第40話 寝室(1)

タクシーをつかまえ、急いで家に帰った聡は、もう一度体を点検した。

あんな格好で倒れていたということは、意識を失っている間にレイプされてしまったかもしれないからだ。

自分でわかる限り、その痕跡はない――聡は少し安堵したが、何をされたかわかったもんじゃない、と寒気がして、あわててシャワーの栓を捻った。

「!」

シャワーからは冷水が出てきた。

いつもは蛇口でお湯に変わるのを確かめてからシャワーに切り替えるのに、あわてた今日はそれを忘れたのだ。

今日の冷え込みに蛇口の水は凍る寸前のように冷えていた。その水の冷たさに、川の水の冷たさを……そして水に濡れた将がはっきりと蘇った。

ガラが最悪に悪い、不良どもに殴られ、川に放り投げられる恐ろしい光景と共に。

――たった一人で助けに来てくれたんだ。

来てくれなかったら今ごろ自分はどうなっていただろう?

それを想像すると、シャワーが温かい湯に変わっているのに聡は震えた。

手早くかつ念入りに体を洗うと、髪の毛を大雑把に乾かしながら携帯でタクシーを呼ぶ。

今、夜の10時になるところだ。

生乾きの髪は1つにまとめ、Tシャツ、セーターにジーンズを身につけて無化粧でコートを再び羽織ると、ちょうど来たタクシーに乗り込む。

 
 

 
「センセー、将のやつ、すっげー熱出てる」

マンションに戻ってきた聡を出迎えた井口は、開口一番、そのピアス顔を心配そうにゆがめて将の容態を伝えた。

寝室で将は赤い顔をして目を閉じていた。あいかわらず殴られたアザが痛々しい。額に汗を浮かべ、苦しそうに口で息をしている。

聡は将の額にそっと手を乗せた。今まで何度か同じ行為をした中で一番――すぐに手を引っ込めたくなるような熱さだった。

若い男があまり熱を出すのはいけない、というのを聡は思い出した。

「保冷材ある?」

「あるけど、あっという間に溶けたから今冷やしてる」

聡は舌打ちした。うちから余分を持ってくればよかった。

「薬は飲んでた?」

井口は首を横に振った。

「シャワーから出てきたらすぐ寝た。いちおう枕の下に氷入れてるけど……」

ビニールに二重にくるまれた氷がタオルにくるまれて枕の下にある。意外に適切な処置だ。

でも、次の氷が固まるまでに溶けてしまうだろうと思って聡は、井口に1万円札を渡して「これで氷と保冷材と製氷皿を買ってきて。氷はいっぱいね」と頼んだ。

赴任直後の事件や万引き未遂で捕まったことを考えると、この生徒にお金を渡すのはどう考えても無謀なのだが、今の井口は信頼できる気がした。

「わかった」

井口は神妙にうなづいて金を受け取ったが、次にニヤッと笑って

「な、ところでセンセイ、ホントに将とはエッチしてないの?」

と訊いてきた。聡はドキッとする。実はまさに昨日、この場所で、そうなってもいいと思っていたからだ。

「してるわけないでしょ!」

心にやましいところがある聡は、語気も激しく否定した。

「ふーん、そっかぁ。ずっと前から絶対デキてると思ったのになあ」
「バカなこといわないで早く買ってきて。あ、そうだ牛乳も買ってきて」

「で、チューはしてるんだろ?」

……ヤバ。聡はたじろいたが、

「……し、してないっ!だいたい、井口くんが想像するような関係じゃないですッ」
「ふーん、そー?」

いぶかしげな井口の目が笑っている。

「そうッ」
「でもさ将、センセーの名前寝言でずっと呼んでたしぃ。……じゃ、いってくる」

井口はガタイのよい体と金髪を揺らして、買い物に出て行った。

井口が出て行ったあと、聡は将の枕もとに戻った。

ベッドの脇にひざまづくと、乾いたタオルで額に浮かんだ大粒の汗をそっと押すようにぬぐう。と、将の瞼が静かに開いた。

「アキラ……」

声がかすれている。起きたとたんに苦しげな咳が吐き出された。

「ごめん、起こした?」
「あんな大声、誰だって起きるよ……」

咳を挟みながら、将は苦しげに明るい声を出そうと努めている。

「ごめん。……ねえ、薬飲まない?」

聡は水薬を持ってきた。昨日病院でもらったものだ。

「ウソは……いけないよ」

将は苦しい咳の下からつぶやいた。

「チュー、したじゃん、もう何度も」

アザだらけの顔で微笑んで見せると、布団の下から手を伸ばしてきた。

「俺、すっげー嬉しかったんだ、昨日」

将は聡の髪をなでた。

「さっきだって……。アキラの……人工呼吸だから俺は生き返ったんだ……」

声はかすれ、唇を通る空気だけで、一生懸命言葉をつむぐ。その間にもヒューヒューと苦しげな息がまざる。顔はますます赤くなり、汗が流れ落ちる。

「将……もういいから」

聡はその汗をぬぐった。目が熱くなるのをまたたきでこらえる。

「ねえ……、またやってよ……」

将は水薬を指差した。つまり、口うつしで飲ませてくれという意味に聡は少し躊躇した。

ほとんど忘れているけれど、今朝まで聡は将との関係を清算するつもりでいたのだ。

針でつつかなくては出てこないような隅にこびりついた、教師としての義務感がかろうじて聡をためらわせていた。

が、将は自分を命がけで助けてくれたのだ。

それに対する恩という大義名分のようなものが、将への聡の思いを正当化し、抗いがたいものにした。

義務感は大義名分にあっさりと負けた。

聡は甘ったるい水薬を口に含むと、将に上からのしかかるようにして自分の唇を将の唇に押し当てる。

将は、せまりくる聡の顔を見ながら、聡の背中に腕をまわした。

唇がふれあう瞬間、二人とも同時に目を閉じた。

将は音をたてて聡の唇から薬を吸った。

上半身は密着して聡の豊かな胸はセーターごしに将の胸のあたりにふんわりと温かな弾力を与えた。

将の唇も口の中も切れていてかなり痛んだが、そんな痛みはどうということはない。

聡を守るために得た痛みは逆に勲章のような誇らしさを将に与えた。

……聡とのふれあいはモルヒネなのだ。すべての苦痛も忘れられるかわりに、もっともっとほしくなる。

将は薬を全部吸い尽くしたにもかかわらず、聡と舌をかわしていた。

唇から糸をひいて、聡が離れた。「口の中が傷だらけ」と。

甘い薬を将が飲んでしまうと、塩辛く、鉄臭い味が聡の舌に伝わった。聡は将の血の味が嫌だったわけじゃない。痛みを気遣ったのだ。

「いいんだ」

将は聡をまた抱き寄せた。

「ダメ。もう寝なきゃ」

聡はアザだらけの将の顔に向き直ると、汗で濡れた額に口づけをして布団をかけなおした。

「ずっとついてるから、寝なさい」

その言葉に将は安心して目を閉じた。

聡は正直なところ、博史のことも、義母のことも、そして自分が教師であることも忘れてしまっていた。

 
 

 
まもなく、井口が戻ってきた。彼なりに気を利かせて、サプリメントや、ドリンク剤、桃缶も買ってきていた。

「将寝てる?」と寝室をのぞく。
「うん。今薬を飲んだから」

「あっそー」

なぜか井口は聡の顔をじーっと見た。

聡は再びドキっとした。まさか顔に『口移しで薬を飲ませました』とは書いてないだろうに。

聡は自分の顔がみるみる熱くなるのを感じて思わず顔をそらしてしまった。井口はプッと吹き出した。

「センセー、中坊みたいだなー」

あーおかしーと笑い出す。

「邪魔だろうから、俺帰るわ」
「そんな、井口くん……」

といいつつ聡は井口が泊まるといっても困るのだが。ずかずかと玄関へ向かう井口を聡は追った。

「あの、どうもありがとうね、井口くん」
「こっちこそよぉー」

靴を履いた井口は振り返った。

「まえにケーサツに捕まったのをガッコに言わないどいてくれてサンキュ」

ちょっと照れくさそうに体を揺らしてそっぽを向きながら、初めて聡に礼を言った。そのようすは案外可愛らしい。

「あ、そうだ、あとよ」

井口は体を揺らすのをやめて聡に向き直った。

「瑞樹のやつには気をつけたほうがいいぜ。あいつ、将をとられて、ブチ切れてるはずだから。センセーに」

聡は駅で瑞樹に話し掛けられたそのときに、薬をかがされたことを思い出した。

「なんで葉山さんが……」
「将の元セフレなんだ、あいつ」

「セフ……?」

唐突だったので聡は一瞬意味をうまくとらえられなかった。井口は、その単語をもういちど繰り返して

「もっとも瑞樹のほうは、そう割り切ってなさそうだったけどさぁ」

と付け足した。だとしたら、今回のことは瑞樹がたくらんだことなのか。

「今日も相当ヤバかったんだろ」
「……うん」

「あいつ、コワイ女だし、今回だけで諦めるとは思えないからサ。気をつけときー。じゃーね、センセー」

玄関のドアをあける井口の金髪が、吹き込む風で揺れた。外は寒そうだがそのまま出て行く。

「わかった。ありがとう」

聡はススキの中で迷子にされたように、心が揺れた。瑞樹との関係に投影させられた、将の『男性』としての側面にとまどったのだ。