第378話 命日(2)

あれは、気のせいなんかじゃない。

……瑞樹の声だった。

大悟の中で、あの瞬間がリフレインしている。

東京行きの新幹線の中にいた。

各駅停車の……あのとき瑞樹を吹き飛ばしたのとはあきらかに違う形の車両を選んで大悟は乗車した。

――あのとき。

大悟の意識は、たしかに防護柵にかけよって、乗り越えたのだ。

だが。

 

 
 『 大悟、だめ 』

 

大悟に聞こえたのはそれだけだった。

気がつくと、大悟は防護柵の前に佇んで、通過する新幹線からやってくる強い風を受けていた。

我に返ったとき、大悟の体は冷たく、しびれたようになっていた。

誰かがいっていた、金縛りの名残のような……。

――瑞樹。お前はやっぱりあそこにいたんだな。

その瞳には後ろへと飛んでいく暮れなずむ街が映っていたけれど。

大悟はそれを見ていなかった。

心に見えていたのはあの瞬間だけ。何度も繰り返す。

まるで……その一瞬の邂逅をいとおしむがごとく。

――どうして、俺を連れて行かなかったんだ。

心で問いかけてみる。……もちろん返事はない。

――将じゃ、ないからか。

太陽と反対側の窓は、紫色に沈黙している。

それは妖しげにも、悲しげにも、どちらにも見えたが……肝心の答えを出すことはない。

 
 

このまま逃亡してもよかった。

あの犯罪組織には、何の義理も、未練もない。

どこかあいつらが考えもしない地方にでも逃げてしまうのは、まったく可能だったのに。

大悟の足は、『事務所』に向かっていた。

瑞樹のあとを追い損ねて……もうどうでもいい、という投げやりな気持ちと。

それから切実な問題。

ドラッグ……つまりシャブ。

大悟の精神は、正常でいるために最低でも1日4回の注射を必要としていた。

あそこから逃げてしまったら、シャブが調達できない。

シャブが切れた時の……あの爆発的な恐怖、脳や内臓まで引っ張りだして掻きむしりたくなるほどの憔悴を思えば。

大悟は嫌でもそこに帰るしかなかった。

 
 

あたりはすっかり暗くなっていた。

ずっと昼のような明るさの繁華街と違って、今の『事務所』があるのは住宅街だ。

駅前をすぎて、店がなくなると、急にひっそりと暗くなる。

その暗い道を急いでいた大悟の足が、急に止まる。

近くのマンションのタイル壁に赤い光が映っていた。

……規則的に明滅する、危険信号のような光に、大悟は反射的に警戒した。

角を曲がろうとした大悟は、息を飲んで……再び金縛り状になった。

『事務所』があるマンションの前にパトカーが止まっているのを見たからだ。

パトカーは1台ではなく、数台いた。

いずれも屋根の上で赤い光を回転させていた。

――まさか。

硬直しながらも大悟は、電信柱の陰から様子をうかがっていた。

パトカーの出動に、近所の人や通勤帰りのサラリーマンが何ごと、と人垣を作り出したそのとき。

「コラア!放せや、くそったれ!」

姿は見えないのに、エントランスに声が響いた。

カン高い前原の声だと、大悟にはわかる。

まもなく、警官二人に挟まれる様に出てきたのは前原ではなかった。

今度こそ大悟は、「あ」と声をあげそうになった。

尖った靴にサングラスをかけた……組織のリーダー。

白いスーツを着た彼は、両側から警官に押し付けられるようにしてエントランスから出てきた。

前で揃えた両手は布で隠されている。おそらく手錠をかけられているのだろう。

逃げようとするでもなく、周りの視線を気にするようでもなく、ただふてぶてしい表情。

むしろ、その態度は、背筋をそびやかすようにどうどうとしていた。

その後ろから……次々と仲間が連行されてくる。

皆、ややうつむき加減の首から上を、上着で隠すようにして出てくる。

「殺すぞ!クソがぁ!」

狂人じみた罵声と共に、前原が出てきた。

両腕を手錠で固定された上でがっしりと掴まれているというのに、なおも逃れようともがいているのがわかった。

暴れるたびに、警官に小突かれ、腕を引っ張り上げられる。

「バカ面さげて、見てんじゃねえよ!クソがよぉ!」

唾が飛びそうなその罵声が、人垣に向けられて、善良な人々が一瞬ひるむのがわかった。

――バカ面って。てめえが一番バカじゃんよ。

大悟の鼻先から、ふっと笑いがこぼれる。

見ている間に、大悟の『事務所』の仲間たちは全員連行されていってしまった。

サイレンをならしながらパトカーが行ってしまうのを見送りながら……なんとか難を逃れた大悟はほっとした。

気分が晴れ晴れしているのがわかる。

なぜなら。

これで……大悟を縛るものは何もなくなったから。

大悟は本当に自由になったのだ。

「ふふ。ふふふ」

駅へと引き返しながら……あてどもないのに、笑いがこみあげてくる。

嗚咽のような笑い。

通勤帰りのOLがけげんな顔ですれ違っていく。

止めようと思うのに、とまらない。

――自由になったんだ。

――また、やりなおせる。

まだ冷たい早春の夜風でさえ解放感の象徴のように思えた次の瞬間。

ある現実が……夜風を一瞬で氷に変える。

 

   薬。

 

笑いが喉につかえるように引っ込んで……血の気が音を立てるように引いていく。

あの薬は……もう、あと1回分しかない。