第358話 遠い春(8)

地球温暖化は確実に進行しているのだろうか。

小さなテラスで洗濯を干す聡を、2月最後の土曜日にしては強い陽射しが包む。

気温も今日は15度近くまで上がるらしい。

天気がいいのは昨日からわかっていたから、今日がチャンスとばかりに聡はシーツやベッドカバーまでも洗った。

妊娠8ヶ月のお腹は、洗濯ものを取ろうとかがむたびに動きを阻む。

それでも聡は、1週間分たまった家事を、いつもより丁寧にこなそうと動いた。

動いていないと不安にとらわれてしまいそうだから。

 
 

昨日から2日かけて、東大の前期試験が行われている。

おとついまで休まずにずっと学校に来ていた将だが、その顔色はあまりよくなかった。

目の下には黒々とクマが浮き出ていた。

連日睡眠を極限まで切り詰めているらしいから、体調もよくないのだろう、ということは予想がついた。

聡が心配したのはその表情である。

バレンタインの前までは明るかった表情が、日を追って暗くなっていったのが、聡には何より心配だった。

おそらく、最後に個人的に受けた模試があまり芳しくなかったのだろう……聡には予想できた。

担任教師として結果を聞いてみたのだが、将はそれを頑なに教えてくれなかったからだ。

いつもだったら、あまりよくなくても

「まだまだこれから」

と明るくふるまっていた将だったが、今回ばかりは

「睡眠不足かもな」

と初めて言い訳を口にしたのだ。

そのくせ……教室では、教壇に立つ聡を、これ以上ないほどせつない瞳で見つめる。

自習のときも、他の生徒の目をぬすむように、気がつくと聡を見ていた。

聡は気付かないふりをしながら、将の置かれた立場と心境を理解していた。

将は、いま、とても不安なのだ。

運命の……二人の運命をわける試験を前に……自分の力だけで運命が決まってしまうそんな局面を前に、焦っているのだ。

万が一、受験に失敗したら。

二人はきっと、引き裂かれてしまうだろう。

すがるような、必死で聡の像を焼き付けようとするようなそんな視線は、将の不安の現れだった。

今週に入っても、将の目の下のクマはあいかわらずだったので、さすがに聡は英語の個人授業のときに

「将、そろそろきちんと睡眠を取ったほうがいいと思うよ」

と助言した。だが、将は

「眠れないんだ」

と苦しげに告白した。さらに

「……アキラ。もしも。……もしも、ダメだったらどうしようか」

と初めて弱音を吐いたのだ。

聡は将の苦しげな声に、自らも胸が苦しくなるのをこらえながら

「大丈夫よ」

と答えるしかない。

「将はすごく頑張ったじゃない」

こんな、子供に言い聞かせるような言葉で、将の苦しさが減らせるはずがないとわかっていながら、聡は偽善的な言葉をならべるしかない。

「頑張ったけど……ダメかもしれない」

絞りだすような将の声音は続く。

「もしダメだったら……アキラ、俺と逃げてくれない?」

将は苦しげな中から、明るい声を急に装った。

冗談めかした体裁をとりながら、実はそれは将の本音だということは、聡にもわかった。

逃げることを考えるほど、将はつらいのだ。

聡の心は将のつらさに共鳴して……痛くなる。

すぐそばにいれば……将を、抱きしめてやりたい。

何の解決にもならないかもしれないけれど、疲れて苦しい将が癒しを欲していることだけはわかる。

 
 

もうすぐ卒業。

卒業したら……教師と生徒として日常的に会うこともできなくなる。

もしも将が受験に失敗したら、そのまま会えなくなってしまうかもしれないのだ……。

将と離れ離れになる現実が迫りくる圧迫感と。

そして運命の鍵を将ひとりに背負わせてしまった済まなさ。

それらは……心の片隅に忘れていた考えを、聡の心の真ん中に押し出した。

いつも……聡のために、将はつらい目にあっている、という考え。

自分さえ妊娠しなければ。いや、自分さえいなければ。

将はこのように無理をする必要もなかったのかもしれない……。

将は『聡がいなければ今の俺はない』とたびたび言うけれど。

聡と出会っていなかったら。

星野みな子のような、きっと自分に似合いのかわいい女の子と、それなりの青春を取り戻していたに違いない……。

将のつらさは自分のせい。

そんな考えに囚われた聡の心は……急激に涙を押し出した。

「うん。……いいよ。逃げよう」

今の聡にできることは、せめて将の心の重圧を軽くしてあげることくらいだった。

涙をぬぐいながら答えつつ、そんなことができるはずがないと……聡はわかっている。

だけど、今の将が少しでも楽になるのなら。

「本当に、いいの?」

将は少し驚いたようだ。

今までのことを考えれば当然だろう。将の未来を台無しにするようなことを、冗談でも言わなかった聡だから。

「うん。いいよ」

聡は鼻をすすりながら答えた。

そのとき、『ひなた』がお腹の中で勢いよく動いた。

まるで反論するように。聡のお腹の壁にキックを仕掛けたかのようだった。

聡はハッとして顔をあげた。

――ここまで来て、何を言ってる。

……とにかく、二人は出会ってしまったのだ。

子供だってもう8ヶ月なのだ。

二人が幸せになる確率をもぎとるには、後戻りや逃げはできない。

あわてて聡は付け加えた。

「だけど……まだダメって決まったわけじゃないでしょ。……前期のあとには後期だってあるんだし」

それに二人がたとえ別れるにしても。

突っ走ったものは……できるだけ完走するほうが、将のためなのだ。

頑張りどきの今、逃げ道が本道になってはいけない。

「とにかく、最後だから頑張って。……ダメだったらどうするかは、終わってから考えよ」

聡の励ましに、将は重い口調ながら

「うん」

と答えた。

 
 

卒業式は来週の金曜日。

将に残された学校生活はあと1週間だが、将は今日の試験が終わるなり、再び北海道ロケに入るという。

8話までは貯め撮りしていたけれど、残りの収録があるという。

卒業式のために東京に一度帰ってきて、後期試験までずっと北海道という強硬スケジュールになるらしい。

本当は卒業式は欠席という意見も出たらしいが、将自身が強く出席をのぞんだため、東京にとんぼ返りすることになったのだ。

 

洗濯が終わったら、掃除。窓をピカピカに磨く。

「ほら。ぴかぴかの窓はきれいでしょ。ひなたちゃん」

前に出たお腹は窓みがきには邪魔だったが、聡はお腹の子供に話し掛けながら、腕を左右に動かす。

もしも。将が受験に失敗したら……最悪、卒業式が二人の最後、ということになってしまうかもしれない。

聡はできるだけ、そこに考えがいかないように懸命に動いた。

お腹の「ひなた」もごぼごぼとリズミカルに動く。まるで一緒に働いているようだ。

窓や流し台まできれいに磨きこんでしまった聡は、遅い昼食を挟んで今度は、大量に野菜を買い込み、煮込み料理を作り始めた。

「おいしいポトフをつくろうね」

だが、無理に歌おうとする鼻歌が何度も中断してしまう。

そしてそのたびに時計と……まな板の傍らに置いた携帯に視線が行ってしまう。

もうすぐ前期最後の教科である、英語の試験も終わるはず……。

どうしてもそっちに意識がいってしまうのだ。

あの、弱音を吐いた夜以来、少しは眠れるようになったという将。

だが、最高の難問が繰り出される東大の前期試験に、万全の体制で立ち向かえているだろうか。

センター試験の奇跡は、果たしてもう一度起こりうるのだろうか……。

「いたっ」

ついに包丁が滑って……聡は反射的に親指を見た。

血の気のない、皮膚の切れ目に、徐々に血が滲み出てくる。

傷はさして深くなさそうだったが、聡はビーズのようにふくれた血の珠を凝視して動けなくなった。

――いつか、将の家でこんなことがあった。

あのとき、将は……戯れに指に口づけしようとした。

そのあと……初めて深い口づけをして抱き合った……。

押し寄せてくるせつない思い出が、聡を心ごと飲み込んでいく。

――いやだ。

――将と、離れたくない。絶対に。

聡はその場にしゃがみこんだ。

そのとき。

携帯が鳴った。将だ。