第327話 秘密の年越し(4)

無意識に聡のぬくもりを探して……将は目が覚めた。

元旦の朝はとっくに明るくなっている。

聡は、どうやら先に起きてキッチンにいるらしい。それらしい香りが漂ってくる。

しかしそれだけでは心配で、将はベッドを飛び降りるとリビングダイニングへ駆け出た。

「あ、将。おはよう」

柔らかい陽射しの中、皿を並べながら聡が振り返る。

それをみて、ようやく将は安堵のため息をついた。

「どうしたの?血相変えて」

「なんでもない」

そういいつつ、将は聡に触れずにはいられない。

その柔らかい感触と温かなぬくもりを肌で確認して、ようやく、心から安心することが出来た。

「どうしたの?いったい」

「なんでもないんだ」

……嫌な夢を見ていた。

夢の中で将は悪夢にうなされていた。

夢だとわかっているのに目が覚めずに苦しんで……さんざん苦しんだあげくようやく目が覚めて、そこに聡がいない。

『アキラ!』

大声で呼んで探し回るが、どこにもいない。

真っ暗で寒い荒野にたった一人で取残されて……やがてそれは夢だと気付く。

しかし夢だとわかっているのに目が覚めない。

そんなメビウスの輪のような、悪夢。

「将……お湯が沸いてる」

その声にようやく将は聡を離した。……だけど夢の余韻か、手放してはならない気がしてならなかった。

 
 

「……じゃあ、あけましておめでとうございます」

おとそが入った杯を軽くあわせる。

テーブルの上には、聡がつくったお雑煮と、純代がつくったおせちがきれいに盛りなおされて並んでいる。

外は穏やかな晴天らしい。エアコンを点けなくても柔らかな陽光に満ちた10階の部屋はすでにサンルームのような温かさになっている。

そして聡の笑顔……まさに理想的な元旦の朝だ。悪夢とはまるで逆の。

『一年の計は元旦にあり』

巌の言葉を思い出す。

元旦の過ごし方でその1年が決まるんじゃ、と巌はよく言っていた。

こんな満ち足りた元旦なのだから、今年はきっと聡と一緒に幸せになれる。

将はさっきの悪夢を忘れるべく、自分に言い聞かせる。

 

「……将ってば」

聡が軽くにらむ。どうやら聡が何か話し掛けたのを聞き損ねたらしい。

「何?」

「何時までやったの?勉強」

年があけるまでは聡も勉強に付き合っていたのだが、クリスマスのときと同様、お腹の子供に悪いと先に寝かされたのだ。

「7時30分くらいかな。初日の出を見て、寝た」

「えー!3時間寝てないじゃない。いくらなんでも身体に悪いよ」

もう今日で1週間も仮眠程度しか取っていないことになる。

塗り箸を持ったまま、眉をひそめる聡に、

「元旦なんて毎年徹夜だしぃ」

将は椀の中の餅を伸ばした。餅の中に昨年の1300キロ走破の思い出がめぐって将は笑顔になる。

40時間かけて萩まで走って、聡の気持ちを確かめた去年。あのときはまさか二人の間に子供ができるとは思ってもみなかった……。

将のお椀が空になったのを見つけて、聡が手を差し出す。お代わりを盛ろうと気を利かせているのだ。

椀を聡に手渡そうとして、箸が床に転がってしまった。

すでに席を立っていた聡がそれを拾って……床についた傷に再び気付く。

「ねえ、将。これ、何の傷?」

「ん?」

聡が指差す方を見た将は、一瞬動きを止めた。

夏の……台風の夜の、大悟との死闘の跡。

「前にここに来たときは付いてなかったと思うんだけど」

「うん……」

この穏やかな元旦とは正反対の夜のことを、聡にどう伝えればいいのか、将は言いよどんだ。

将の顔が暗くなったことで、それは深く追及してはいけないことだと、聡は気付いた。

キッチンに入ると雑煮のお代わりを盛り付けるべく

「お餅は1個でいいよね」

と明るく話し掛ける。

お代わりを将の前に置いたとき、ようやく将は口を開いた。

「夏にさ。俺が、超傷だらけになったときあったでしょ。そんときに大悟が付けた傷」

「……そう」

将の口調は、まるで大悟がいたずらをして付けたかのようだった。

それにあわせて、なるべく『よくあること』のような応答をすべく、聡は目の前に残った最後の伊達巻を自分の取り皿に取った。

だけど、あのときの傷だらけの将を思い出した聡は、同時に胸がつぶれるほどの心配をよみがえらせていた。

覚醒剤に依存する大悟を止めようとして、その大悟本人に容赦なく叩きのめされた将。

床の傷は、何かごつい刃物……おそらく出刃包丁か鉈を力いっぱい振り下ろしたような跡に見えた。

大悟は将に対して何をしようとしたのだろうか。聡は想像しただけで柔らかな伊達巻すらも喉を通らなくなった。

「あ、だけどさ。大悟のやつ、すっかり治ったって」

将は、『なんでもない』口調を崩さずに、餅をたくしあげた。

「本当?」

「ああ。こないだ退院したって西嶋が言ってた。西嶋の弟さんの養子になるんだってさ」

「そう……。よかった」

ようやく伊達巻の味が戻ってきた。

聡が知っている大悟は、出刃包丁を振り回すのにはそぐわない青年だった。

瞳に浮かぶ影は、どことなく将と共通している……そんな将の親友が、今度こそ幸せになることを聡は影ながら祈った。

将は聡を安心させながら、去年の1300キロの旅には大悟も一緒だったことを思い出していた。

あのときの大悟は、骸骨のような覚醒剤依存の姿とは重ならない。

退院した大悟は、あのときの大悟に戻ってくれているだろうか……親友を信じたい将だったが、なぜか心の中の不安は消えなかった。

 
 

聡がキッチンで片付けをしている間、将はこっそりと大悟が使っていた部屋のドアを開けた。

家政婦の手で布団は片付けられていたものの、部屋はそのままだった。

瑞樹の遺品が並べられた祭壇のような一角に将は吸い寄せられる。

小さなガラス瓶に入った骨の粉末、小さな白い犬のぬいぐるみ、そして将と写ったプリクラ写真。

大悟が帰ってきたのなら、これらは渡すべきだろうか。

それとも、傷をほじくり返すことになってしまうのか。

将は瓶を手に取った。

ヒージーのと同じように見える、まっ白な骨がさらりと瓶の中で傾き、将の心は痛んだ。

心の疼痛にそれを元通りに置いた将は、その隣にあるノートパソコンに目がいった。

自分は新しいのを持っているからと、大悟に貸した古いパソコンだ。

これはもういいだろうと、将はそれを持ち去ろうとして……ふと、ネットで見たい情報があったことを思い出す。

自分のパソコンは持ってきていない将は、迷わず電源を入れた。

そして検索サイトのポータルを探すべくブックマークを表示した将は、あることに気付いた。

そこには『SHO』の名前がついたサイトが大量に並んでいたからだった。

掲示板らしいそれらは、どうやら大悟がブックマークしたらしい。

『そういうところは見てもモチベーションが下がるばっかりで、いいことないわよ。だいたい人気があればあるほど叩かれるんだから』

と自分に関する掲示板の類を見ることは、武藤から禁じられていた将である。

もちろんその頃は、忙しくて見る暇もなかったのだが、ここへ来て将はそれを無性に見たくなった。

大悟が見ていた掲示板を見るため。つまり好奇心なんだ、と自分に言い訳をして将はその掲示板サイトに接続した。

しかし……だいたいのサイトは時間が経ちすぎていたせいでなくなっていた。

かろうじて生きていた一つを見て、将は

――やっぱりな。

と苦笑した。

そこには、やはり将に対する罵詈雑言が書き連ねてあった。

「不良」「女好き」「大根俳優」「ゲイ」

芸能人が掲示板で叩かれることくらいわかりきっている将は一種の快感を覚えながら、書き込みを最初から眺めていった。

しかし。

ある1つの書き込みを見つけて、ふいに将の手が止まった。

将は目を見開いてその書き込みを読んだ。

固唾を飲みこむと、目を皿のようにして次へ次へとスクロールしていく。

落ち着け、と言い聞かせても、ばくんばくんと暴れる心臓は止められない……。

その掲示板には、どうやら過去の知り合いが書いたらしき、将の悪行が暴露されていた。

それは実際にしでかしたことだから仕方がないと、将は腹をくくっている。

だが、将を動揺させたのは

『将が同棲していた元カノは、将に追い出されて自殺している』

という一文だった。元カノというのは瑞樹のことに違いない。

その一文を皮切りに、将が瑞樹をいかに酷く捨てたかが、何回かにわけて詳しく書かれてあった。

……ようやく最後にたどりついたとき、左手で覆った口から、大きくため息が漏れた。

苦い唾液があとからあとから湧いてきて、将はそれを必死で臓腑に飲み下そうとした。

唾液は飲みこめばいいけれど、その書き込みをした『犯人』を一度割り出してしまった頭をどうすることもできず、将はうなだれた。

そこには……将と瑞樹しか知らないこと……つまり瑞樹が大悟に話したとしか考えられない内容も含まれていたのだ。