野菜だから。お肉は米沢牛、お魚も天然ものよ」

純代は唇に少しだけいたずらっぽい微笑を浮かべた。

「聡さんには、うちの味だからって伝えて。……それと、タクシーを使いなさいな」

将はぽかんと口をあけたまま、風呂敷包みを受け取った。

「お父さんには内緒だから」と純代は最後に付け加えると、にっこりと微笑んだ。

 
 

昼下がりの商店街は、食材の買出しをする人でそれなりに込み合っていた。

またその客を見込んで、店々は店先にワゴンを連ねて、乾物や野菜、しめ縄を積み上げている。

31日にしめ縄は遅いのでは、と地方出身の聡は思ったが、まだまだ飛ぶように売れていく。

ふだん、実家に帰る聡が初めて目にする東京の年の瀬だ。

買い物をする人々の群れの中を、聡は膨らみ始めたお腹をかばうようにしてすり抜けながら、目的のスーパーに向かう。

まだかばうほどではないけれど、動き始めた将の分身に、聡はいつもより行動が慎重になっていた。

今日の、二人の合宿の食事について、将は

「何もしないでいいよ。聡といられれば」

と言ったが、買い物をしなければ年越しそばもなければ、それに入れるネギもないありさまだ。

まだ食べきれずにいた、クリスマスにもらったハルさんの冬野菜は鍋にでも入れようと、もって来ていたが、それだけでは食べ盛りの将には足りないだろう。

だから聡は、いったん将の部屋に荷物を置くと、もう一度商店街に出てきたのだ。

鍋には唐揚げでも付けるか。

それとも、そばを具沢山にするか。

考えながら歩く聡は、ただでさえ例年より相当温かい小春日和にうっすらと汗をかいた。

着ているコートがうっとおしくて、スーパーにつくなり脱いでカートに入れて一息ついた聡は、みずみずしい果物に心を奪われる。

早くも並ぶイチゴのパックに思わず手を延ばす聡に、懐かしい声がかかった。

「アキラちゃん?アキラちゃんだよね」

聡は驚いてイチゴのパックを手にしたまま振り返った。

そこには、去年までアルバイトしていた弁当屋のおかみさんが立っていた。

「おかみさん……」

「やっぱりアキラちゃん……」

背の低いおかみさんは、アキラを少し見上げる格好になる。が、聡が恐れていたとおり、その視線は聡の顔とお腹を往復し始めた。

クリスマスイブに胎児が動いて以来、聡のお腹は一回り大きくなった。

マタニティではない服で着られるものはもはや少数になり……誰が見ても妊婦だということがわかる聡である。

「どうしたの。そのおなか」

聡は顔をこわばらせた。

「……おかみさん」

そのとき、後ろを勢いよく通り過ぎた主婦に押されて、聡は少しよろける。

おかみさんは転びそうになる聡を、あわてて支えると

「ちょっと。気をつけなさいよ!」

と押した主婦の後姿に向かって怒鳴りつけた。しかしその主婦は謝ることもなく人ごみに消えてしまった。

「……まったくもう。大丈夫?」

「はい……」

おかみさんは、何と声をかけたらいいのかわからないようで、二人の間にはスーパーの特売品を告げるアナウンスだけが通り過ぎていく。

妊娠してからというものの、お弁当屋には顔を出していない。

毎年恒例の黒豆も、今年は実家に帰らないから、と断ってしまっていた。

なぜなら……このお弁当屋の夫妻には『海外にいる婚約者の子供』という嘘が通じないことがわかっていたからだ。

「何を買うの?」

おかみさんは、これ以上聡のお腹には触れずに、いつもの調子で話し掛けてきた。

「あ……お肉とか。果物とか……、あ、おそばも」

「お肉だったら、表のお店のほうが安くていい肉だよ。果物は……みかんでよかったら、うちの里から送ってきたのが山ほどあるから分けてあげるよ。そばも手打ちのをあげるよ」

おかみさんは親しげに聡の手を引っ張ろうとした。

「そんな……いいです」

遠慮に隠していたバツの悪さが加わって、聡は目の前で手をぶんぶんと振った。

「いいって。遠慮しなさんな。あ、あんたの好きな黒豆もわけてあげるから、店においで」

おかみさんの力強い手に、聡がかなうはずがなかった。

 

大晦日の今日は、昼までの営業だったという弁当屋のシャッターを背の高さまで中途半端にあげて、おかみさんは聡を中に招き入れた。

店の中は大掃除も早めに済ませたのか、こざっぱりとしている。

「はい、黒豆」

おかみさんは厨房に入ると、ステンレスの大型冷蔵庫の中から瓶を取り出してカウンターに置いた。

ガラス瓶の中で、黒い煮汁に沈んでいる大粒の黒豆の姿が透けて見えている。

「おかしいと思ったんだよね。アキラちゃんが実家に帰らないなんて」

おかみさんは、さらに弁当を入れる白いビニール袋の中にみかんを気前よく入れていく。

「それで、おなかの赤ちゃんは、あの……山田さん、じゃなくて官房長官のお坊ちゃんの子供なの?」

いきなり本題を切り出したおかみさんに、答えられない聡は下を向くしかない。

それでおかみさんは、聡のお腹の子供の……世間的に許されない父親が誰かわかってしまったらしい。

いっそう真剣な顔になる。

「そうなんだね。……それで、学校は続けてるんだね」

それだけはうなづくことができた。

「学校には、何ていってるの」

つまり、教え子の子供である事実をどう隠しているのかを、おかみさんは訊いているのだ。

「……前の婚約者の子供で……籍を入れたことにしてるんです」

聡は息もたえだえになりながら、なんとか答える。

「そう……」

おかみさんは深くため息をついた。

それだけで、ことのおおよそがわかったようだ。

「萩の親御さんにも内緒なの?……独りで産むの?」

責めることなく、おかみさんは聡を本気で心配しているらしい。

下をむいた聡の顔をのぞきこむようにかがむ。

……今の聡には、本当にわからないのだ。

将が東大に合格すれば、本当に結婚できるのか。合格しなかったらどうなるのか。

5月にこの子が生まれるとき、自分はどうなっているのか……まるでわからないのだ。

聡は右手を膨らんだお腹にあてて、立ち尽くしていた。

お腹の胎児だけが、また少し動く。

まるでそれが見えたようにおかみさんが口を開いた。

「……今、何ヶ月なの?」

「……6ヶ月に入ったところです。あの」

聡はおかみさんに向き直った。

「このことは、店長には言わないでください」

聡の必死の形相に、おかみさんは目を見開く。喉元を飲み込んだ息が通っていくのがはっきり見えた。

「お願いします」

聡は深く頭を下げた。

一呼吸置いたあと、聡はおかみさんに抱えられるようにして、下げた頭を起こされた。

「……誰にも言うもんかね」

優しい視線が聡に注がれている。

「あんたが困るなら、うちの人にも、誰にも言わないよ」

温かい瞳。少したるんだ二重瞼が……目を取り巻く小じわが……今までの苦労を刻んだその小じわが、温かさをひときわ信頼できるものにしていた。

「すいませんっ……」

聡は申し訳なくて、再び頭を下げた。熱い水分が逆流したように目の裏に集まってくるのがわかる。

「それより、アキラちゃん」

おかみさんは聡の背中を優しくぽんぽんと叩く。

「赤ちゃん生むのに、困ったときはいつでも呼びな。あたしがなんでも手伝ってあげるから。……大丈夫だって。いざとなったら子供なんて勝手に育つんだから……」

おかみさんは、聡が子供を独りで産む覚悟をしていると、勘違いしたらしい。

「おかみさん……」

だけど違うとも言い切れない聡は、もう耐えられなかった。

必死で耐えていた不安に優しさを注がれて……決壊を破ったように、瞳から涙がいっせいに溢れた。

そんな聡の肩を、おかみさんは背伸びをするようにして抱きしめた。

 
 

 
ところで、二人は気付いていなかったが、シャッターを背の高さだけに開けた弁当屋をのぞきこむ男がいた。

年の瀬の商店街には明らかに不似合いな、鋭い目付きは隠しようがなかった……。