第385話 最後の夜(4)

「勉強にならないな」

そういって伸びをした将はベッドに寄りかかった。

さっきまで夕食が並んでいたローテーブルには、パソコンがセットされている。

その中には将の最後のブラッシュアップのために、と聡が選んだ英語のサイトが開いてあり、

それを時間内に英語で要約するという難題を聡は出していた。

その聡は、将に背を向けて、食べ終わった夕食の皿を一心に洗っている。

お膳のような小さなローテーブルには、さっきまで純代が将に持たせたトンカツをメインに聡がつくったこまごまとしたものが並んでいた。

将はそれをすべてきれいにたいらげると

「やっぱりアキラのつくったものは一番おいしいな」

とわざとらしいほどの声を出して見せた。

二人の最後の晩餐――。

その事実を知っている聡は……楽しげな将を見れば見るほど苦しかった。

本当は将を見ていたい。

最後の一瞬まで、今の将を目の奥に焼き付けたい。

将の声を脳に刻み込みたい。

だけど。

将を見つめると……涙がわき出てしまいそうになるのだ。

だから、聡はできるだけ将から目をそらして……料理ばかりを見るようにしていた。

将の声よりも、料理の味に神経を集中するようにした。

純代がつくったトンカツは薩摩黒豚を使っただけあり、時間が経っているにもかかわらず素晴らしく美味しい。

今朝届けてくれた野菜も、おそらく大磯から届いたものなのだろう。

スーパーなどで買ったものとは甘さが違う。

だけど……そんなに美味しい料理なのに。聡はやっぱり集中することができずに……気がつくと将の手元を見つめている。

陽に焼けた長い指。育ちの良さが表れた美しい箸の持ち方。

箸の行く先をたどっていたら、知らず将の顔を見つめてしまっている。

だから、聡の口の中では、肉も野菜も、こらえた涙がまじったせつない味になった……。

 

「アーキラ」

将はとうとう立ち上がると、皿を洗う聡の横に立った。

「手伝う」

「いいよ。もう終わる」

「じゃ、俺がコーヒー淹れるよ」

聡の家の勝手がわかっている将である。

皿を拭く聡の横で、やかんを火にかけ、コーヒーをセットし、飾り棚にあったマグカップを持ってきた。

「アキラ。なんか心配?」

お湯が沸く間、将はわざと聡に体をくっつけるようにした。

横に並んだだけで将の熱い体温に体の左側が溶けてしまいそうだったのに、こうやってくっつくと熱さに甘さが加わわって……それは思わず体が揺れるほどの切なさになった。

「ど、どうして?」

濡れたふきんが皿でキュッと音を立てる。

「なんとなく」

将はそれだけいうと、左側から手を伸ばして、また聡を抱きしめてきた。

聡は持った皿を取り落とさないように、将の腕の間からそっと台の上に乗せるだけでせいいっぱいだった。

「……要約は終わったの?」

かろうじて、切なさとは対極にある言葉を選ぶ。

「コーヒー飲んだらやるよ。アキラ」

こっち向いて、と将はふいに聡の顎をつまむようにしてあげた。

涙が溜まった瞳は、隠す暇もなかった。

「何で泣いてるの?」

聡は答えない。答えられない。

「あしたが、心配?」

将も……聡のそんな顔を写し取ったように切ない顔をしていた。

眉根が寄っているくせに、悲しげな優しげな瞳がまっすぐにこちらに向いている。

溜まった涙が頬へと流れてくれたおかげで、それははっきりと聡の目に映り……思わず見とれてしまう。

でも。

見とれている場合じゃない。

この涙の正体を将に知られてはならない。

とっさに聡は、うなづいた。

つまりこの涙は……明日を愁いているだけなのだと聡は将に目で伝える。

将の眉が下がった。

せつない顔を変えないまま、将は何も言わずに上半身を聡に押し付けてきた。

いつもなら、将の性格なら

『心配するなよ』

『大丈夫だよ』

そんな台詞が出てくるところだが、それを言わずに体を押し付けてくる将。

将も不安なのだ――。

聡にはそれがよくわかった。

もしも。明日の試験で失敗したら……。

今度こそ、二人は引き離されてしまう。

しかも、明日の後期試験は……試験方法が変わって第1回目だ。

どんな出題がなされるかまるで予想がつかない。

絶対に大丈夫、などというのはありえないのだ。

万が一、盲点になっていたところを出されたら、終わりだ。

試験が終わって、たとえ二人で逃げても、権力者である父の康三は……二人をなんとしてでも探し出して、引き裂いてしまうのかもしれない。

それに、万が一逃げおおせても……将は巌から受け継いだ刀に託された遺言を果たすことができなくなる。

将は、今までの人生で最も大きな不安と闘っているのだ。

それがわかったとき、聡の涙は止まった。

将を、不安から救い出さなくては――。

将のために、明日、最大の実力を発揮させなくては。

「……将。ごめん」

聡は将の背中を優しく叩いた。涙はあいかわらず頬を流れているけれど。

「ちょっとだけ不安になっただけ……。きっと大丈夫だよ。将、すごく頑張ったじゃない」

大丈夫。将はきっと、合格できる。聡は自分に言い聞かせる。

「ヒージー……巌おじい様だって、きっと見守ってくれてる」

巌の名前が出て将は少し腕の力を強めた。

それで押されたのかお腹の子供が少しうごく気配があった。

「赤ちゃんのためにも……明日は全力をつくして。ね?」

聡は将の明日のことだけを考えるようにして言葉をつむぎだした。

将の明日だけ。

……二人の明日はすでに違う明日なのだから。

聡の……自分自身の明日は今は考えないようにする。

「アキラ……」

聡の肩にうずめるようにしているから、将の顔は聡から見えない。

顔を見てはげまさなくては、と将の胸をひきはがそうとした聡は、あるものを見てしまった。

それは、キッチンの台の上に並んだ、マグカップだった。

誕生日に将がくれたペアのそれは……今は静かに台の上に並んでいる。

これを二人で使う明日はこないのだ――。

マグカップと、たくさんの思い出と一緒に、将を置き去りにして発たなくてはならない。

あの海。

あの街角。

雪の夜も。

夏の朝も。

夕暮れの教室も。

将がいた場所。

将がいた季節。

すべてはもう

帰れない日々――。

振り返れない日々――。

将の匂いに包まれた聡は、いま再び目が熱をおびてくるのを止められない。

将の背中から腕へと移動した両手が震えて……再び背中に戻る。

押し付けられたお腹は再び動き始めた。

再びしがみついた聡を将は何の迷いもなく抱き寄せる。

お腹を気づかっているのか、その力の込め方はどこか優しい。

将の声が聡の中に蘇る。

 

アキラ、アキラ……。

 

低いくせに少年の青さを残した声音で、何度呼ばれただろうか。

将は。

自分を失って。

どうするんだろうか。

 

『俺の人生はアキラ次第なんだ』

『アキラなしの人生なんて考えられない』

『アキラと離れるなんて死んだほうがましだ!』

 

そう叫んだ激しさのままに、まさか死を選んだりはしないだろうか。

「しょう」

聡は涙のままの顔をあげた。

「あきら」

自分を見下ろす将の顔は……不安げな子供のようだった。

親と別れなくてはならない子供のようなその瞬きに、聡は一瞬、将がすべてを知っているのかと錯覚しかけた。

それほど、悲しげな顔だった。

「がんばって」

聡は将の頬に両手を伸ばした。

男っぽい顔のくせに少女のような唇が、声のないまま聡を呼ぶ。

「……何があっても、乗り越えて。将が乗り越えてくれれば、あたしも大丈夫だから」

「あきら……」

「ね……?」

それは聡の本心だった。

将を捨てなくてはならない悲しみ。

生きたまま体の一部を引きちぎられるような心の痛みも……将がそれを乗り越えて、幸せになれるのなら、耐えられる。

将の明るい未来につながるのなら、大丈夫。

いつか、巌の遺言を果たした将を、遠くから見守ることができるなら、それでいい。

 
 

将は、歯をくいしばるようにしてうなづきながら……違和感を感じていた。

こうやって抱きしめていても。

甘い香りやぬくもりを感じていても。

せり出たお腹から胎動が伝わっていても。

どこか、今日の聡ははかなげに思えた。

まるで。

……このまま、永遠に別れてしまうような。

聡は、明日の試験にそこまで危機感を覚えているのだろうか。

将が、もう少し聡のその瞳の真意を確認しようとしたとき、やかんが沸いた。

「コーヒー、あたしがいれるから」

涙を指でぬぐうようにして微笑みをつくると、聡は将から離れてしまった。

だから、将は……このときも気づくことができなかった。